第36曲 胡蝶の祝い紋
「エセン、あんたね、いま大事なとこなんだから、動くなっつってんでしょーが」
塗料の女神レゼーラがおっさんくさい溜め息をついていったん手を止めると、エセンの額を指先で突いた。
真珠のような艶のある白い肌に、黄金そのもののような波打つ金髪、けぶるような菫色の瞳、少し下がった目尻に泣きぼくろ、凹凸のはっきりした肢体。
男の夢と浪漫を詰め込んだような見た目ながら、中身はわりとおばちゃんである。
いまエセンはレゼーラの研究室に連れ込まれ、手首をがっしり掴まれて、左手の甲に筆で模様を描かれているところである。
この地域の伝統で、花嫁は結婚式のひと月ほど前から手の甲に染料で装飾を施すという習慣がある。
初めは黒っぽい染料がひと月かけて徐々に褪色し、式当日を迎える頃にはきれいな薔薇色になるのだ。
装飾の絵柄については、何百種類もの伝統柄がある一方で、自分で意匠を考える者もいる。
エセンは図案集を見ていて、ここのところ縁のある蝶の意匠に目が止まり、それに決めた。
蝶には魂、再生など多岐にわたる象徴的意味合いがあるのだが、蛹から羽化する様が、少女が婚姻を通して大人の女性に変化してゆく姿になぞらえられ、花や孔雀と並んで選ばれることの多い図案である。
「ねぇレゼーラ、これほんとに消えるの?」
「ただの植物染料だからね。普通は消えるんだけど、あんたの場合はどうかねぇ。普通通りにいかないのがエセンの通常営業だろ?あたしはそこまで責任持てないよ」
「えぇぇ〜…」
「それで、例の件はどうなったのさ」
「あ〜……」
エセンは空いている方の手で、牛酪色の癖毛をわしゃわしゃとかき回す。
「瑞蝶を使って時空を越える方法はマリアロに教えてもらったから、まずは前回の応用で瑞蝶を復活させてみるわ。でもそのあとがねぇ、第八世界の座標がわからないことには、飛ばしようもないし…」
時間の止まった空間に生身の人間が入って動けるものなのかも、よくわからない。
現時点では、手探りで進んで行くしかないだろう。
「そもそもあの星の譜ってのは、なんなの?星印が不規則に並んでいるだけにしか見えないんだけど、どうやったら譜面になるわけ?」
「なんとなく?」
「出た〜、エセンの『なんとなく』。なんとなくで済んだら、警邏と研究者はいらないんだよ」
本当は頑張れば説明できなくもないのだが、多分に感覚的な要素を含むため、エセンはたいてい「なんとなく」で済ませてしまう。
星の譜の原本は、黒い紙に七色の星が銀河のように散りばめられた、見た目にもとても綺羅やかなものだが、焦点を遠くへ合わせると、そこにうっすらと七本の横線が、二組ごとの等間隔で現れる。
そのまま、焦点を少しだけ手前に戻すと、その七本線の上に乗っている特定の星々が、光って見えるのである。
これを音符に読み替えたわけだが、あまりに手が込んでいるので、この譜を拾った誰かが暗号に気づくかは、かなり確率の低い賭けと言わざるを得ない。
あるいは古大陸の人特有の何かによって、読み解いてくれる誰かに届くという確信があったのか。
いずれにしても、ここまでするということは、簒奪者側の人間に露見することを相当に恐れていたのだろう。
「できたよ。あとは一時間置いて、洗い流せばいい。大丈夫だとは思うけど、万が一かゆみが出たら、ポランに薬でももらいな」
「はーい。ありがと、レゼーラ」
左右の手の甲には、黒い染料で描かれた蝶が一頭ずつ、繊細な模様の浮き出た翅を休めていた。
中天の満月が、ことのほか大きく見える夜。
宴はまだまだこれからと、クープの中心街はそれ自体が脈動するかのように、生命力に満ちている。
濃紫の車は繁華街を後ろに、三日月橋を渡り切ったところだ。
ラーゼ河の水面を渡って届く街の喧騒が、近づいたり遠ざかったりするその柔らかな騒々しさを、エセンはこよなく愛していた。
空気を読める安全運転の騎士シャルリアンテは、先ほどまで乗りのりで歌っていた映画『空色木綿』の主題歌を、すでに歌いやめている。
河沿いの道を走ると、対岸の灯りが街の形をそのまま、月下に浮かび上がらせているのが見える。
「ねぇ、ラハーレ」
隣に座るラハーレは、呼びかけに応えるように目元を緩めてエセンを見た。
「龍の仔って大きいのかしら」
ラハーレは少しだけ困ったような表情になる。
「さぁ、どうかな。親が山ほどの大きさであれば、子どももそれなりに大きいのかもしれないが、」
「もしもよ、白龍の仔を無事に助けられたとして、その仔が他に行く当てがなかったら、うちに来てもらってもいい?」
一生のうちに一度でも、龍を飼ってもよいかと聞かれる人間が、この世にどれほどいるだろうか。
困惑しつつも、ラハーレはエセンの期待するような眼差しに否とは言わなかった。
「できる限り、希望に添えるよう努力はするよ」




