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第10曲 碧瑠璃の蝶

エセンには幼い頃、家出と思われ捜索されていた時期がある。


翁がいなくなってからしばらく、彼女は海辺の方へは近寄らず、奥地にあるニニテの森あたりをうろついていることが多かった。


ふた親の愛情がうすい代わり、金銭はそれなりに持たされており、自立心が育ちすぎてひとりで電車や飛行機に乗ることも慣れていたので、かなり遠くまで出かけられる子どもだった。


森をひとり散策していたエセンはその日、珍しい碧瑠璃の蝶に出逢った。

大人の手のひらより大きな蝶は、エセンをいざなうように近くを舞いながら、少しずつ森の奥深くへと向かって行く。


少しばかり迷ったエセンだったが、特に危険な感じもしなかったので、直感を信じて進んでみることにした。


蝶を追って行くと、陽の光が差し込む空地に出た。

やや小ぶりな館が建っており、一階の窗には寝椅子に坐る少女らしき人影が見えた。


あの蝶は何処へ行ったのだろう、と視線を彷徨わせるエセンと少女の目が合った。

先ほどの蝶がそのまま吸い込まれたような、深い碧瑠璃の瞳だった。


少女はぱっと貌を輝かせると、窗を開けてエセンを手招いた。


「いらっしゃい、お客さまは久しぶり!中へどうぞ」


少女に云われるがまま、エセンは掃き出し窗から館のうちへ入った。


心地よく整えられた室内には、少女のほかに家政婦らしき女性がひとりいたが、女性は突然の闖入者に驚くこともなく、「あら、お客さまですか」とのんびりしたものだった。


蒼白い頬の痩せた少女は寝椅子に上体を起こしていたが、命の最期の灯火を燃やし尽くそうとしていることは、子どものエセンにも何となく察せられた。


少女は自分をモナと呼んでほしいと云って、森の外の話をしきりに聞きたがった。

エセンにとっては初めてできた同年代の友人であり、昔からの知己であるかのような気すらして、ふたりは話し込んだ。


初めは湿っぽい話などするつもりはなかったのに、翁がいなくなって以来ずっと胸の片隅に巣食っていたやるせなさも、翁を知らない相手だからこそか、モナがあまりに熱心に聞いてくれるからか、ほんの少しだけ吐き出すことができた。


日が暮れる頃になって、家政婦がエセンに、そろそろ帰らないと家族が心配するのではと云い出した。

近くに住む子どもとでも思われていたのだろう。


自分は遠くから来ており、両親は仕事場に入り浸りで自分がいなくても気づかないだろうと肩をすくめたエセンに、ならば泊まっていけば良いとモナは云った。


勧められるままエセンは森の館にしばらくの間滞在し、ふたりは毎日たくさんの話をした。


「ここへはとても大きなちょうが、つれてきてくれたの。モナの目みたいにきれいな青の」

「へぇ、わたしも見てみたかったわ!」


モナの双眸が青みを増して輝いた。


「ちょうはね、七つの世界をわたってたましいをはこぶのですって」


蝶は魂を乗せて世界を航る。

エーレや近隣諸國のほか、大陸各地で広く流布している死生観だ。


モナの魂を運ぶ蝶は、きっとその瞳とそっくり同じ碧瑠璃色をしているに違いない、とエセンは根拠もなく思った。


広い部屋の隅には手垢のついていない鋼琴が置かれていた。


愛は足りずとも、金銭と教育だけは十分すぎるほど与えられていたエセンは、鋼琴にもある程度の素養があった。


自分にはもう弾くちからがないので、代わりに弾いてほしいとモナに請われ、エセンは手すさびに簡単な曲をいくつか弾いて聴かせた。


モナは『蝶のはばたき』という題名の小曲を好んで聴きたがったので、エセンは請われるままに何度でも弾いた。


エセンがモナと出逢って七日目。

やや熱っぽい息遣いながら、モナの頬は薔薇色に上気し、ことのほか元気そうに見えた。

本人も今日は調子がいいと咲う。


「次はもっとじょうぶな体がいいわ」


でも、と碧瑠璃の双眸に影が差す。


「わたりはとてもかこくなのですって。ねぇエセン、次の世界へわたりきる前に力つきてしまったら、どうすればいいのかしら」


エセンは、大丈夫と厳かに宣言した。


「わたしが見つけてちゃんと送り出してあげる」


モナが、ふふと咲った。


「とってもたのもしい。エセン、たいせつなわたしのお友だち。ひとりでわたるには、世界は広すぎるのよ」


それは、生き死にと向き合うことに疲れたモナが垣間見せた、ほんの少しの弱さと狡さだったのかもしれない。


十一日目、モナは世界を航る旅に出た。

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