女装男子の出演準備
頬をくすぐるブラシをくすぐったく思いながらも、索理は目の前で藍が開いている台本を、脳に焼きつけるかのような勢いで読み込んでいた。
「このシーンでは、上手から現れる白雪姫が七人の小人の家に迷い込む。フラフラと覚束ない足取りで、鬱蒼とした森を見渡しながら、たまに戻ったりしつつも少しずつ進んでいくんだ」
連動するように、耳からは奏士によって舞台上での動きが解説されていく。頭の中に構築したステージの上、自分が彼の言う通りにちょこまかと動き回る。あと一時間後には、それを自分の身体でやってのけなくてはならない。
「白雪姫の歌が挟まるのもこの部分だね。録音したものと歌詞カードがあるから、あとで目を通してほしい」
「その録音を使うんじゃだめなの? 正直そこが一番重いんだけど」
「大音量で流すために録ったものではないからね、雑音も混じっていて難しいと思う」
平時ならばぶつけていたであろう文句を挟むだけの余裕もなく、索理はインプットに戻る。
索理が舞台に上がる準備は急ピッチで進められている。
脚本を書いたらしい部員は、索理の負担を減らすために白雪姫のセリフを大幅カットしにかかっていた。他の役に同じことを言わせるなどで整合性を取りつつ、最悪白雪姫など誰もが知っているのだから、多少粗削りなシナリオでも伝わるだろう、という観点で妥協を繰り返しているらしい。急なシナリオ変更とあって、演者である部員たちも必死に新しい台本を読み込んでいた。
部室に誂えられたドレッサーの前に座る索理の顔は、自力で作り上げた地雷メイクに別れを告げていた。代わりに舞台に上がるためのメイクが施されている。白人、かつ白雪姫という名前から受け取ることができる俗世離れしたイメージを落とし込むように、やりすぎなくらい明るいトーンのファンデーションで覆われていく肌。林檎のように大げさな赤みのチークとリップ。眉の周囲をくっきりと縁どって濃い色のアイシャドウを塗り込めば、たちまち日本人離れした造形が完成する。
件の女子生徒が着ていた衣装も手直し中だ。演劇部にも衣装を担当している部員はいるが、呼び出した巡理がメインとなって細かいサイズ感の調整にあたっている。部外者どころか学校関係者ですらないが、それを指摘する者はいない。むしろ巡理の手際に感嘆しているようだった。ろくな採寸もせずに作業を進めているが、巡理からすれば何度も作って手に馴染んでいるのだろう。迷いも見せずにハサミが入れられ、すぐさま目立たない形で縫製されていく。奏士の見立て通り、元々の体型にはほとんど差がなかったらしい。作業にはさほど時間はかからなさそうだ。
ヘアメイクも順調に進められている。あてられている高温のアイロンは、本来ならばウィッグに使ってはいけない類のものだが、演劇部の部費から補償するという条件付きで手を加えることを許した。この後スタイリング剤などを使うことを考えれば、そのくらいの覚悟で進めてもらった方がお互いに気兼ねもしない。
「にしても、今日に限ってウィッグの色が違うのは嬉しい偶然だね。いつもの色だったとしてもお願いしていたとは思うけれど、白雪姫といえば黒髪のお姫様だ」
「そのために黒髪にしてきたわけじゃないんだけど」
「もちろん。小さなことだけれど、そういった小さな要素の積み重ねが没入感に関わってきたりするんだ。誰もが知っている作品を扱うのなら、そういった部分を味方につけておいた方が単純に得なんだよ」
索理には分からない、今後触れることもないであろう世界の話を、奏士は普段の彼のものに戻った声色で語り掛けてくる。少しでも索理の心を落ち着けようとしているように思えた。これも劇を成功に導くための、小さな要素の積み重ねの一つなのだろうか。
メイクが終われば、索理を中心とした読み合わせが始まった。
「普通の話し声で読み上げてしまうと、それはただの朗読になってしまう。声に感情が乗りにくいんだ。夕木くんの場合、歌う時みたいな鼻にかけるイメージで発声してもらうのがいいと思う。最悪棒読みになってもいいから、とにかく滑舌を意識していこう」
奏士のアドバイスを、頭の中にいるもう一人の自分に同期していく。
演目の流れは一通り耳に刻み込まれているとはいえ、自分がその一部になるとなれば話は大きく変わってくる。まして、索理には演技の経験など皆無だ。何度も練習を繰り返しても、どうしても他の部員に比べて素人感が浮き彫りになる。最終的には部員たちの演技を真似て、ほとんどトレースすることでどうにか形にすることに成功した。
「あ、頭痛い……脳の普段使ってない部分を使ってる感じがする……」
「お疲れさま」
いつの間に抜け出していたのか、奏士は買い物袋を手にしていた。不透明なビニールの中からゼリー飲料を取り出すと、封を切って手渡してくる。
「歌の練習が残っているけれど、少し休憩にしよう。詰め込みすぎても効率が良くないからね」
「詰め込まなきゃいけない状況でしょ」
「まあまあ」
飲み口に口をつけ、適度に冷えた中身を絞り出す。妙に強く感じられる甘みを残し、ゼリーが喉を通過していった。
「まさかあの条件で本当に請け負ってくれるとはね。俺のことがそんなに嫌いなのか、と考えると複雑だけれど」
「ボクは全力で拒絶してたつもりだったけど。もっとはっきり言うべきだったかな」
「薄々思ってはいたけれど、未だに理由の心当たりが見当たらなくてね。差し支えなければ教えてもらっても構わないかい?」
「……やだ」
「だと思った」
自分に関係のない噂話でもしているかのように、奏士は笑う。
「でも、どうして決断してくれたのかくらいは知りたいな。もう訊く機会もなくなってしまうわけだし」
「ただの気まぐれだから」
「本当に?」
「あんまりしつこいと気が変わっちゃうかも」
追求を一撃で退ける狡い言葉だった。案の定、奏士は肩をすくめるしかない。
本当のところは、索理自身にもよく分からない。学園祭という非日常による気まぐれなのか、それとも出された条件にまんまとつられたのか。
(いや、多分どっちも違う……)
奏士が条件を出してきた時、その瞬間が転換点であったことは疑いようがないけれど。
索理はその時、奏士に対して妙な同一性を感じたのだ。それが背中を強く後押ししたことは間違いなかった。
それが一体なんだったのか、その正体はまだ分からない。




