女装男子の再認識
「夕木くんを見なかったかい?」
「え? ううん、見てないよ。わたしも一緒に帰ろうと思って探してたんだけど」
「確かに後夜祭は自由参加だけれど、もう帰るのかい? お礼も兼ねて少し話したかったんだけれど……いや、夕木くんには慣れない苦労もかけてしまったことだし、その方がいいかもしれないね」
「索理を探しているのか?」
「真宵ちゃん! 演劇部の舞台見に来てたんだ?」
「ああ。索理が白雪姫役として登場した時には驚かされたがな。この後用事があって連絡を入れているんだが、反応がないんだ」
「演劇部のみんなも見ていないみたいだ。……いや、今思えばカーテンコールの時にはもう──」
「とにかく探そ! きっとまだ学校の中にはいると思うし!」
「はぁ……はぁ……」
学園祭の一般公開はまもなく終わりを迎える。だが索理の呼吸が乱れているのは、昼間に比べて人通りの減った廊下を失踪したからではない。
動悸。
危機を察知した頭が敏感に反応し、索理の心臓は尋常ならざる速度で脈打っている。
索理がいるのは空き教室だった。どこのクラスも部活も使用していない、学園祭の空気に置き去りにされた一室。自分の呼吸と鼓動の他には何の音もしない。皮肉にも今の自分にはぴったりだと思った。
あの時──奏士は本気だったと思う。咄嗟に突き飛ばしていなければ、今頃索理のファーストキスは彼のものになっていたはずだ。
もしそうなっていたら……そう考えるだけで喉の奥が顫動を始める。胃が収縮して中身を排出しようとする。
何が彼を突き動かしたのかは分からない。劇のクライマックスであるあの瞬間まで、奏士は一切そんな素振りを見せなかった。
まして、彼は索理が同性であることを重々承知しているはず。口付けを交わすことがどんな意味を持つのかも、言うまでもないだろう。
理解がないわけじゃない。世の中にはそういう趣向の人たちもいる。女装をたしなむ人たちの中にはそれを目的としている人も少なくないし、否定するつもりもない。
だが──
「……おえ」
どうにか逃れたその未来を想像するだけで吐き気がする。もし本当に唇が触れ合っていたら、索理はそれこそ毒林檎でも齧りたくなっていたことだろう。
もしや奏士は、あの状況を作り出すために索理を代役に選んだのではないか……そんなあり得なさそうな妄想までもが脳裏を埋め尽くす。
プールで危ないところを助けてくれた奏士。シフトに入っている時に優しく声をかけてくれた奏士。索理の歌を高く買ってくれていた奏士。
索理の中に出来上がりつつあった奏士という人物像が、音を立てて瓦解していく。
小さな欠片の集まりとなったそれは、新たな秩序に従って再結晶を始める。
そうだ。考えてみれば、奏士はあれだけクラスメイトの女子に言い寄られていたのに、少しも心を揺らがせる様子は見せなかった。それどころか彼女らの不満をあえて買い上げるかのように、積極的に索理と関わろうとしてきた。
元からそういう性質だったのだと考えれば納得がいく。誰とでも仲良くしたいなどという子供じみた願望はは全て嘘っぱちだ。放っておけば一生関わり合いにならないほどに立場の差がある索理に、体よく近付くための口実に過ぎなかった。彼は最初から、索理を手籠めにすることしか頭になかったのだ。
彼の好みが女装男子なのか、それとも何か、索理の自覚していない部分に惹かれていたのかまでは分からない。知りようのないことだ。
だが、これだけははっきりと言える。
今日を以て横野奏士は、夕木索理の明確な敵になった。
明日からは二度と関わらない?
上等だ。こちらの方から願い下げだ。あとでどれだけ縋り文句を口にしてこようが、今後どんなに華麗な手段で索理を何かの窮地から救い出してみせようが、もう二度と心がなびくことはない。
それでもなお、あの男が索理を求めてくると言うのなら、唇だろうが舌だろうが、彼の眼前で思い切り食いちぎってやる。あの男が目の前で欲しいモノを奪われるさまを見物できるのなら、痛くもかゆくもない。
喉が痛いほどに渇いていた。腹の底にたまっていた異物感はいつの間にか消え、気づけば空っぽになっていたらしい。空腹感に耐えかねた索理はポケットを漁るが、手元に食べられそうなものは何もない。
代わりに携帯が手に触れた。取り出してみれば、個人チャットにいくつかの通知が届いている。
『サク、今どこ? 今日は疲れたでしょ、もう帰ろうよ。うちでご飯食べていかない? もちろんわたしが奢っちゃうよ、サクほんとに頑張ったし!』
『もうすぐキャンプファイヤーに火がつけられる時間だ。もしよかったら一緒に校庭に行かないか? 踊ってくれとは言わないが、私が先頭に立って準備したものなんだ。索理にも見てもらいたい』
『織部と伊澄と、ついでに横野から夕木の居場所知らねぇかって連絡きてたぞ。どこ行ったのか知らんが、無事なら連絡くらいよこしてやれ。あたしには返信不要』
暗くなり始めた教室の中、唯一の光源だったスマホを伏せる。
今は誰とも会いたくない。誰であろうと例外なく。
放っておいたって、みんなは索理抜きの後夜祭を楽しむことだろう。それで構わない。むしろそうなることを強く望んでいる自分がいた。
やはり自分には孤独がお似合いだ。白雪姫のように、どこか人知れない場所でひっそりと生きる。それがお似合いだし、その場所だけがこの世で自分に許された唯一の居場所だ。今回のことでそれをはっきりと再認識した。
奏士のような人種に関わるからこういうことになる。身分をわきまえないから身に余る事態を呼びこんでしまうのだ。
椅子に座っているのも億劫になり、索理は掃除されているかも分からない床にへたり込んだ。夕方の残暑が立ちこめる教室の中、フローリングの冷たさだけが救いだった。
その時、教室のドアが勢いよく開けられる音がした。
確かに藍たちは、索理を探しているかのようなメッセージを寄越してきていたけれども。
恐らくは、いろいろな教室を手当たり次第に探しているだけだったのだろうけれども。
「……ようやく見つけたよ、夕木くん」
そこにいたのは、今この場で考えうる限り最悪の人物だった。




