第11話 妻を定年退職しました
第11話 妻を定年退職しました
佳代子が会社を定年退職してから、一年が過ぎた。四月の朝、市役所へ続く歩道ではハナミズキが白い花を開き、薄桃色の花びらが風に乗って歩道へ落ちている。佳代子は若草色のブラウスに紺色のカーディガンを羽織り、革の鞄を持って住宅相談窓口へ向かった。
勤務は火曜日と木曜日の週二日で、午前十時から午後四時までだった。以前の会社より給料は少ないが、厚生年金と企業年金を合わせれば、家賃と生活費を十分に賄える。給料日には図書館近くの店で本を一冊買い、残った金を月に一度の小旅行へ取っておいた。
窓口の机には、昨年撮った職員の集合写真が飾られている。隣の席の森下は相変わらず机を散らかし、朝から赤いボールペンを探していた。佳代子が書類の下から見つけて渡すと、森下は頭をかいた。
「坂井さんがいない日は、何も見つからないんですよ」
「私を頼りすぎると、火曜日と木曜日しか仕事が進まなくなりますよ」
「今日は来てくださって助かりました。九時半からお客様が待っているんです」
相談室には、六十八歳の女性が座っていた。名前は河合美津子といい、夫を亡くして半年になる。藤色のジャケットの袖口を何度も引っ張りながら、古い一戸建ての図面と固定資産税の通知書を膝へ載せていた。
河合の家は築四十二年で、夫が亡くなってから二階を一度も使っていない。屋根と浴室を修繕するには七百万円近く必要だが、夫との思い出が残る家を手放すことにも迷っていた。息子からは、早く売って高齢者向け住宅へ入るよう勧められている。
「家を売ったら、夫との四十年までなくなるような気がするんです」
河合は持参した水筒の蓋を開けたが、口をつけずに閉じた。図面の隅には、子どもがクレヨンで描いた小さな丸が残っている。佳代子はその丸を消さないよう、図面をゆっくり広げた。
「家を残すことと、そこで暮らし続けることは別に考えてみましょう。修繕費、税金、通院や買い物にかかる費用を比べます」
「数字だけで決められるものでしょうか」
「いいえ。だから最後に、今後どんな朝を過ごしたいかも考えます」
佳代子は紙を二つに分け、現在の家を維持する費用と、小さな賃貸住宅へ移る費用を書いた。河合の膝は悪く、二階だけでなく、駅までの坂道も負担になっている。庭の梅と、夫が使っていた書斎だけは手放したくないという。
「梅の枝を挿し木にして、鉢へ移すこともできます。書斎の本を全部持っていけなくても、特に大切な本を選ぶことはできます」
「選べなかった本は、捨てるんですか?」
「図書館へ寄贈したり、欲しい方へ譲ったりできます。手放すことは、なかったことにすることではありません」
河合は窓の外のハナミズキを見た。すぐに家を売るとは決めず、駅に近い賃貸住宅を一つ見学することになった。佳代子は見学へ息子を連れていくよう勧め、家賃だけでなく台所の高さと病院までの道も確かめるよう伝えた。
「坂井さんも、一戸建てから引っ越したのですか?」
「はい。今は六畳一間です」
「窮屈ではありませんか?」
「掃除が早く終わります。朝食も、温かいうちに食べられますよ」
昼休み、佳代子は窓辺の席で弁当を開いた。分葱を入れた卵焼き、パセリを混ぜたポテトサラダ、ラディッシュの甘酢漬けが入っている。ベランダのバジルは冬に枯れたが、今年も新しい種をまいていた。
森下は妻が作った大きなおにぎりを食べながら、連休の予定を尋ねた。佳代子は電車で二時間ほどの城下町へ行き、古い町家を見てくると答えた。宿泊はせず、朝出て夕方に戻る小さな旅だった。
「お一人で行くんですか?」
「ええ。現地で何を食べるかも、まだ決めていません」
「それが一番楽しいんですよね。うちは妻と食べたい物が違って、いつも相談が長くなります」
「相談できるなら、相談してください。私も三十五年間、もっと相談すればよかったと思います」
佳代子は卵焼きを一口食べた。自分の好きな甘い味で、分葱の香りがよく合っている。昼休みが終わるまで、旅行案内を見ながら名物のうどんと焼き魚のどちらを食べるか迷った。
そのころ隆志は、駅から離れた古い賃貸アパートで暮らしていた。六畳の和室と小さな台所があり、家賃は四万五千円だった。窓の下を電車が通るたび、食器棚のガラスが細かく揺れた。
隆志はシルバー人材センターへ登録し、公園の清掃と公共施設の草刈りをしている。朝七時に起き、作業着へ着替え、食パンを一枚焼く。以前は佳代子が作った味噌汁と焼き魚を食べていたが、今はインスタントコーヒーでパンを流し込んだ。
洗濯は週に二回、自分でするようになった。白いシャツと色物を一緒に洗い、靴下が薄桃色に染まったこともある。今では洗剤の量を量り、洗い終わればすぐに干す。
仕事帰りには、スーパーで値引きされた弁当を買う。半額のシールが貼られる時刻も覚え、二日分をまとめて買わないようになった。以前、冷蔵庫で弁当を腐らせたことがあるからだった。
菜月は月に一度、隆志へ電話をしていた。佳代子が頼んだわけではなく、娘として自分で決めたことだった。隆志も、佳代子の住所を聞いたり、家の競売について話したりしなくなった。
「お父さん、洗濯物を外へ干したままにしないでね。今夜は雨だって」
「もう取り込んだ。天気予報くらい見ている」
「お弁当だけじゃなく、野菜も食べてる?」
「昨日、キャベツの千切りを買った」
「袋を開けたら、早めに食べるのよ」
隆志は余計なお世話だと言いながら、冷蔵庫のキャベツを確認した。佳代子なら何も言われなくても食卓へ出したが、今は自分で袋を開けなければ傷んでいく。佳代子は隆志の暮らしについて、菜月へ尋ねなかった。
日曜日、菜月が小学生の息子、直人を連れて佳代子の部屋へ遊びに来た。直人は玄関で靴を脱ぐと、六畳の部屋を一周した。窓辺の本、壁に掛けた旅行先の絵葉書、ベランダのプランターを順番に見ていく。
「おばあちゃんのおうち、前より小さくなったね」
「そうね。前の居間だけで、この部屋より広かったもの」
「お庭もなくなっちゃったの?」
佳代子は窓を開け、ベランダへ直人を呼んだ。パセリ、青じそ、バジル、ラディッシュ、分葱の新しい芽が春の日差しを受けている。手すりの向こうには、海まで続く遊歩道と、若葉をつけた桜の木が見えた。
「その代わり、庭がずいぶん広くなったの」
直人は海を見つけると、靴下のまま部屋へ戻り、今から行きたいと言った。菜月が昼食を食べてからと止めると、直人はベランダのプランターをのぞき込む。佳代子は伸びた分葱を切り、三人分のうどんへ載せた。
食卓には、菜月が持ってきた竹輪の磯辺揚げと、佳代子が作ったラディッシュの漬物も並んだ。直人は青じそを嫌がり、一本ずつ器の端へ避ける。菜月が食べなさいと言うと、佳代子は笑って自分の器へ移した。
「私も子どものころは、青じそが苦手でした。大人になってから食べられるようになったのよ」
「おばあちゃんにも、嫌いな物があったの?」
「たくさんありました。今でもあります」
「おじいちゃんは?」
菜月が箸を止めたが、佳代子は普通にうどんをすすった。隆志が元気に暮らしていることと、自分で洗濯をしていることだけを直人へ話した。家を失った経緯や離婚の責任を、孫に背負わせる必要はなかった。
昼食後、三人は海まで歩いた。遊歩道の花壇にはパンジーとネモフィラが咲き、潮風が直人の帽子を何度も持ち上げる。佳代子は追いかけて帽子を拾ったが、帰宅しても夕食を作る仕事は待っていなかった。
翌朝、佳代子は午前六時に目を覚ました。以前より三十分遅くなったが、目覚まし時計は使っていない。窓を開けると、ベランダのバジルの芽に丸い露がついていた。
佳代子はチーズトーストを焼き、半熟の目玉焼きを添えた。紅茶へシナモンを二振りすると、甘い香りが小さな台所へ広がる。昨日残ったラディッシュの葉は、刻んでスープへ入れた。
壁には、会社を定年退職した日にもらった腕時計が掛けてあった。三十五年間、会社の勤務を終えて帰宅しても、妻と母親としての仕事が待っていた。食事を出し、服を洗い、夫が眠ってから翌朝の米を研いだ。
会社には給料も休日も退職日もあった。しかし妻の仕事には、隆志から給料も感謝も与えられず、退職する日も決められていなかった。佳代子は腕時計を壁から外し、引き出しの中へしまった。
「私は会社を定年退職して、あの人の妻も定年退職したのね」
誰も返事をしなかった。電話も鳴らず、脱ぎ捨てられた服も、空になった茶碗も運ばれてこない。佳代子は温かいトーストを持ち、窓辺の椅子へ座った。
一口かじると、パンの端が小さく鳴った。溶けたチーズとシナモンの甘い匂いが混じり、紅茶からはまだ湯気が上がっている。佳代子は誰にも呼ばれないまま、二口目をゆっくり味わった。
三十五年間で初めて、自分の朝食が最後まで冷めなかった。




