第9話 「夫婦だっただろう」と泣く元夫
第9話 「夫婦だっただろう」と泣く元夫
八月最後の日曜日、佳代子はベランダのプチトマトを片づけていた。赤い実は残り五つになり、下のほうの葉は黄色く縮れている。パセリと青じそはまだ元気だったが、バジルには白い花がつき、季節が少しずつ移っていた。
佳代子は熟したトマトを籠へ入れ、土の表面に落ちた枯れ葉を拾った。朝のうちなら涼しいと思ったが、薄い木綿のブラウスの背中には汗がにじんでいる。じょうろの水を使い切ったところで、部屋の電話が鳴った。
「もしもし」
「俺だ」
隆志の声を聞いても、佳代子の手は止まらなかった。受話器を肩へ挟み、じょうろを流し台へ置く。以前なら声の調子だけで夫の機嫌を読み、先に謝る言葉を探していたが、今日は用件を待った。
「工事会社と連絡が取れない。梨沙さんも、今後は弁護士を通せと言ってきた」
「そうですか」
「そうですか、じゃない。家が大変なことになっているんだ」
「住宅に関する連絡は、井沢先生を通してください。離婚協議書にも書いてあります」
隆志は少し黙ったあと、直接会って話したいと言った。佳代子が住所を教えなければ、菜月に聞くとも言う。押しかけて近所で騒がれるより、一度きちんと断ったほうがよいと考え、佳代子は午後二時なら在宅していると答えた。
電話を切ると、トースターからパンの焼ける匂いがした。佳代子はトマトとバジルを刻み、チーズトーストへ載せた。冷たい麦茶も用意し、窓辺の椅子へ座った。
午後一時過ぎ、田辺がベランダ越しに声をかけてきた。朝顔の種を小さな封筒へ入れ、来年まくなら半分どうかと尋ねる。佳代子が受け取ると、田辺は玄関のほうを気にしながら声を落とした。
「さっきから、下で男の人がうろうろしていますよ。紺色のシャツを着た、背の高い人」
「元夫です。二時に来る約束なのですが、ずいぶん早く着いたようですね」
「何かあったら壁を三回叩いてください。すぐ管理人室から上がってきますから」
田辺は、朝顔の封筒を佳代子の手へしっかり押し込んだ。佳代子は礼を言い、封筒を家計簿の間へ挟んだ。一人暮らしになったから誰にも気にかけられないのではなく、暮らしを始めれば新しい隣人ができるのだと知った。
二時ちょうどに、玄関のチャイムが鳴った。扉を開けると、隆志が紙袋と書類の束を抱えて立っている。髭は頬まで伸び、紺色のシャツの襟には茶色い食べこぼしがついていた。
「狭いところだな」
部屋へ入った隆志は、挨拶より先に天井と壁を見回した。玄関から台所も和室も見え、数歩歩けばベランダへ届く。隆志は自分の家と比べるように鼻を鳴らした。
「家賃は三万二千円です。私一人なら十分です」
「風呂もついているのか?」
「狭いですが、毎日入れます。掃除もすぐ終わります」
隆志は六畳の和室へ座った。佳代子は菜月が小学生のころに作った欠けた湯飲みへ番茶を注ぎ、自分には冷たい麦茶を用意した。番茶と一緒に、朝摘んだプチトマトを小皿へ載せる。
「こんな物しかないのか」
「お茶だけのつもりでしたから。お昼を召し上がっていないのですか?」
「朝から何も食べていない。台所が使えないんだ」
佳代子は立ち上がらなかった。冷蔵庫には残ったパンと卵があったが、夫婦だったころのように食事を作れば、隆志はそれを当然だと受け取る。隆志も催促はせず、プチトマトを一つ口へ入れた。
「家で作ったのか?」
「ベランダのプランターです」
「お前は、そういう細かいことが好きだったな」
「嫌いではありません。でも、以前の庭にはあなたの松とツツジがありましたから」
隆志は残りのトマトにも手を伸ばした。皮が張っていたため、噛むと汁がシャツへ飛んだ。佳代子は布巾を渡さず、隆志が自分のハンカチを出すまで待った。
やがて隆志は、持参した支払い予定表を畳の上へ広げた。住宅ローン、追加工事費、固定資産税、工事会社への未払い金が赤いペンで囲まれている。食卓の上で計算したらしく、紙の端にはコーヒーの丸い染みが残っていた。
「家が売れるまで、五百万円貸してくれ」
「お断りします」
「まだ説明していないだろう」
「住宅に関する費用は、すべてあなたが負担する契約です。貸したお金が返ってくる見込みもありません」
隆志は、買い取り業者から三千六百万円を提示されたと話した。住宅ローンと工事費を払えば手元にほとんど残らないため、八千万円に近い価格で買う相手が現れるまで待ちたいという。その間の返済と生活費として、五百万円が必要だった。
「三千六百万円で売ればよいでしょう」
「あの家をそんな値段で手放せるか。八千万円の価値があるんだぞ」
「改装途中で雨漏りもあります。現在の状態で三千六百万円なら、検討すべき金額です」
「また専門家ぶって、俺を馬鹿にするのか」
隆志の声が大きくなり、壁の向こうで椅子を動かす音がした。田辺が様子をうかがっているのだろう。佳代子は慌てず、湯飲みへ番茶を足した。
「私は、今ある資料から判断しているだけです」
「五百万円くらい、何とかなるだろう。お前は年金もあるし、仕事もしているんだから」
「私の生活費です。あなたの家を守るためのお金ではありません」
「離婚したって、三十五年も夫婦だったんだ。俺が家を失っても平気なのか?」
隆志は湯飲みを握ったまま、畳へ視線を落とした。離婚したあとも、佳代子が自分を気にかけていると思っていた。一人暮らしに耐えられなくなり、謝って戻ってくると考えていたことも口にした。
「お前には俺しかいないだろう。女が一人で老後を過ごせるわけがない」
佳代子は窓辺へ目を向けた。一人分の白いブラウスとタオルが風に揺れ、その向こうには青じそと分葱が並んでいる。冷蔵庫には自分の食べたい物が入り、手帳には仕事と図書館へ行く予定が書かれていた。
「あなたがいなくて困ったことは、一度もありません」
「意地を張るな。こんな狭い部屋で、寂しくないはずがないだろう」
「田辺さんと野菜を交換します。仕事では相談者の方と話します。菜月や孫も遊びに来ます」
佳代子は欠けた湯飲みを見た。隆志のシャツの襟についた染みも、伸びた髭も見えている。夫婦だったころなら、食事を出し、シャツを洗い、髭を剃るよう声をかけていた。
今は、隆志が自分で選んだ服を着て、自分で食べた物をこぼしただけだった。その汚れを誰が落とすのかも、佳代子が考えることではない。佳代子は支払い予定表をそろえ、隆志の前へ戻した。
「その三十五年間を、退職金と家に換えたのはあなたです」
「夫婦には、助け合う義務があるだろう」
「離婚が成立した日に、その関係は終わりました」
「なら俺はどうすればいいんだ」
「家を売り、小さな部屋へ移れば、年金で暮らせます」
隆志は部屋を見回し、押し入れの襖と小さな食卓を鼻で笑った。以前の家にあった八人掛けの食卓も、来客用の和室もない。隆志はそんな暮らしをするくらいなら、家を守るほうがましだと言った。
「こんな狭い部屋で暮らせるか」
「私が暮らせる場所で、あなたが暮らせない理由はありません」
佳代子は立ち上がり、玄関の扉を開けた。廊下には午後の日差しが入り、田辺が水をまいた打ち水の跡が残っている。下の花壇では、赤い鳳仙花が風に揺れていた。
「もう一度考えてくれ。俺が頭を下げているんだぞ」
「私は、あなたから家も退職金も返してほしいとは言いません。あなたも、私に責任だけ返そうとしないでください」
佳代子は隆志が飲んだ欠けた湯飲みを流しへ運んだ。番茶の茶葉が底に残り、縁には隆志の指の跡がついている。水で流せば、それはすぐに消えた。
「お帰りください。私はもう、あなたの妻ではありません」
隆志は書類を紙袋へ押し込み、玄関で靴を履いた。佳代子が扉を閉める前、何か言いたそうに振り返ったが、言葉は出てこなかった。階段を下りる足音が消えると、隣の壁が三回、軽く鳴った。
「大丈夫です」
佳代子も壁を三回叩いて答えた。ベランダへ出ると、洗濯物は夏の風ですっかり乾いている。佳代子は一人分のブラウスとタオルを取り込み、空いた物干し竿へ、洗ったばかりの青じそを干した。




