第10話 八千万円の豪邸、競売価格三千三百万円
第10話 八千万円の豪邸、競売価格三千三百万円
佳代子の部屋を訪ねた翌日、隆志は不動産会社を呼んだ。改装途中の台所には剝き出しの柱が並び、青い養生シートの端には雨水がたまっている。窓の外では百日紅の花が散り、手入れされなくなった芝生へ桃色の花びらが張りついていた。
担当者は懐中電灯で柱を照らし、床を何度も踏んだ。二階の洗面所と浴室も確認し、外壁のひびを写真に撮る。隆志は後ろをついて歩き、担当者が何か書くたびに査定額が下がるような気がして、口数が多くなった。
「この土地だけでも、八千万円の価値があると聞いている」
「近隣の新築住宅が八千万円前後ということではありませんか?」
「改装すれば一億円で売れる家なんだ。工事会社が途中で止めただけだ」
「現状では台所が使えず、柱と配管の補修も必要です。一般のお客様へ、その価格で紹介することは難しいですね」
担当者が提示した買い取り価格は三千六百万円だった。仲介で売りに出すなら多少高い価格から始められるが、買い手が見つかる保証はない。住宅ローンの返済が続くことも考え、早めに売却するよう勧めた。
「半額以下じゃないか。俺を馬鹿にしているのか」
「現在の状態を見て査定した金額です」
「帰ってくれ。八千万円で買う客を連れてきたら話を聞く」
担当者は査定書を食卓へ置き、名刺を添えて帰った。隆志は三千六百万円と印刷された紙を裏返した。食卓には昼に食べたカップ麺が残り、冷めた汁の表面へ黄色い脂が浮いていた。
隆志は家を八千万円で売りに出した。広告には「世田谷の閑静な住宅地に建つ大型邸宅」と書かれたが、内覧希望者はなかなか現れなかった。ようやく訪れた夫婦も、剝がされた壁と雨染みを見た途端、玄関へ引き返した。
「台所は、いつ完成する予定ですか?」
若い妻が鼻へハンカチを当てながら尋ねた。湿った柱と古い弁当の匂いが、居間まで流れている。隆志は買主が決まれば工事を再開すると答えた。
「この状態で八千万円は、少し考えられません」
「土地だけでも価値がある。完成すれば一億円になる家だ」
「それなら、完成してから売りに出されたほうがよいのでは?」
夫婦は家の前に咲いていた白い芙蓉にも目を向けず、車へ戻った。仲介会社から値下げを提案されても、隆志は応じなかった。五千万円台へ下げれば問い合わせが増えると言われたが、佳代子の査定が正しかったと認めるようで承諾できなかった。
秋になると、住宅ローンの返済が滞り始めた。家事代行は解約し、外食も減らしたが、工事費と梨沙に勧められた不動産投資で預金はほとんど残っていない。隆志は食パンと即席のスープで食事を済ませ、同じシャツを三日続けて着た。
銀行から最初の督促状が届いた日、玄関脇の金木犀が咲いていた。封筒を開けると、滞納額と支払期限が太い文字で記載されている。隆志は梨沙へ電話をかけたが、番号はすでに使われていなかった。
翌月には、期限の利益を失う可能性を知らせる通知が届いた。分割返済を続ける権利を失えば、残った住宅ローンを一括で支払わなければならない。隆志は銀行へ出向き、家が売れるまで待ってほしいと頼んだ。
「売却活動を続けているなら、現在の価格を見直してください」
銀行の担当者は、八千万円と書かれた販売資料を机へ戻した。三千六百万円での買い取りを断った経緯も、不動産会社から報告されている。隆志は赤くなった手で膝をさすり、口元を曲げた。
「あの家は八千万円の価値がある。安売りしろと言うのか」
「価値は、所有者の希望額ではなく、実際に購入する方が現れる金額で決まります」
「もう少し待てば、一億円で買う人間が出てくる」
「返済を止めたまま、お待ちすることはできません」
年が明ける前に、隆志は期限の利益を失った。残債と遅延損害金を一括で支払うよう請求されたが、通帳にはその金がない。銀行は抵当権を実行し、自宅は競売の手続きへ進んだ。
冬の朝、裁判所の執行官と不動産の評価人が家を訪れた。庭の山茶花は赤い花をつけていたが、落ち葉が玄関前まで積もっている。隆志は毛玉のついた灰色のセーターを着て、冷えた廊下を靴下のまま歩いた。
「台所は工事中なんです。完成すれば価値が上がります」
「現在の状態で評価します。工事が完了する予定はありますか?」
「金が戻れば再開できる」
「工事会社とは連絡が取れていますか?」
隆志は答えず、居間の暖房を強くした。電気代を抑えるため暖房を切っていたので、部屋の空気は冷え切っている。朝食に作った即席の味噌汁も、食卓の上ですっかり冷めていた。
競売が公告されると、何組もの入札希望者が家を見に来た。誰も一億円の豪邸としては見ず、土地の値段から解体費と修繕費を差し引いて計算する。隆志が説明しようとしても、訪れた業者は柱の腐食や雨漏りの写真ばかり撮った。
落札価格は三千三百万円だった。住宅ローンの残債、遅延損害金、競売にかかった費用を差し引くと、隆志の手元にはほとんど残らない。退職金二千万円も、相続預金も、改装工事、家事代行、外食、梨沙の勧めた投資へ消えていた。
梨沙が紹介した工事会社には、行政上の調査が入った。隆志たち契約者も弁護士を通して返金を求めたが、会社には支払える資産がほとんど残っていない。梨沙に対する請求も始まったものの、契約書には売却価格を保証しないと書かれ、隆志自身の署名が残っていた。
家を明け渡す期限は二週間後だった。隆志は古い賃貸アパートを借りたが、大きな家具は運び込めない。買い取り業者を呼び、応接セット、食器棚、婚礼箪笥、八人掛けの食卓を査定してもらった。
「この食卓は高かったんだ。外国製の無垢材だぞ」
「天板に染みと傷があります。椅子も二脚、脚が緩んでいますね」
「三十五年使えるほど、丈夫な品だ」
「買い取り額は、椅子を全部合わせて千円です」
隆志は聞き間違いだと思い、もう一度金額を尋ねた。業者は千円と書いた査定表を差し出した。処分費を取らないだけでもよい条件だと説明する。
食卓の天板には、子どもだった菜月がフォークでつけた細い傷が残っていた。端には熱い鍋を置いてできた白い輪があり、佳代子が何度磨いても消えなかった。三十五年間、味噌汁、卵焼き、弁当のおかず、隆志の晩酌用の煮物が並んだ場所だった。
隆志が覚えていたのは、食卓の購入価格だけだった。毎朝誰が味噌汁を作り、誰が食べこぼしを拭き、誰が傷へ油を塗ってきたのかは、考えたこともなかった。業者が食卓を運び出すと、床には四角く色の違う跡が残った。
「千円で、お願いします」
隆志は査定表へ署名した。業者のトラックへ食卓が積まれると、がらんとした居間に冷たい風が通った。庭の山茶花が一輪落ち、掃き出し窓の外で赤い花びらを散らした。
その日の夕方、菜月は佳代子の部屋を訪れた。手土産には、商店街で買ったアジの開きと小松菜を持ってきている。佳代子は小松菜を油揚げと煮ながら、菜月の話を聞いた。
「家、三千三百万円で落札されたって。お父さん、来週には出ていくそうよ」
「そう」
「見に行かなくていいの?」
佳代子は鍋の火を弱めた。窓辺には、夏に植えた分葱がまだ細い葉を伸ばしている。ベランダの鉢では、田辺からもらったビオラが紫色の花を咲かせていた。
「もう、私の家ではありませんから」
菜月は少し黙り、アジの開きを魚焼き器へ入れた。焼けた皮の匂いが小さな台所へ広がる。二人分の食卓なら、六畳の部屋にも十分な余裕があった。
「お父さんを助けないの?」
「助けを求められたとき、年金で暮らせる部屋へ移るよう伝えました。お父さんは、自分で家を残すほうを選びました」
「そうだね。お母さんは、何度も説明したものね」
佳代子は小松菜の煮物を二つの小鉢へ分けた。隆志の失敗を笑うことも、失った家を惜しむこともしなかった。夫が自分で選んだ人生を、妻だった佳代子が再び背負わないことが、三十五年分の責任を隆志へ返す最後の行為だった。




