女装男子と白雪姫
劇は思いのほか順調に進んでいた。
白雪姫という役は案外、即興で演じるのには向いていたのかもしれない。基本的には出来事に対して受け身で、自分から起こす行動は極めて少ない。嫉妬に狂った毒林檎の王妃による度重なるいじめを受け、悲劇の底に沈むのはとても自然な流れだ。
「どうして、わたしはこうして、辛い目に遭わなくてはならないのかしら──」
何より、周りを固めてくれていた演劇部員の演技が迫真で、索理を物語の中へと引っ張っていってくれたことが大きい。練習では決して味わえなかったリアルな肌感覚に従っていれば、棒読みが気になっていたセリフも自然と口をついて出てくる。
やがて、索理にとって最も鬼門となる場面がやってきた。
「もう我慢ならない。あの子を森の中に連れて行っておくれ。わたしはもうあの子を、二度と見たくないんだから──」
毒林檎の王妃は配下の狩人に、白雪姫を深い森の奥へと連れて行き、胸を突き刺して殺してしまうように命じる。狩人は一旦その命令を受け入れ、白雪姫を連れて深い森の奥を訪れるのだが、
「……ダメだ、私にはできない。とてもではないが、このような美しい姫を殺してしまうなど──」
苦悩の末にそう告げ、白雪姫に手を下すことができずに逃がしてしまう。狩人は歪な心境と葛藤を何度も振り返ることで存分に表現し、白雪姫の前から姿を消す。
置き去りにされた森の中で一人彷徨いながら、白雪姫は自身の不幸を嘆く歌を紡ぐ。頼るものはなく、未知の場所に独りぼっちの哀れな白雪姫。
どこか自分と似ている気がした。練習では気付けなかった感覚だ。それだけ物語に集中することができているのかもしれない。
歌にはどうしたって感情が乗る。彼女の心境を歌に乗せていくのは、索理にとってはただ台詞をなぞるよりも難しいものではなかった。心の底から溢れ出す空しさが、索理の身体を自然と突き動かしていく。
「願いをささやく──
声にならないまま──」
白雪姫が歌うシーンは他に登場人物もなく、暗い森の中をイメージしたステージ照明の中、スポットライトは索理だけを追いかけて照らし出す。ほとんどアドリブじみた索理の動きにも、スポットライトは柔軟な対応をしてみせた。右往左往してみたり、奥行きを使ってステージを広く使ってみたり、願いの井戸を縋るように覗き込んでみたり。コンマ秒すら存在せず、ライトは索理に吸いついたかのように離れない。索理が自身に降ろしてみせた白雪姫を、スポットライトを操る奏士も感じ取っているのだろうか。
「閉ざされたこの世界で──
動けない小さな私──」
奏でる音の一つ一つが、ステージに強く反響して響き渡る。カラオケでも体感したことのない生の音が、増幅されて周囲を満たす。その幻想的な空気に、誰より引き込まれているのは索理自身だった。
「どこかへ消えそうな震える心で──
ただ一人きり奇跡を待ってる──」
自分自身の心の芯が、いつしか白雪姫と同調していく。謂れのない妬みがもたらした過酷な環境。涙すらこぼれそうになった涙腺をすんでのところで締める。
「暗闇の中で──
さまよい続けて─
行き場をなくしたまま──」
間奏が訪れる。足を折って座り込み、胸に手を当てて悲痛そうに顔を歪めながらも、落ち着いて乱れた呼吸を整える。
息を深く吸い込めば、今まで意識の外に追いやられていた周囲の様子が索理の五感に飛び込んできた。
舞台袖では、藍がカンペのボードに何かを走り書きしている。くるりと反転させられたそこには、『完ペキ!』という文字と共にサムズアップのイラストが描かれていた。藍がペンを握る手も同じ形になっている。
客席を埋める人々は、逆光になっていて表情もうかがえない。そのおかげか、誰もが自分に注目しているという実感がわいてくることはない。
悲しげな間奏の隙間にシャッター音が差し込まれたのを、索理は聞き逃さなかった。大方、寧あたりが後夜祭で使う写真を撮影しに来ているのだろう。
再び大きく息を吸い込む。同時に、伴奏を除いた全ての情報がシャットアウトされるのを感じた。
「夢に見てる──
描いているの──
なりたい姿を──
願いの井戸うつして──」
もはや演技の域を踏み越えて、まるで自分自身の心を吐き出すかのように、索理は歌う。残すは最後のフレーズのみだ。
だが、この違和感はなんだろうか。
順調に歌い進めているはずなのに、何かが矛盾している気がした。
「いつの日にか──
誇れる自分に──
ただ奇蹟を願って──
目を閉じれば──」
藍は言っていた。白雪姫という仮面をかぶれば、多くの観衆を前にしても大丈夫だと。
実際、指先の爪すら凍り付かせるような緊張感はやってこない。ここから今すぐ立ち去って袖にある幕にくるまってしまいたいという衝動が襲い来ることもない。
ならば今、自分の心境をさらけ出しているようなこの感覚は何なのだろう?
自分はうまく仮面をかぶれているのだろうか? 自分自身をも騙しきるほどの嘘をつくことに成功しているから、こんな気持ちになるのだろうか?
分からない。
「まだ知らない私が──
ずっと待ってる──
会えると願って──
夢に見る──」
まだ知らない自分。そんなものがまだ、自分の中に残っているとでもいうのだろうか。
五年生の頃から実に五年間、暗い部屋で向き合い続けてきた、向き合わざるを得なかった自分に、まだ、知らない何かが。
スポットライトが消える。索理の姿が観客の目から見えなくなる。場面の切り替わりだ。
索理はよろよろと立ちあがると、舞台袖から見える僅かな光を頼りに下手へと進む。
考え事をしている時間はない。この後も白雪姫が登場するシーンだ。七人の小人たちが暮らす小屋を見つけ、留守の間にそこを間借りしてしまう姿を演じなくてはならない。
化粧が崩れない程度に軽く頬を叩き、索理は背景の入れ替わったステージに再び踏み出していった。




