第34曲 星の譜
翌日の朝には、ジャヌーアが仕立て屋を連れてラハーレの館へやってきた。
婚礼衣装の打ち合わせである。
ジャヌーアが品よく微笑みながら、仕立て屋を紹介した。
「このたびお世話になるペレガ礼装店さんですよ」
「ペレガと申します。婚礼はひと月後と伺いましたのでね、ちゃっちゃと始めますよ!」
ちゃきちゃきの眼鏡女史が、紫縁の眼鏡をきらんと光らせた。
両手にぴんと張った巻き尺が鞭のように見えて、エセンは震え上がった。
自由を尊ぶエーレ中立国では、夫婦となるにあたり決まった形式はなく、書類のみでも婚姻は成立する。
エセンが養父母により売られそうになっていたことから、ラハーレとエセンは書類婚で用を済ませていた。
地域的な伝統の装束や風習は存在するが、他国の装束を取り入れたり、経済的に余裕のない者であれば普段着に近かったりと、さまざまである。
国教というものもないので、たいていは自宅や地元市の会議場などで披露宴をして終わりである。
評議会の初代第一席ラムノーが、研究所の初代所長キヨシに国教について相談したところ、そんなめんどくさいものはいらん、無神論者だっていいし、みんな好きずきに八百万の神を信仰すりゃあいい、と答えたらしい。
そんなわけで、特定の宗教儀式はないものの、国の母体となった豪族の風習はそれなりに継承されており、衣装についても伝統の型だの刺繍だのがある。
今回ジャヌーアが仕立て屋に作らせようとしているのは、この伝統に則った格式ある衣装である。
「ハヌミラは、娘の衣装にいつか手づから刺繍を入れるのが夢だと話していたのですよ」
ハヌミラというのは、エセンの母の名である。
母代わりとなるジャヌーアにそう言われては、断れるはずもない。
元より結婚式というものにこだわりもなく、するつもりもなかったわけで、エセン自身に衣装をどうこうしたいという希望はない。
であれば、伝統の衣装でも問題はないのであるが。
内心、ちょっといいお出かけ着くらいで良かったんだけどなぁ、とぼやきながら観念するエセンだった。
エセンの晴れ舞台となれば、当然黙っていないのが研究所の御老公である。
「よいかや、エセンちゃん。わしゃあ、親族席に座るぞ!何せ、エセンちゃんの祖父代わりじゃからの」
「だからおじじ、親族席は設けないんだってば」
研究所の秘境と称される別棟に呼び出されたエセン。
あくまでもエセンの祖父として参加するのだと、御老公は主張を曲げない。
実は地獄耳のくせに、都合の悪い時だけ聞こえないふりをするのでたちが悪い。
「あら?これなにかしら」
エセンはふと、卓の端に置かれた黒っぽい紙束に気づき、手に取った。
「ああ、それは古大陸の遺物から写し取ってきたもんだわぃ。今のところ何のためのものだか、さっぱりわからんがのぅ」
星が散りばめられたようなそれを見たエセンはぴんと来て、琥珀の瞳を輝かせた。
「なんじゃ、何か思いついたんか」
「おじじ、これ複写とっていい?」
「そりゃかまわんけども、成果出たら報告せいよー」
エセンは弾む足取りで別棟を出ると、さっさと研究所を早退することに決めた。
研究所の電話室から自宅へ連絡をとり、シャルリアンテに迎えに来てもらうよう手配をお願いしてから、ベケル研究室へ向かう。
各研究室に電話がないのは、研究馬鹿の所員たちが揃いも揃って、着信によって研究が中断されるのを嫌うからだ。
かわいそうに、電話交換手のお嬢さんたちは、着信のたびに広い所内を走らされるのである。
早退と言っても、研究所はあくまでも成果主義であって、勤務時間が定められているわけではないので、夕刻の早い時間に帰ったとて誰に責められるわけでもないが、一応師匠のベケルには声をかけておいた方が良いだろう。
「早退はかまわんがな、エセン。わしは祖母席に座るからな」
「………師匠まで…」
「それなら私は姉の席だな」
ちょうど居合わせたポランまでそんなことを言い出したので、エセンは長居は無用とばかりにさっさと逃げ出した。
濃紫の車で迎えに来てくれたシャルリアンテはいつもの安全運転で、中高年に好まれる歌謡曲をうたっている。
こぶしの回し方が堂に入っており、これは相当歌い込んでいると見える。
事前に連絡は入れてあったので、迎えに出たラプソンとヨンカに驚く様子はないが、この時間に帰ることはあまりないので、何かあったかな、という表情はしている。
ビョルクは遊びに出ているようだ。
「しばらく部屋にこもるから、よろしくね!」
挨拶もそこそこに、エセンは自室へ駆け込んだ。
相変わらずがらんとした、物の少ない白い部屋に、しんと佇む黒い鋼琴。
かつては友人のものであり、今となってはエセンにとってかけがえのない相棒となったそれの鍵盤蓋を開けて、譜面台に紙束を置いた。
細い指が、象牙の鍵盤の上を滑り出す。
それは、なんとも名状し難い、この世ならぬ音の連なりであった。
開けたままの扉脇に、ヨンカが呆けたように立ちすくみ、その足元をジンシャーが走り抜けて行く。
その勢いのまま、ジンシャーがエセンの膝に跳び乗るが、すでに彼女は星の譜に没頭していた。
エセンの上着の隠しから、かつてラハーレの母のものであった懐中時計を咥えて引っ張り出すと、ジンシャーはまた床へ降りて鋼琴の下へ入り込んだ。
鎖を咥えて、器用にも左右に振る。
やがて庵のときと同じように、ゔぅん、とふたつの振動が共鳴し、そこに少女のものと思しきほそい声が微かに聞こえた。
「誰か、助けて……」




