エピローグ おいしいものを、おいしいねと
エピローグ おいしいものを、おいしいねと
日曜日の午後、佳代子は図書館からの帰りに大型スーパーへ立ち寄った。店内には冷房が利き、薄い水色のワンピースでは腕が少し冷える。買い物籠には牛乳、卵、食パン、豆腐を入れたが、夕食に何を作るかはまだ決めていなかった。
鮮魚売り場を通ると、氷を敷いた台に新鮮なイカが並んでいた。透明な身には薄い茶色の斑点が動き、値札には本日限りの特売と書かれている。佳代子は足を止め、丸ごとのイカと刺身用に切られたものを見比べた。
「今日は、いいイカが入りましたよ。お刺身なら、こちらがおすすめです」
白い長靴を履いた店員が、細く切ったイカのパックを指した。隣には、刺身にした残りのげそも安く並んでいる。佳代子は一人分なら小さなパックで足りると思ったが、身の艶を見ているうちに、げそも籠へ入れたくなった。
「刺身とげそを両方買っても、二人で食べ切れますか?」
「十分ですよ。げそはフライパンでさっとあぶって、生姜醤油をかけるとうまいです」
「それなら、今夜はそれにします」
佳代子は刺身を二パックと、げそを一パック買った。青果売り場では大根と生姜も籠へ入れる。自宅のプランターの青じそはまだ小さく、二人分を取れば葉がほとんどなくなるため、青じそも一束買い足した。
酒売り場へ回ると、小さな瓶に入った日本酒が冷蔵棚に並んでいた。桃や林檎に似た香りがすると説明に書かれた、三百ミリリットルの純米吟醸を選ぶ。以前の家では隆志がいつも辛口を買い、佳代子が甘い酒を選ぶと、酒の味が分かっていないと笑った。
レジを済ませると、紙袋から氷の冷たさが腕へ伝わった。外へ出た途端、夏の熱気が眼鏡を曇らせる。道路脇の花壇では、黄色いマリーゴールドが強い日差しの下で咲いていた。
公営住宅へ戻ると、田辺が共用廊下の掃除をしていた。藤色の割烹着の上へ白い手拭いを掛け、鉢植えの朝顔から落ちた花をほうきで集めている。佳代子が買い物袋を持ち直すと、中の酒瓶が小さく鳴った。
「今日はごちそうですか?」
「イカのお刺身が安かったんです。げそも買いましたから、夕食をご一緒しませんか?」
「まあ、お酒まであるじゃないですか。私、少しなら飲みますよ」
「私も少しだけです。冷やしておきますから、六時ごろにいらしてください」
田辺は、ご飯を炊いて持ってくると約束した。佳代子は部屋へ入り、買った物を小さな冷蔵庫へ収める。イカの刺身とげそは一番冷える上段へ置き、日本酒も隣へ寝かせた。
夕方、佳代子は大根でつまを作り、青じそを皿へ敷いた。刺身をその上へ並べ、ベランダから摘んだパセリとプチトマトを添える。豆腐には細く切った分葱を載せ、味噌汁には油揚げとラディッシュの葉を入れた。
げそは水気を拭き、食べやすい長さに切った。フライパンを強火にかけて少量の油をなじませ、げそをさっとあぶるように焼く。身が丸まり、吸盤の縁へ薄い焼き色がつくと、海の匂いに香ばしさが加わった。
佳代子は火を止め、すりおろした生姜を醤油へ混ぜた。熱いげそへ回しかけると、じゅっと音が鳴り、湯気と一緒に生姜の香りが立ち上がる。フライパンに残った汁まで小皿へ移したところで、玄関のチャイムが鳴った。
田辺は六時ちょうどに、炊きたてのご飯とキュウリのぬか漬けを持ってきた。藍色の小さな風呂敷をほどくと、米の湯気とぬかの酸っぱい匂いが広がる。二人で食卓へ皿を並べると、六畳の部屋が少し狭くなった。
「げそまであるんですか。これはお酒が進みそうですね」
「鮮魚売り場の方が、生姜醤油がおすすめだと教えてくれました」
「よい焼き色ですよ。冷めないうちにいただきましょう」
佳代子は欠けた湯飲みを自分の前へ置き、田辺には新しく買った小さな酒器を出した。冷えた日本酒を注ぐと、甘い果物のような香りが立つ。窓の外では夕日が海のほうへ傾き、ベランダのバジルが風に揺れていた。
最初にイカの刺身へわさびを少し載せ、醤油につけて口へ運んだ。身には歯を押し返すような弾力があり、噛むほど甘さとうまみが口の中へ広がる。続けて日本酒を一口含むと、林檎に似た香りが舌の上に残った。
「このイカ、甘いですねえ」
「本当に。お酒もよく合います」
次にげそを食べると、表面は香ばしく、中には弾力が残っていた。生姜の辛みと醤油の焦げた味が加わり、刺身とはまったく違う。田辺はげそを噛みながら目を細め、日本酒をもう一口飲んだ。
「生姜醤油、大正解ですね。足の先までおいしいですよ」
「丸ごと食べられるものを、捨てずに味わえるのもいいですね」
佳代子は二切れ目の刺身を箸で取りながら、子どものころの夏を思い出した。寝たきりだった祖母が、親戚の集まった夕食でイカの刺身を食べたがったことがある。食卓には大皿いっぱいのイカが並び、祖母は布団から何度も台所のほうを見ていた。
叔母たちは、イカにはコレステロールが多いから駄目だと反対した。体に悪い物を食べさせるわけにはいかないと言い、祖母の膳には柔らかく煮たカボチャだけを載せた。祖母は何も言わず、箸でカボチャを小さく崩していた。
佳代子は子どもだったので、大人の会話へ口を挟めなかった。病気を治すためなら我慢も必要なのだろうと思う一方で、寝たきりの祖母が欲しがったイカを一切れも食べられないことが不思議だった。ただ長く生きるために、好きな味も選べなくなるのなら、毎日の食卓は何のためにあるのだろうと考えた。
「どうしました? わさびが利きましたか?」
田辺に尋ねられ、佳代子は箸を動かした。イカの横には赤いプチトマトが並び、青じその香りが鼻へ届く。佳代子は祖母の話を短く伝えた。
「昔は、何でも駄目だと言いましたからねえ。卵も一日一個までとか、味噌汁は血圧に悪いとか」
「体を大切にすることは必要です。でも、本人が何を食べたいかも聞いてほしかったと思います」
「一切れ食べて、おいしいと言えたら、それだけで違ったでしょうね」
田辺は刺身を一切れ取り、よく噛んでから日本酒を飲んだ。佳代子は祖母の分まで味わうように、げそへ生姜醤油を少し足した。急いで夫の皿へ料理を載せる必要も、酒の選び方を笑われることもなかった。
「おいしいものを、おいしいねと食べられるのは至福の時よね」
「一緒に言う人がいれば、もっとおいしくなりますよ」
田辺はそう言って、ぬか漬けの皿を佳代子の前へ寄せた。佳代子は礼を言い、冷えた日本酒をもう少しだけ注いだ。果物に似た香りが口の中に広がり、イカの甘みとゆっくり混じった。
食事が終わっても、二人はすぐに立たなかった。田辺は若いころに港町で食べたイカ焼きの話をし、佳代子は来月出かける町の図書館について話した。味噌汁は少し冷めていたが、誰も早く片づけろとは言わなかった。
外が暗くなると、ベランダの向こうに海辺の灯りがついた。大きな家も八人掛けの食卓もないが、六畳の部屋には二人の笑い声と、食べ終えた皿が残っている。佳代子は最後の刺身を半分に分け、片方を田辺の小皿へ載せた。
「半分ずつにしましょう」
「では、次は丸ごとのイカを買って、げそをもっと焼きましょうね」
佳代子はうなずき、残った半分を口へ運んだ。自分が食べる物も、一緒に食べる相手も、明日をどう過ごすかも、もう誰かの許可を求める必要はない。噛むほどに広がるイカの甘さを、佳代子は最後までゆっくり味わった。




