女装男子の姉と友達
夏休みというのは、学生にとってはオアシスのような一か月間だ。
炎天下の中を歩いて通学する必要もなく、長ったらしい教師のお言葉にあくびをかみ殺す努力をする必要もない。毎日昼まで寝ていても許される、最高に自由な時間。
教師たちは言う。時間を有意義に使いなさい。役に立つ体験をしたり、一つのことに全力で取り組んでみる期間にしなさい。もちろん勉強をおろそかにしてはいけません。
さて、普段から夜遅くまで趣味を堪能している夕木索理が、この自由度最高潮の日々を前にして、普段の生活を保つことができるだろうか?
答えは当然、否である。
「索理くぅん、お友達きてるよぉ?」
ドアをノックする音と共に、索理の姉である鞠理からの呼びかけが聞こえる。
「あづい……涼しくなったら起きる……」
「そんなの待ってたら日が暮れるって。もうお昼過ぎなんだよ? せっかく来てくれたのに、お友達帰っちゃうよぉ」
「また明日にしてもろてー……」
「索理くんが約束したんでしょうに。お姉ちゃんもバイト行かなきゃいけないんだから。もう勝手にあげちゃうからね?」
「ちょっ」
鞠理がバタバタと足音を立てて階段を降りていったのを皮切りに、索理の目はぱっちりと覚めた。人間、危機を感じた時は優先順位を間違えないものだ。
なおも独立した意思でくっつこうとする上下の瞼を強制的にこじ開けると、そこには十四時ちょうどを指す時計の針。
(なるほど。未有たちは約束通りの時間に来たみたいだ)
一人で納得して、うんうんと繰り返し頷く。
そして索理が次にしたことといえば──
「起き抜けでパジャマのまま、メイクひとつも手つけてない、なんならウィッグすら準備できてない……終わったぁぁぁ」
──現状に対する絶望であった。
自宅で遊ぶ約束をしておきながら、まさかその約束を完全にぶっちぎって寝坊する、などという経験をする日が来るとは夢にも思っていなかった。
昨夜──というより朝方までにらめっこしていたスタンドミラーは、索理が寝ている間も律儀に起立姿勢を保っていたらしい。そこに映った顔は、とてもではないが人様にお見せできるようなものではない。
「ひとまず顔を洗って来なくちゃ……鞠理ねーちゃん、ちょっと藍と未有の相手しててー! バイト行くまででいいから!」
索理は一階にある洗面台へと一目散に向かいつつ、恐らくは玄関で客人を出迎えているであろう鞠理に対し、起き抜けのガラガラ声で叫ぶのだった。
「……今の声、夕木か? 普段のアイツからは考えられないくらいのダミ声だったんだが」
「あはー。起き抜けのサクって割とあんな感じかも。学校でお昼寝した後とかも、声の調整してることが多いよ」
「相変わらずあいつは、女装に対する意識だけはガチなんだよな……それ以外がダメすぎるんだが」
未有が藍とそんな会話をしていると、ついさっき二人を出迎えてくれた女性が玄関口へと戻ってきた。
「ごめんねぇ。索理くん、今から準備するみたい。お姉ちゃんも用事があってもうすぐ出ないといけないんだけど、それまでお相手させてもらってもいいかなぁ?」
雨上がりの夕焼けのような髪だ。鮮やかなオレンジ色の下に、インナーカラーで暗めの青色が入っている。そんなグラデーションが美しい髪をウルフヘアにして、髪の間から覗く耳にはピアスがこれでもかと通っているものだから、未有が感じた第一印象は『なんかヤバそうなおねーさん出てきた』である。
だが、そんな尖った特徴をひっくり返すような垂れ目とおっとりとした話し方が、彼女の見た目から牙を引っこ抜いてくれる。思えばメイクを落とした夕木も垂れ目気味だった、と未有はおぼろげに思い出していた。
元から鞠理のことを知っていたであろう藍は、物怖じすることもなく親しげに言葉を返す。
「お構いなくですよー。勝手にお茶とか出しちゃうので、鞠理さんはお出かけしちゃっても大丈夫です!」
「そお? じゃあ、そっちの子にご挨拶だけ。索理くんの姉の鞠理です。出来の悪い弟がいつもご迷惑をかけていると思うのだけど、今後も仲良くしてもらえると嬉しいわぁ」
「黒河未有です。夕木……あー、弟さんとは、メイクを教えたりとか、そんな感じ、す」
「メイク……なるほどねぇ」
鞠理が顔を突き出して、まじまじと未有の地雷メイクを観察している。その仕草もまた、姉弟を思わせる似通った部分があるように感じられた。
「ふむふむ、典型的な地雷メイクねぇ。ファンデはリキッド系? この季節だとウォータープルーフか。落とすのが大変だし、肌のケアをサボると後々響くから気を付けるのよぉ。というか学生さんにしてはかなりいいの使ってるでしょ。ディオールとか?」
「いや、さすがにそこまでは。一人暮らしなんで」
「そっかぁ、そうよね。最近はお手頃な価格帯でもいい性能のが揃ってるしね。ねぇねぇ、地雷系の子の目元ってずっと気になってたんだけど、ちょーっと近くで見てもいい? おねがぁい」
「ま、まぁ少しなら……」
押しの強さに負け、未有は四方八方から鞠理の視線を浴びせられている。
「あのね未有ちゃん、鞠理さんは美容系の専門学校に通ってるんだよ。だからメイクとかヘアスタイルとかにすっごく詳しいんだ」
「なるほどな……つーことは夕木の基礎が詰まったナチュラルメイクも、このお姉さんの仕業ってわけか」
「多分? その辺りの事情は、わたしはよく知らないんだけどね。あ、鞠理さん、わたし先にお茶の準備してますね? 満足したら離してあげてくださいねー」
「あっ、おい……」
未有が引き留める間もなく、藍は靴を脱いでまっすぐにダイニングと思しき方向へ。
そうしている間も、鞠理は未有の目元に釘付けになっている。今にも頬が触れ合ってしまいそうな距離。長い下まつ毛の奥にあるアンニュイな瞳が近い。同性なのに顔が熱くなりそうになる。
「地雷メイクって不思議よねぇ……今までのメイクとは全然違うところから来て、いきなり一定数のシェアを持って行っちゃったし。サブカル系とも似て非なる感じだし、研究もそこまで進んでないのに」
「……ただの自己満足なんすけどね。他人からのウケはお世辞にもよくねーですし。弟さんを除いて」
「いいんじゃない? 垂れ目さんにはよくマッチしそうだし、索理くんにはぴったりかも」
その後も鞠理による至近距離での観察は続いた。ようやく終わりが訪れたのは、藍が用意を終えて戻ってきて、「鞠理さん、バイトバイト!」と慌てた声を上げた時だった。
ちょい見せのキャラが多くて申し訳ないですね。
後ほど出番がございますので。




