女装と幼馴染と舞台袖
索理はステージ袖の幕に隠れて待機しつつ、未だ台本に視線を落としながら動きの反復練習を繰り返していた。
「ああ、かりうどさん、わたしを助けてちょうだい。その代わりわたしは……」
索理にできるのは、演劇部員が手本として見せてくれた演技をどうにかなぞることだけ。付け焼き刃の所作に何の意味があるのかも分からない。分からないままに演じたものがどう受け取られるかなど考えている余裕すらなかった。ただ形式的に、物語に致命的な破綻が起こらないよう、歯車の一部として振る舞うだけだ。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」
舞台上では既に、王妃が魔法の鏡に向かって話しかけている。その独特で妖艶な雰囲気を現代風に表現するなら、美魔女という言葉が相応しい。同年代の学生とは思えない変貌ぶりに、索理の心臓は一層強く締め付けられる。
「サク、珍しく緊張してる?」
舞台袖には、出演予定もない藍が一緒に控えてくれている。少しでも緊張が和らげば、ということでの同伴だったが、索理には藍のことを眼中に入れるだけの余裕すらなかった。
「そりゃ緊張するに決まってるよ。引き受けなきゃよかったって今更後悔してる。どう考えてもうまくいくわけないし」
震える手で台本をめくる。頭の中で小さな自分が歌い出す。二時間前までは知りもしなかった歌を。
「そうかな? わたしは、意外となんとかしちゃうんじゃないかな、って思ってるよ」
「どこにそんな根拠が……大体、たくさんの人に見られてちゃんと立っていられるかすらわからないのに」
「根拠かあ。……ねぇ、さっき話しそびれた続き、今話しても大丈夫?」
「いいけど……どれのこと?」
「小学生の頃の話」
藍は白いベールを揺らしながら、索理の正面からすぐ隣に移動してきた。二の腕が触れ合うほどの距離で、笑みをたたえた唇が開かれる。
「昔のサクって、それこそ物怖じしない性格だったじゃない? 男女分け隔てなく付き合いがあったし、誰とでもすぐ仲良くなれてた。自信とか不安とか、そういうものとは関係ないところにいた気がするの。ただ純粋に、いつも楽しそうにしてるサクを見てるのがわたしも楽しかった」
「あの頃と今は違うよ。ただ今より子どもだっただけ」
「うん──だから、今からサクが演じるのは、白雪姫じゃない」
藍はそっと、索理の耳元に口を寄せてくる。頭をすっぽり抱えるように腕が伸びてきて、視界の半分を白の長手袋が埋め尽くす。
「サクが今からトレースするのは昔のサク。あの頃と同じだよ。人の目は敵なんかじゃない。サクと同じでただそこにあるだけ」
「……藍」
鼓膜をくすぐる囁き声が、無意識に索理の身体までもを小さく震わせた。
「今からステージに上がるのは今のサクじゃない。誰にどう見られても本物のサクは傷つかない……わかる? サクは今、仮面をかぶってるの」
「仮面……」
「そう。白雪姫っていう役の仮面。昔の自分っていう仮面。失敗しても傷つくのはその仮面だけ。サクは少しも痛くない」
暗示のような声が染み渡っていく。
どろりと、脳の芯あたりで熱くなっていた部分が、やわらかく溶け出すような錯覚に陥る。
「大丈夫、大丈夫。上手くできなくて当たり前だよ。サクは限られた時間の中で十分頑張ってる。何があってもみんなが助けてくれるよ」
みんな。協力してくれた演劇部の面々が頭に浮かぶ。その先頭に立っているのは、索理がステージに立つことになった発端である彼だ。
「横野くん……」
うわごとのように名前がこぼれる。
彼の登場はまだ先で、今は照明演出の担当として舞台袖を外れている。部員不足の状況では、出番の合間を縫って演出に回る必要があるらしい。索理が歌い踊るシーンでも、彼の操るスポットライトが追いかけてきて照らされることになっている。
索理の頭に巻き付いた腕が離れていく。照れくさそうにはにかんだ藍は、誤魔化すように話題を変えた。
「サクってさ、案外横野くんのこと、嫌いじゃないでしょ」
「え?」
口から本気の困惑が飛び出す。
彼の提案を受けたことでそう解釈されているのなら心外だった。現に索理の中には未だ彼に対するわだかまりがモヤモヤと残っていて、この土壇場においてすら頭の中から消すことができずにいるのに。
索理の反応が予想通りだったのか、藍はくしゃりと笑った。
「自分でも気づいてないんだ。多分、プールで助けてもらったあの時からだよ。気づいたら横野くんとよく話すようになってて驚いちゃった。無意識なのかもしれないけど、それって嫌いじゃなくなったってことだよね?」
「そんなわけない。嫌いだし苦手だよ、ああいうタイプの人は」
「もし本当にそうだったら、劇に参加するかどうかを悩む前に、そもそも横野くんの呼び出しにすら応じてないと思うんだ。サクにしかできない、なんて言われたって、ボクには関係ありませんって突っぱねてたと思う。──でもそうしなかった」
「……」
「もしかしたら、助けてもらった恩を返すみたいな気持ちだったのかもしれないけど……それでも進歩だと思うんだ。だからさ、今日限りで縁を切るなんて約束、なかったことにしてあげたら?」
「それは絶対にいやだ。助っ人として飛び入り参加する一番の条件なんだから」
「でも嫌いじゃないでしょ?」
「嫌いだよ。顔も見たくないくらい」
強情だなぁ、と藍は苦笑する。
「……でも、サクの態度は最初の頃から確かに変わったよ。だから、ずっと先でもいいと思うから、いつか考え直してあげてほしいなって。せっかく同じクラスの仲間なんだしね」
「横野くんが言いそうなセリフだね」
「あ、セリフで思い出した。ごめん、こんな時にする話じゃなかったかも。セリフ飛んだりしてないといいんだけど」
「元々怪しいから問題ナシ」
「一応カンペも用意してるけど……確か、できるだけ客席に向けて喋るように、ってアドバイスされてたよね」
「物語そのものが詰まっちゃうよりはよっぽどマシでしょ。頼りにしてる」
索理はお返しのように、藍の頭に軽く触れた。




