姫と王子とキスシーン
白雪姫が歌うシーンが終わってしまえば、残りのパートで索理がやるべきことはほとんどない。
小人たちに言われるがままに家事をこなしたり、鏡の宣告によって狩人の裏切りを知った王妃によって殺されかけたり。
後半に差し掛かり、索理が二時間漬けで詰め込んだ記憶は少しずつ薄れてきているが、藍が瞬時に的確なカンペを用意することでカバーしてくれる。
肝心の劇はというと、王妃による幾度もの殺害計画を掻い潜った白雪姫が、ついに毒林檎を口にして倒れてしまい、小人たちの手によって冷たくなった身体がガラスの棺へと入れられたところだった。
物語もいよいよ終盤だ。索理に残された役割は、王子のキスによって起こされたあと、きょとんと目を丸くしながら一言台詞を言うだけだ。その時がやってくるまでは、目を瞑ってじっとしているだけでいい。
奏士扮する王子が、小人たちの家がある森に迷い込んでくる。彼は白雪姫が眠る棺を覗き込むなり、情感たっぷりの感嘆を口にする。
「なんと美しいお方だ! 肌は雪のように白く、髪は黒炭のように黒い! こんなに美しい方には出会ったことがない!」
教室で見る彼からは考えられない、キザで大仰な台詞。感動を全身で表現するように大きく手を広げ、声は客席の右へ左へと広く届けられる。わざとらしく立てられる足音すらも計算のうちなのだろう。
「この棺を、わたしに譲ってはくれまいか。そのかわりわたしは、おまえさんたちのほしいと思うものをやろう。財宝か、地位か、それとも広大な土地と棲み処か?」
ここまでに演技をした誰よりも声を響かせて、王子はステージを躍動する。練習を見ていた索理には、目を瞑っていても彼の動きが手に取るようにわかった。小人たちとの立場の違いを、その振る舞いだけで理解させる演技力。威厳に満ちた腹の底からの声と、その間に挟まる計算ずくの静寂。持ち前のビジュアルはあくまで副次的な要素でしかなく、その演技力だけで舞台上が一気に彼のものへと変わる。彼がまだ部に入って一年足らずであることも、ましてやさっきまで照明係という裏方に甘んじていたことも、見ている誰にも気付く余地はない。
「たとえわたしたちは、世界じゅうのお金をみんないただいても、こればかりはさしあげられません」
小人の一人がおずおずと答える。だが、そう簡単に引き下がる王子でないことは明白だ。
「わたしはもう、彼女を見ていなくては生きていられない。たった一度見ただけで、そのくらい目を奪われてしまったのだ。頼む、この通りだ」
さっきまで飄々と、肩で風を切るように振る舞っていた王子が一転、小人と視線を合わせ、懇願するように告げる。小人たちは顔を見合わせたのち、彼の覚悟を受けて譲ることを決めた。
──あのシーンがやってくる。索理は客席からは分からない程度に小さく身体を捩った。
白雪姫が眠る棺桶に王子が近づいてくる。微動だにしない白雪姫へと視線が注がれる。胸の前で組んだ手に、僅かに汗が滲むのを自覚した。
「本当に美しいお方だ。茶会でも舞踏会でも、これほどまでに目を奪われたことはない」
王子の手が白雪姫の頬に触れる。頬のラインをなぞるように指が滑る。その間索理は、反射的に手の甲で払いのけたくなってしまう衝動を必死に抑え込んでいた。今ここで台無しにしてしまえば、せっかく上手くいっていた流れがぶち壊しになる。ここさえ耐えれば、劇は無事に大団円を迎えられる。
「しかし、なんと嘆かわしい世界だろうか、あなたのような方が、若くして命を落としてしまうとは……」
涙でも流しそうなほどに潤んだ王子の目が、白雪姫の赤く彩られた唇に留まる。
もちろん、本当に唇を重ねるわけではない。そう見えるように顔を近づけるだけだ。元の白雪姫役は女性だったわけだし、そうでなくとも恋愛関係にもない二人が劇中でキスをするほどリアルさを求める場面でもない。
ただ、奏士の演技は相変わらず圧巻の一言に尽きる。展開もフリで済ませることも知らされている索理ですら、優しく頬を撫でてくる指からは、彼が本気で唇を奪おうとしているという意志しか感じられない。
瞼越しに感じられる照明に影がさす。奏士が覆いかぶさってきたのだと理解したのも束の間、吐息が口先にかかった。蒸気と勘違いするほどに熱い。それだけ演技に熱が入っているのだろう。
王子が顔を上げたその瞬間に、ガバっと身体を起こさなくてはならない。タイミングを見計らうため、索理は薄く目を開けた。
視界いっぱいに奏士がいる。その表情を前に、索理は思わず声を漏らしそうになった。
白雪姫の美しさに対して狂ったように熱を上げる演技の顔でもなければ、どこまでも劇の成功を追い求める真剣さをうつしているわけでもない。
そこにあったのは驚きだった。
「っ……」
呼吸が止まった。今まで経験したこともないほどの至近距離で視線がかち合う。
彼が何に驚いているのかがわからない。このシーンは台本に組み込まれた一部で、奏士がそれを理解していないはずがない。驚くべきはこの後、白雪姫が毒林檎の欠片を吐き出して生き返るシーン。その表情を事前に準備しなければならないほど、奏士は不器用ではないはずだ。
索理がいつ身体を起こすのか、決めるのは奏士だ。彼が頭を避けると同時に起き上がることになっている。その彼が固まっているので、索理も行動を起こすことができない。
そのまま、沈黙の中で数秒が経過する。観客が息を呑む音すらも止んだその時、奏士が動いた。
シナリオ通り、顔を上げてのけ反るのではなく──索理のいる、下へ。
何かに突き動かされるかのような奏士の顔が近づいてくる。ただでさえ縮まっていた距離が紙一重になる。奏士の瞼から力が抜け、ふっと瞳が伏せられる。
おかしい。何かが、間違いなく──
索理は今まで抑え込めていた衝動からタガが外れるのを感じた。覆いかぶさる奏士の肩を突き飛ばして押しのける。辛うじて本当に唇が触れる事態にはならず、奏士はそのまま、舞台上で仰向けにひっくり返った。
頭は困惑で埋め尽くされたままだが、索理はどうにか劇の終わりを締めくくる台詞を口にした。
「おやまあ、一体なにがあったのでしょう?」




