センパイの自覚と後輩の心配
「あああキモチワルイキモチワルイ……男の手に触るとかただでさえ最悪なのに、よりによってあんなのを……」
「だからあそこまですることはないと言ったろう……普通に引き留めておいてくれたら先生に任せたものを」
隣を歩く灯花は、さっきまで数回にわたって洗っていた手を、さらに持参していたらしいアルコールで念入りに消毒している。
私が提案した作戦では当初、灯花が軽く声をかけて雑談をしている間に、職員室で待機しているであろう教師を私が呼びに行って対応してもらう、という腹積もりだった。それを聞いた灯花は、そんな甘っちょろいやり方じゃご帰宅願えない可能性があります、と提案を突っぱね、よりリスクが高い手段を持ち掛けてきた。得体の知れない相手と対峙し、そのリスクを負うのは主に灯花だったわけで、私としてはあまり乗り気ではなかったのだが……
「そういうわけにはいきませんよ。あんな男がうろついていたら、安心して学園祭を楽しむことができませんから。やるなら徹底的にです」
「やり口はあまりクリーンとは言えないのが気になるところではあるが」
「結果的には上手くいったんだからいいじゃないですか。安いものです、右手の一つくらい」
「あの男性には悪いことをしてしまったかもしれないがな……」
「むしろうち的には、真宵センパイが積極的にああいう人を排除しようとしたのが意外でした。実害でもない限り、あまり事を荒立てない人だと思っていたので」
「む、そうだろうか」
「自覚ありませんか?」
灯花が意外そうな顔で覗き込んでくる。
「真宵センパイって、割と自分のことはどうでもいい、ってタイプじゃないですか」
「そんなことはないと思うが……」
「そうじゃなかったら、生徒会にも部活動にも積極的に参加する理由がないと思うんです。推薦入試では有利になるみたいですが、そんなの真宵センパイの学力からすれば必ずしも必要な実績ではないですし。そんな時間があるなら勉強に回した方が、センパイ的には合っていると思うんですよね」
「忙しくしているのが性に合っているだけだ。それにありがたくも、私の能力を買ってくれる人たちもいる」
「そこです」
灯花の目が一段階鋭くなる。
「センパイの能力を求める人がいる。それが大きな理由なんじゃないでしょうか。そのためなら自分の時間を最大限使ってしまえるというか、無理してでもリソースを注ぎ込んでしまうというか……」
「ふむ……あまり自覚のない話だな」
「中学時代から心配なんです。こんなことを続けていたら、センパイが壊れちゃうんじゃないかって」
「壊れる……?」
「無茶してる自覚もありませんか? 昔も見ていて気が気じゃなかったんですよ。テニス部の部長に、生徒会長に、その上成績も上位キープ。それでいて友人関係も維持、後輩の相談にも親身になってくれる……完璧ですよね。でも、完璧すぎて時々怖いです」
灯花は語りながら、いつの間にか沈んでいた表情をふっと緩めた。
「なので、センパイにはもっと気楽にいてほしいわけです。そのためにうちはセンパイを目指してるんですから。少しでも助けになればと思ってるので、今日みたいにいつでも頼ってください」
「頼もしい後輩がいてうれしいよ」
スポーツキャップの上から頭を撫でてやると、灯花はこの上なく気持ちよさそうに目を細めた。
話しながら歩いているうち、演劇部による発表が予定されている体育館が見えてきた。
先ほどの一件で時間を失ってしまったこともあり、開演時間まではそう時間がない。奏士によると、うちの演劇部はかつてもっと規模が大きく、なかなかの実力派だったということだ。期待している人も多いのか、客席の多くは埋まっている。
「あ、食べ歩きするもの買い損ねましたね。少し戻りましょうか?」
「私はこのまま入っても構わないぞ。灯花のお腹が問題なければだが」
「ではそうしましょう」
二人並んで座れる席を見繕っていると、客席で開演を待つ大学生らしき人物たちの会話が耳に入ってきた。
「なぁ知ってるか? さっき後輩から連絡来たんだけど、今年のメイン役の一人、喉やっちゃって出られないらしいぞ」
「マジ? この土壇場で? 俺らの代と違って今は人数いないんだろ? どうすんのよ。中止ってわけではないみたいだが」
会話の内容から察するに、彼らは演劇部のOBらしい。
「なんか代役立てるとか言ってたけど、その分演出面とか人数削って妥協しないといけないわけじゃん? どーすんだろうな」
「そうかあ。せっかく観に来たけど、この調子だと期待薄かねぇ」
「気の毒な話ではあるけどな」
彼らの会話は灯花の耳にも届いていたらしい。隣に腰を下ろした灯花は、明るいとは言えない表情でそわそわと肩を揺らしている。
「大丈夫でしょうか……真宵センパイと同じクラスの方が主役なんですよね? 劇に出られるかも大事ですが、心配ですね」
「横野の体調は悪くなさそうだったがな……出店のシフトにも一緒に入っていたが、普通に話していた覚えがある」
「そうなんですか。だったら別の役の人がダウンしちゃったんですかね」
心配ですねぇ、と灯花は椅子に深く座りなおした。
開演時間が近い。すでに照明のいくつかが消えているらしく、体育館は普段よりもやや暗くなっていた。少しだけ腰を浮かせて客席の中に索理たちの姿を探してみるが、この人数ではいたとしても発見するのは難しそうだ。
『本日は天橋学園の学園祭にご来場いただき、誠にありがとうございます。開演中、携帯電話のご使用はお控えいただき、電源をお切りになるかマナーモードに──』
「センパイ、そろそろ始まるみたいですよっ」
灯花が小声で呼びかけてくる。
促されるままに椅子に体重を預け、念のためスマホを取り出して、音が出ない設定になっていることを確認しておいた。
『──皆様、たいへんお待たせいたしました。天橋学園演劇部、第十八期による物語をどうぞお楽しみください』
ほどなくしてアナウンスはそう締めくくられ、臙脂色の幕がゆっくりと開いていった。




