地雷と女装と帰り道
夕木のチョイスで流れ出したイントロは、静謐なアコースティックギターの音がした。少しでも音楽を聴く若者なら誰でも知っているような、最近新譜として配信され始めたポピュラーなバラードだ。
あたしは曲こそ知っていたものの、夕木の歌には興味なんかなくて、だが無意識にクラスでやっている癖が出た。聞こえてくる音を自然に取り込んでしまう。
そして、夕木が口を開き、一音目をマイクに向かって発した──その瞬間に。
「っ」
あたしは、ネット巡回の手を思わず止めてしまった。
凪いだ水面のようなメロディを、夕木の声が忠実になぞっていく。まるで機械で調整処理されたあとのCD音源みたいだ。上手い下手なんて次元をすっ飛ばして、人の心を掴んで離さないような、そんな歌声。
サビに移って、夕木の声量が一層増した。その頃にはもう、あたしの耳以外の感覚器は全部、機能を放棄していた。
夕木の喉から女性の声が出ている。
男性特有の濁った低音が一切混じっていない、透き通った声だ。喉仏が一切仕事をしていない。ブレスのたびに胸が目に見えて膨らみ、その全てが余すことなく夕木の声になる。大して口を開けているわけでもないのに、その声はしっかりとマイクに拾われ、部屋全体にじんわりと響き渡る。
可愛らしさと美しさが、たった一つの声帯に同居していた。届いている声には一切の息漏れがなく、ただの裏声ではないことが分かる。
原曲を歌っているのは女性だ。男性では裏声でも届かなそうなキーが繰り返し登場するにもかかわらず、夕木は声色一つ変えずに難なく歌いこなしていく。
全身で甘美な響きを享受していて、ようやくわかった。あたしが夕木をたまに、女の子みたいに扱ってしまう理由。
歌声ほどの響きではないにせよ、夕木は普段から女性らしい声で会話していた。突然のことに驚いたり、声を荒らげたりする時すらも、そのフィルターが外れることはなかった。一切の違和感がない自然な声だ。
この声が原因で、あたしはすっかり女と接している気になっていたわけだ。
服とウィッグとメイクで外側をいくら着飾ろうが、身体は男。そんな先入観すらも忘却させる力が、その声にはあった。
いや──この声の前に、理屈だとか性別だとか、そんな些細なことなんかどうでもいい。
ただただ、ひたすらに、この声を聴いていることが心地いい。ずっと聴いていたい。それだけ。
夕木はその後も時間いっぱい歌い続け、あたしは息をするのも忘れて、全意識を鼓膜の震えに集中させていた。
「ふぅー、楽しかったね、黒河さん」
「あんな騒ぎのあとで楽しかったとか言えるのは、世界がどれだけ広くてもお前だけだろうな」
口から出てくるままに返事をする。
街を染め上げるオレンジ色すら、いつもより色濃く鮮やかに見える。雑音でしかない喧騒が物語の一部に思える。漂ってくる柑橘っぽい匂いにすら意味がある気がしてくる。
完全にあてられた。こいつ、歌声一つであたしの感性すらぐちゃぐちゃにしやがった。
「今度は黒河さんの歌声も聞いてみたいな」
アホか。プロ顔負けのヤツの前で歌を披露とか、羞恥プレイすぎて自尊心が跡形もなく消し飛ぶわ。
楽しそうに笑いながら歩く夕木に歩幅を合わせながら、あたしはあえて悪戯っぽい表情を作る。
「逆にあたしは夕木の地声が気になってきた」
「え゛」
ぎょっとして小さく飛びのく夕木。
「ぼ、ボクハコノ声ガ地声デスヨ?」
「思いっきりひっくり返ってるじゃねーか。さっきまでの歌声はどこいったんだよ」
「い、いや、ほんと、低い声とか出ない出ない! らららららー?」
「その喉仏で男の声が出ねーは無理があるだろ」
昼間に比べて気温は下がっているはずなのに、夕木は不審な挙動をしながらダラダラと汗をかき始めた。
「べ、別に気にしなくていいじゃない? この格好で男の声とか、普通に不審者扱いされてもおかしくないし!」
「出ることは認めるわけだな」
「そ、そりゃあ、喉や身体まで女の子っていう風にはいかないわけで……でも流石に恥ずかしすぎるっ!」
「普通は女装の方を恥ずかしがるもんだと思うけどな……」
夕木は手をうちわのように動かして、真っ赤な顔に篭もった熱をパタパタと冷ましている。
女と勘違いしてしまう原因は特定できた。それでもあたしには、そこにいるのは一人の女にしか思えなかった。錯覚の仕組みを説明されたとして、見え方が変わらないのと同じだ。
この顔も、仕草も、声も、一朝一夕で手に入れられるものじゃない。あたしもメイクの研究に全てを捧げていた時期があるから、わかる。これまでの人生の何割を注ぎ込んで、夕木が今こうしているのかが。
夕木の性格が終わっているにしても、今のコイツの姿は、血の滲むような努力をして辿り着いた境地であることは疑いようがない。
だとすると、取り繕った仮面を無理やりに剥がして、その下にあるモノを露わにしてしまうことは、夕木の努力を否定することと同義なのかもしれない。
余計なこと言っちまったか。
「……わり、やっぱいいわ、地声とか。忘れてくれ」
「え? あ、うん。わかった」
あたしがいきなり態度を翻したことに、夕木はきょとんとしていた。
夜が夕方を呑み込み始めたころ、待ち合わせ場所にしていた謎オブジェに着いた。
湿気を孕んだ夏風が吹き抜けて、あたしたちの髪がさらさらと舞う。
「もうすぐ夏休みだねえ」
「だな。その前にテストが待ってるが」
「うう……補習で夏休み潰れるの最悪すぎる……」
「赤点取る前提なのな」
「取らない前提の人たちがおかしいんだよう」
がっくりと肩を落とす夕木。
「夏休みになったら好きなだけメイク練習できんだろ。女装に向けられる熱量を少しはそっちに向けたらどうだ?」
「モチベを……モチベをください……」
「モチベ? そうだなぁ……」
ゾンビじみた挙動で手を伸ばしてくる夕木を横目に、スケジュールアプリをワンタップで開き、八月の終わりまでに入っている予定に目を通す。
「夏休みの前半、ちょうど補習があるような時期はわりと自由度高いな。お前が暇なら、メイク講座にあててやってもいい」
「ほんと!? やるやる、絶対やる!」
「まずは赤点回避するところからな」
「神に祈って回避してみせる」
「そこは誓っとけよ」
夕日に照らされ、歯を見せて無邪気に笑う夕木の顔は、まるで小さな子供みたいに見えた。




