女装とイケメンとミックスボイス
ワンコーラスだけのセッションは、二分にも満たない短時間で終わりを迎えた。
後奏のメロディを余韻たっぷりに、ゆっくりと舌の上で溶かし味わうように、奏士は演奏していく。
弦に触れて音を止めたりはしない。弦が震えるままに、それが少しずつ弱まっていくままに任せている。やがては最後の一音すらも消えた。奏士は大きく項垂れるようにして細い鉄線に目を向けていて、索理には彼のつむじが向けられていた。
生まれた一瞬の静寂。
「……すごいな」
こちらを向いていたつむじが持ち上がる。その表情には、はっきりと感心の二文字が書かれていた。
「歌、習っていたことがあるのかい? ボイストレーニングとか?」
「別に……」
「だとしたら凄まじい才能だね。普通の男子なら裏声になる音域も、地声ではっきり出てたし。まぁ夕木くんの場合は普段から女の子の声を出してるわけだし、その辺りは造作ないのかな?」
「一応、順番が逆……かな。女声を出すためにミックスボイスが必要で、練習してたらついでに発声がよくなっただけ」
「ミックスボイス!」
奏士が歓喜をそのまま言葉にしたように声を躍らせる。
「裏声と地声を混ぜて、高音域が出しやすくなる発声方法だよね。習得したいと思って、前からネットでいろいろ調べていたんだ。まさかこんな身近にできる人がいるなんて!」
「そんな大したものじゃ……」
「そんなことあるもんか。一応、演劇をやっているから俺も発声には多少自信があったんだけど、アプローチの仕方から全然わからなくてね。人によって言っていることが違ったりするし、見れば見るほど自分に何が足りないのかもわからなくて」
若干引き気味に対応する索理をよそに、奏士は鼻息を荒くしている。ギターを壁に立てかけ、ずいずいと近づいてくる。
「ほら、最近の男性アーティストって、音域が高い人たちが人気じゃないか。コピーしようとしてもそもそも喉が持たなかったり、歌に集中しないといけなかったりで弾き語りにならないんだ。……そうだ、よかったら少し教えてもらえないかな。できるまで付き合ってほしいとは言わないから、ちょっとしたコツだけでも」
「えぇー……」
思いがけず面倒なことになった。索理が靴底で床を擦って後ずさりするが、その動きを今しがた自分で閉めた教室のドアが阻む。手探りで取っ手を探し当てる前に、奏士の手に捕まった。
「見た感じ、喉仏は少し上がったままで全く動いてなかった。やっぱりベースは裏声なのかな? 声をミックスするってどんな感覚? 自分の耳に届く音がどんな風だとうまくいっているのかな?」
「ちょ、一度にそんないろいろ聞かれても答えられないし、教えるとも言ってないし……っていうか近いし、触らないで……」
「あ、ああ、ごめん、つい」
奏士が素早く手を放す。夏休み中のやり取りで自分が嫌われていることは分かっているだろうに、よくこんな真似ができるものだ、と索理は逆に感心していた。
「大体、こんなの感覚だし、できる人は教えられなくてもできるし、できない人は何やってもできないんじゃない」
「それでも教えて欲しい」
真剣な目に射抜かれると、まるで自分が教え渋っていることが悪いことかのように感じられる。それに彼の熱量から見ると、ここで断ったとしても事あるごとに迫られそうだ。苛立ちを覚えた索理は髪束をかき上げた。
「あーもう……教えるにしても、横野くんの声を聞かないと何を教えたらいいのか分かんない」
「ああ、それはその通りだ。早速歌ってみるから聴いてみてほしい。アカペラになってしまうけど」
「歌わなくていいから、音階を少しずつ上がっていって。地声も裏声も好きに使っていいから」
「わかった」
奏士は目を閉じて胸に手を当て、おもむろに脚を肩幅に開くと、ひとつひとつ確認するように発声していく。最初は腹の底に響くような低音から。普段の彼の柔らかな声とはかけ離れた響き。
少しずつ音階が上がり、だんだんと彼が普段から使っているような音域にやってくる。この辺りも喉の力を抜いて発声できているし、もちろん声量も申し分ない。
──と思ったのも束の間、三周目のミの音がやってきた途端、彼の眉間にしわが寄った。ここまで淀みの一つもなかった声が掠れる。
「ふぅ……」
一度息を整え、明らかに筋肉が盛り上がっていた首筋を撫でつけると、奏士は元の発声姿勢に戻る。
「アー……アー? あー……」
裏声に切り替え、探るように音程を上下させていく奏士。
一応、音程として届いてはいる。届いてはいるのだが……
(あんまりきれいじゃない……歌で使える声じゃないかな)
本来の美しい裏声にあるはずの透き通るような上品さはなく、引きつるような聞き苦しさが目立つ。首に血管が浮き出ている。相変わらず表情も苦しそうだ。
「裏声のまま、音程下げられる?」
奏士は片目を薄く開くと、自分の喉を操作しようと試みている。だがうまくいかなかったようで、声質がさらに乱れるだけに終わった。
「はぁ……ど、どうだったかな」
結果は自分でも分かっているのだろうが、それでも奏士は尋ねてくる。
「高音で力みすぎ。喉じゃなくて使うのはお腹の筋肉。そもそもミックスボイスは魔法じゃないんだよ。裏声で出ない音域はミックスボイスでも出ないから、まず練習すべきは裏声の発声」
「やっぱりそうか。どうしても力まないと出ない気がしてしまうけれど、確かに演劇で大きな声を出すときも喉に力を入れているわけじゃないし、力を抜くべきだというのはよくわかった。あと、裏声はどうやって練習したらいいかな」
「声量を意識しすぎなんだと思う。演劇部の癖かもしれないけど、最初は小さな声で大丈夫。裏声で使う筋肉自体が育ってないから、その状態で大きくて高い裏声を出そうとしても無理」
「なるほど、ファーストステップとして裏声が出せないと話にならないと。それはいくら練習してもできないわけだ」
奏士が納得するように頷く。
「とりあえず話はそこからだから、裏声ができる様になるまではどうしようも──」
「待ってほしい、ビブラートのコツも知りたいんだ。あとしゃくりとヒーカップとガナリと……」
「ボクのことボイストレーナーか何かと勘違いしてない……? てかヒーカップって何……」
突然のなぜなぜ期が訪れた奏士を雑に受け流しつつ、索理は大きくため息をついた。
教室の中から漏れ聞こえてくる二人の声。一つは耳にするだけでとろけてしまうような優しい音色。もう一つは吐き気を催すオカマの甲高い声。
それらが交互に鼓膜を揺らしてくることに神経を逆撫でされつつ、電話口の向こうにいる相手に語り掛ける。
「──だから学園祭の間、ちょっと協力してほしいの。──ええ、撮影係の片手間で構わないから。大丈夫よね?」
元々、あいつのことは気に入らなかった。女装なんかしている変態と同じ教室にいるだけで気分が悪い。
それなのに、このところあいつは奏士くんと仲良くしている。気に食わない。油断すると手が出そうになる。
全ては、夏休み前から急に奏士くんと距離が縮まった彼を引きはがすため。
二度と奏士くんに近付けないくらい、完膚なきまでに叩き潰すため。そうして──
「──そう、わかったわ。……くれぐれもよろしく、寧」
──どかした彼の場所を奪い、奏士くんの隣には私がすっぽりと収まるのだ。




