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庵の記憶

暮れなずむ空が、ラーゼ河の向こうへ落ちゆこうとしている。

暑気が引き潮になるのを待ち侘びた人々が、午睡から目覚めて動き始める時刻。


大欠伸とともに鋼琴(ピアノ)の下から這い出したエセンは、夫の姿に動きを止めた。

厚手の敷物に胡座をかき、漆喰の壁に背を預けて、何やら仕事をしているらしい。

電子端末の青白い光が、端正な(かお)を照らしていた。


夫の書斎には立派な机があり、そちらの方が仕事をしやすいだろうと思われるのだが、何故か時折、こんなふうにエセンの部屋の床で仕事をしていることがある。


エセンが起き出したことに気づいたラハーレは端末を閉じて、仕事の時だけかける黒縁眼鏡を胸元にしまった。


「どこで拾った?」


唐突な問いかけに、けれど殿下ちゃんのことだと察する。

エセンは少しだけ云い淀んだ。


「…………爺様の、」


ラハーレがほんの僅か、目を見開く。


二人の出会いは、実は件の古代猫の一件で保護された時ではない。

エセンがまだ殿下ちゃんくらいの年頃だった時分、親に構いつけられなかった彼女が、研究所の他にしばしば出入りしていた場所がある。


それが、ラハーレの血の繋がらない祖父が住まう庵だった。

海沿いの崖近くに立つ庵にエセンが迷い込んだのは、偶然だった。


そこに、まだただの少年だった頃のラハーレがいた。


小さな庵は、石畳を敷き詰めた通り土間を挟んで左、膝ほどの高さに異国情緒漂う畳四枚余りの寝間があり、右手に水回り設備が集約されていた。


(まど)からは杏色の西陽が差し込み、石畳の上に漂う塵を照らし出していた。

うつくしい(こえ)の女が、何処かで聖母讃歌をうたっている。


畳部屋には、東洋人らしい造作の翁が作務衣に身を包み、文机に向かって書物の頁を()っていた。


その奥、曲げた片膝を抱えて土間に反対の脚を下ろし、柱に背を預けた男は、洋の東西がほどよく入り混じった、どこか中性的な貌立ちをしていた。


男は僅かに顎を上げ、眼前に立つ少年を(しず)かに眺めていた。

その視線には温度が希薄で、見ているようでいて実は何も見ていないように思われた。


少年のほそい両手は、男の(くび)にかかっていた。

さほどの力を込めているようには見えなかったが、その両掌は男の頸周りを隙間なく囲っていた。


怒りや憎しみといった激情はそこにはなく、時の流れが大河のごとく揺蕩い、ほんのまたたきほどのあいだ、その動きを止めようとしていた。


ーーーそのあとどうなったのか、エセンの記憶には残っていない。

ただ、あの聖母讃歌が古い蓄音機から流れていたこと、あの三人が祖父・息子・孫の関係にあり、祖父と息子は養子関係であること、ラハーレの父はその後一度もすがたを見ていないが、ラハーレや執事の口ぶりからして、少なくとも生きてはいるらしいことは知っている。


庵の通り土間を抜けた先は裏口になっており、扉はたいてい開け放たれていた。

その向こうには崖の上の緑と(そら)が見えた。


いつだったか、この裏口から出ていった者は真の自由を手に入れることができるのだよと、翁は(わら)っていた。

そしてある日、翁は裏口から出て行って、そのまま戻って来なかった。


数年のあいだラハーレはひとりで庵に住み続け、エセンは時折ふらりと立ち寄った。

返事があってもなくても、エセンはあれこれと喋ってはお賑やかしをしていたが、ラハーレの父親について自分から尋ねたことは一度もない。


ラハーレもまた、うるさそうな素振りを見せることなく、読みものの合間に相槌を打ったり、ごく稀にではあるがエセンの突拍子もない悪ふざけに付き合うこともあった。


一時期、エセンが研究所で遊んでいるときに偶然、調合してしまった強力消臭洗剤を庵に持ち込み、ふたりで民家の庭先に忍び込んでは男物の靴下を盗み出し、無臭にして返す、ということを繰り返した。


当時まだ脇の甘かったふたりは、ひと月ほどのち街の警備兵に取っ捕まったが、壮年の警備隊長は、不法侵入についてはこっぴどく叱りつつも、なんだか情けないような微妙な表情でふたりを釈放した。


数日後、警備隊長が研究所にいたエセンを訪ねてきて、洗剤を売ってくれと云った。

研究所のお歴々にはひそかに「一発芸のエセン」と呼ばれる彼女が、洗剤の製法を珍しくも再現できたので、古参研究員の勧めで特許をとり、市場通りの薬局に持ち込んで販売した。


そんなある日、ラハーレは情報の管理統合事業を立ち上げ、その技術は国の情報面での防衛力を飛躍的に引き上げることとなった。

起業から一年も経たずして国の中枢へ食い込むほどに頭角を現した彼は、いつしか白亜の館を手に入れていた。


庵は金目のものがあるでなし、もとより鍵らしい鍵もなかったので、そのままになっていた。

そこにいつの間にか殿下ちゃんが入り込んでいた、というわけだ。


「いつからだ」

「一昨日からいたみたい」


いくらかの待ち合わせはあったようで、肉を挟んだ平焼きパンを市場の出店で買っていたと、複数の目撃情報が上がっているという。

年配者を除けば濃い髪色の多い地域なので、殿下ちゃんやエセンのような明るい色彩の頭髪は、なかなか目立つのだ。


「よく悪い人間に拐かされなかったものだ」


見た目では分からないが、意外と運の強い子どもなのかもしれない。


夕まぐれの風とともに、半開の窗から濃紫の古代猫が滑り込んでくる。

軽々と跳躍したと思えば、エセンの頭を踏み台にして床に下り、廊下へ小走りに出て行った。

複数の自動車がこちらへ近づいてくる駆動音が聞こえてきていた。


「ちょっと、古代ちゃん!」

「ーーー本人から何も聞き出せないうちに、先にあちらが動いたな」

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