第23曲 庵のマレーレ
周囲に他の人家もなく、ただ海風の吹き荒ぶ崖上にひっそりと立つ庵は、あの頃とさして変わらないように見えた。
エセンが初めて訪れたときと同じ、杏色の西日が差し込む時刻。
ラハーレが定期的に人をやって掃除を頼んでいたようで、室内は埃っぽさもなく、今にも翁がひょいと姿を現しそうで、さしものエセンも少し泣きそうな気分になった。
シャンス、グレカディオ、シャルリアンテの三人は、扉の外で周囲を警戒しつつ待機している。
「母が最期に暮らしていた厨子二階は、母を見送った時以来、私は入っていないんだ。掃除も最低限だけにしてもらっている。おそらくそのどこかに鍵が隠されていると思う」
ラハーレは四畳半の奥に設置された階段箪笥に手を掛けた。
上がってみると、天井の低い厨子二階には木箱がいくつも積まれて、意外にも物が多い。
さて、この中からどんな形をしているかも判らぬものを探し出すのか、とややうんざりしたところで、
「あ、ちょっとジンシャー?」
濃紫の古代猫が、器用に階段箪笥を上ってきたと思えば、その勢いのまま窓辺へ突進した。
虫籠窓にとりついて、縦格子の隙間から短い前脚を伸ばしている。
顔を隙間に押し付け、かかかかかっ、と忙しない仕草で格子の向こう側を引っ掻いているようだ。
見守るうちに爪先に何かを引っ掛け、しゃらりと内側へ引き込んだ。
「懐中時計?」
「うっすら見覚えがある。おそらく母のものだ」
得意そうな様子のジンシャーを褒めてやってからエセンはそれを受け取り、砂埃を払いながらとっくりと眺めた。
金鎖のついた小さな懐中時計は蝶の意匠で、蓋に七色の小さな石が散りばめられている。
「よく風で飛ばなかったわね」
「隙間に上手いこと隠していたのだろう」
まず間違いなくこれが鍵なのであろうという直感はあるものの、さてどうしたものか、とエセンが考え込んでいると、お手柄ジンシャーが今度はさっさと階段箪笥を降り始めた。
他に手掛かりがあるでもなし、エセンとラハーレは一度目を見合わせてから、後を追って下階へ向かった。
ジンシャーが後ろ脚で二本立ちになって、蓄音機の前面を叩きながら、珍しく猫らしい声で、にゃあにゃあと煩く鳴いている。
蓄音機の前面下部についた観音扉を開き、整然と収められた録音盤を順に取り出すも、ジンシャーはぷすぷすと鼻を鳴らすばかり。
半ば過ぎでようやくジンシャーがにゃあと高く鳴いたとき、エセンが手にしていたのは、外装に杏色に染まった雲が印刷されている盤だった。
エセンは翁の大事にしていた蓄音機に録音盤を置き、そっと針を載せた。
聖母讃歌が、西日と溶け合うように流れ出す。
室内掃除のついでに盤の整備も頼んでいたのか、音の劣化は感じられず、名も知らぬ歌い手の声は薄硝子のように儚くも澄んでいる。
ジンシャーは再び後ろ脚で立ち上がりエセンの膝へ前脚を掛けると、彼女が右手に持っていた時計をちょいちょいと桃色の肉球でつついたあと、右前脚を下向きにして振って見せた。
「えっ?こう?」
金鎖を持ち、振り子のように時計を左右に動かすと、ジンシャーが肯定を示すらしい瞬きを返した。
時計は自ら意思を持ったように少しずつ振り幅が大きくなり、ぶんぶんと思いのほか力強い風切り音が鳴り始めていた。
やがてその振動は蓄音機の音波と混じり合い、そこに、もうこの世界には存在しないはずの人の声を微かに浮かび上がらせた。
『デュイエ、ラハーレ、それとも他の誰かかしら。私の声を誰かがこうして聞いているのなら、今なお私は狭間の空間にとどまっているのでしょう。夫と共に航るため、世界を壊しかねない禁忌を犯してまで』
最愛の夫と心を通い合わせることができないまま、この世界を旅立たねばならないと悟ったとき声の主はーーーーマレーレは、世界を危険に晒してでもデュイエと次の世界でやり直す機会を得たいと願ってしまった。
普通なら願うだけで終わるところ、彼女にはそれを可能にするだけの知識や技術、血で繋いだ言霊の力があった。
『幼い息子を禁忌に近づけるわけにはいかなかったから、ラハーレにはきっと淋しい思いをさせたわ。そうまでして為したかったことだったけれど、でも、こうして誰かが私の遺した声を聴いているなら、世界の限界が近いのね』
世界が崩壊の危機に瀕することは承知の上だったが、自分以外の人や他の生きものがどうなってもいいとまでは思えなかったし、何より世界や機構自体が壊れてしまえば航りの制御どころではなくなる。
だからこうして危険が迫った時に探してもらえそうな場所に身勝手ながら保険をかけておいたのだ、とマレーレの声は語った。
『航りの条件設定箇所には、もともと他世界言語を侵食しないための補助機構を一度参照するように一文が入っていたのだけれど、蝶の懐中時計に込められた言霊の反転機能を使って、違う条件を読みにいくよう設定してあるわ』
まるでそこに母の姿が見えているかのように、ラハーレはまじろぎもせず蓄音機を凝視していた。
『航りをねじ曲げられる対象者が多すぎると、デュイエがこの世界での生を終えるまで、世界そのものがもたない。だから条件を絞ったのーーーー想う相手と次の世界で再会したいと強く願いながら、自ら命を絶った者、と』




