第32曲 最後のひとかけら
「それでエセンちゃん、鋼琴の下で寝るのをやめたんじゃろ?」
「おじじ、その情報どっから掴んでくるの…?」
ヨンカが、私じゃありませんよと貌の前で手のひらを振っている。
ギレア帝国からラハーレを回収して戻ったエセンは、自室の鋼琴を見るなり息を呑んだ。
ひとつだけ青かった蝶番が、なんの変哲もない金色になっていたのだ。
モナが完全にこの世界のしがらみから解き放たれたのだと、理屈抜きに理解したエセンは微かな淋しさを押し隠し、口元にちいさな笑みを浮かべた。
「よかったね、モナ」
駱駝色の毛布を抱えて裸足のまま歩き出すエセンを、ジンシャーが優雅に毛づくろいしながら見送っていた。
すでに深夜に近い時刻だったが、廊下には仄かな常夜灯がともっている。
目的地を決めずに広い館内を歩いていたエセンは、室内の灯りが戸の隙間からじわりと漏れ出す部屋の前で足を止めた。
「ラハーレ、まだ仕事してるの?」
軽くこんこんと叩いてから扉を開けると、ラハーレはいつもの黒眼鏡をかけて、何やら書類に目を通しているようだった。
「ああ、少しだけ。なんだ?何かあっ…」
眼鏡を外し、扉の方へ向き直ったラハーレは、駱駝毛布を抱えたエセンを見て固まった。
「モナもいっちゃったし、今夜から、どこで寝ようかなぁと思って、」
眼鏡と書類を卓上に投げ出したラハーレは、もはや何も言わなかった。
エセンを掬い上げるようにして腕へ抱えたラハーレは、そのまま奥の寝室へ向かった。
「それで、それでどうなったんじゃ!」
「ラハーレ意外と決めるときは決めるじゃん」
「祭りじゃーーーー!」
一連のやり取りを聞いたお歴々が騒ぎ出すと、行政長ジャヌーアまでもがそわそわし出した。
「あ、こういうときはどうしたらよろしいのでしょう。三日夜の餅?新郎の靴を隠す?」
「それ、東方のだいぶ古い慣習ですね」
「とりあえず、ふたりを肴に呑もうぜ!」
「それ賛成」
シャルリアンテがにやりと親指を突き出してから、部屋を出て行った。
食事や飲み物を手配しに行ったのだろう。
エセンはぽかんと口を半開きにし、ラハーレはもはや目を閉じて諦めの面持ちだ。
話題のふたりをさんざん質問攻めにしながら塔の天辺で繰り広げられた宴は、朝日が昇るまで続いたのだった。
夜を徹した宴もお開きとなり、白茶けた早朝の繁華街を濃紫の車が走り抜けて行く。
子どもたちはさすがに日付が変わる前に、別室へ寝に連れて行かれたので、後部座席真ん中のビョルクは元気である。
レゼーラにもらった三十六色の練蝋絵筆箱を抱きしめ、ご機嫌に笑っている。
対する大人組は、だいぶ疲労感が色濃い。
「レゼーラちゃんは、すごいねぇ。きれいな色、いっぱい」
「そうねぇ、この車もレゼーラが塗り直してくれたのよねぇ…」
エセンは朦朧とした口調で、ビョルクに答えた。
「えっ、もともとこの色じゃなかったんですか?」
「そうよぉ。ジンシャーの色に惚れ込んで同じ色を作って、試し塗りしたいからっていつの間にか塗り直してたのよ…」
足元のジンシャーが、したり顔でくふんと鼻を鳴らした。
元は黒かったラハーレの車だが、運転するシャルリアンテも気に入っているようだし、別に悪い色でもないのでそのままにしてある。
朝の体操に使われる曲を口ずさみながら、いつもより弱々しい動きでシャルリアンテが親指を立てた。
館へ戻ると、ひと足先に帰らせたヨンカ、執事ラプソン、新型仙人掌と並んで財務局長トルエミスに出迎えられた。
「え、なんでいるの?」
「少し前に、ラプソン殿と趣味の交流会で知り合いましてね。意気投合しまして、こうして互いに行き来する間柄なのです」
「趣味の……交流会?」
さすがのラハーレも、徹夜明けでろくに頭が働いていないようだ。
すぐにでももらった画材を使ってみたそうなビョルクを部屋に向かわせ、あとは寝るだけなので世話はいらないと告げると、ラプソンとトルエミスは新型仙人掌の一体と共にラプソンの私室へ消えて行った。
特に隠しているようでもなく、扉は細く開いていたので、興味本位のエセンが覗いてみたところ。
「それ、私の城ですよ!」
「この世は弱肉強食、世知辛いのです」
「仙人掌くんもなかなかやりますね」
「!!」
「あ、城、動かしましたね?」
「はは、私の勝ちですかねぇ」
実に楽しそうな様子で映写機に向かい、小さな入出力機を操作しながら、映像の中に浮かぶ何かをとったりとられたり動かしたりしているようだ。
「ラプソン、まさかの電子遊戯愛好家だったか…!」
ラハーレの懐に潜り込んで、気絶するように眠りについたエセンは、極彩色の夢を見た。
空飛ぶ靴を履いたラプソンが仙人掌の大群を連れて、同じく空を飛ぶビョルク率いる練蝋絵筆軍と戦っているのを見たエセンは、夢の中で大笑いした。




