第8話 一億円の約束は、契約書のどこにもない
第8話 一億円の約束は、契約書のどこにもない
梨沙の事務所から戻った翌朝、隆志は食卓の上へ契約書を並べた。窓の外では、伸び放題になった百日紅が濃い桃色の花をつけている。植木屋との年間契約は料金を払えず解約したため、細い枝が網戸へ触れ、風が吹くたびに乾いた音を立てた。
隆志は老眼鏡をかけ、改装工事の契約書を最初から読み直した。工事代金、紹介手数料、資材価格が上がった場合の追加費用、売却価格を保証しないという条項が、小さな文字で並んでいる。どのページにも自分の署名と印鑑があり、梨沙が約束した「一億円」という数字は一度も書かれていなかった。
食卓の端には、昨夜買った幕の内弁当が残っていた。冷蔵庫へ入れ忘れた焼き鮭から生臭い匂いがして、煮物の汁には小さな虫が浮いている。隆志は弁当の蓋を閉じ、ごみ袋へ押し込んだ。
「可能性があると言っただけ、か」
声に出しても、言葉の意味は変わらなかった。佳代子も銀行員も、保証のない価格を返済の当てにしてはいけないと説明していた。それでも隆志は、妻より自分を褒める若い女の言葉を選んだ。
午前九時になると、改装会社へ電話をかけた。呼び出し音が長く続いたあと、聞き慣れない男性が出た。工事責任者の石川ではなく、本社の経理担当者だと名乗った。
「坂井ですが、工事が一週間も止まったままです。いつ再開するんですか?」
「申し訳ございません。現在、すべての工事を中断しております」
「追加費用まで払ったんだぞ。資材を入れて、すぐに再開してくれ」
「弊社は資金繰りが悪化しておりまして、担当者とも連絡が取れない状況です」
隆志は、支払った金を返すよう求めた。しかし経理担当者は、自分には判断できないと繰り返すだけだった。返金を希望する場合は書面を送ってほしいと言われ、会社の住所を確認すると電話を切られた。
台所へ行くと、壁は剝がされたままになっていた。黒くなった柱には白い粉が浮き、床の養生シートには昨日の雨水がたまっている。隆志は古い雑巾で水を拭いたが、絞る場所が分からず、汚れた雑巾を流しへ放り込んだ。
昼前、玄関のチャイムが鳴った。立っていたのは、見覚えのない七十代の男性だった。薄茶色の半袖シャツは汗で背中へ張りつき、手には梨沙の名刺が握られている。
「こちらは、広瀬梨沙さんから改装工事を紹介された坂井さんのお宅ですか?」
「そうですが、あなたは?」
「西村と申します。うちも同じ会社へ屋根の工事を頼んだんです。先に八百万円を払ったのに、足場だけ組んで来なくなりました」
西村は、梨沙が開いた老後資産セミナーの参加者だった。妻を亡くして一人暮らしをしていると話したところ、家を改装して賃貸へ出せば毎月二十万円の収入になると勧められたという。隆志は西村を居間へ通し、ぬるい麦茶を出した。
「あなたも、広瀬さんと親しくしていたんですか?」
「ええ。私のような誠実な男性となら、仕事以外でもお付き合いしたいと言われました」
「結婚の話は?」
「はっきり約束したわけではありません。ただ、一緒に温泉へ行きたいとは言っていました」
隆志は麦茶のコップを置いた。梨沙が自分に言った言葉と、ほとんど同じだった。西村も梨沙を自分だけの特別な相手だと思い、契約書をよく読まずに判を押していた。
二人で梨沙のセミナーについて調べると、同じような契約をした高齢者がほかにも見つかった。夫を亡くした女性には、自宅を担保にした投資を勧めている。定年退職した男性には、改装すれば高値で売れると持ちかけていた。
午後には、西村の紹介で三人の契約者が隆志の家へ集まった。食卓にはコンビニで買った麦茶と煎餅が並び、工事の埃がつかないよう新聞紙を敷いた。参加者たちは、それぞれ梨沙から渡された資料と契約書を持参していた。
「私には、お母様のように慕っていますと言いました」
白髪を短く切った女性が、梨沙と並んで撮った写真を見せた。隣の男性は、自分だけ特別に手数料を安くすると言われたが、契約書を見ると通常より高かったと話す。隆志は誰の話にも、自分と同じ言葉が含まれていることに気づいた。
「梨沙さんは、私と新しい人生を始めるつもりだったはずなんです」
隆志が言うと、三人は黙った。西村が煎餅の袋を開け、隆志の前へ一枚置く。醤油の焦げた匂いがしたが、隆志は手をつけなかった。
「坂井さん、私も同じように思っていました。あの人は、私たちを男や女として見ていたんじゃありません」
「では、何だと言うんです」
「預金と不動産を持っている客です。名簿には、それしか書かれていなかったのでしょう」
隆志は梨沙と初めて会った日のことを思い出した。梨沙が最初に尋ねたのは、趣味でも家族でもなく、持ち家か賃貸か、退職金はいくらか、住宅ローンは残っているかという質問だった。自分に関心を持っていると思ったが、梨沙が数えていたのは、隆志の財産だけだった。
その夜、再び強い雨が降った。養生シートの隙間から水が入り、台所の床へ広がる。隆志はバケツと洗面器を並べたが、雨水は剝き出しになった柱を伝い、食卓の近くまで流れてきた。
洗濯機には、三日前に洗ったシャツが入ったままだった。蓋を開けると生乾きの匂いが立ち上り、隆志は顔を背けた。家事代行の契約も、今月から週一回に減らしている。
隆志は梨沙へ電話をかけた。何度目かで梨沙が出たが、背後から男の声とテレビの音が聞こえる。隆志が工事会社の状況を話しても、梨沙は面倒そうに息を吐いた。
「紹介した会社が工事を止めたんだ。君にも責任があるだろう」
「私は契約の仲介をしただけです。工事を請け負ったわけではありません」
「俺だけじゃない。西村さんたちも被害に遭っている」
「被害と決めつけないでください。契約書に書かれた内容へ、皆さんが同意されたのでしょう?」
「君の言葉を信じたんだ。俺と一緒に暮らすつもりだと思っていた」
電話の向こうで短い沈黙があった。梨沙は、誰かへ聞かせるように小さく笑った。隆志は濡れた床に立ち、片方の靴下から水が染み込む感触に顔をしかめた。
「結婚を約束したことは一度もありません。坂井さんが、そう思い込んだだけです」
「一億円で売れると言ったじゃないか」
「一億円で売れる可能性がある、と説明しました。坂井さんは社会経験のある大人でしょう。ご自分で判断なさったのでは?」
通話が切れたあとも、隆志はスマートフォンを耳へ当てたまま立っていた。それは、佳代子が査定書と修繕見積書を見せたとき、自分が鼻で笑いながら口にした言葉だった。床へ落ちる雨水の音が、一つずつ数えられるほど大きく聞こえた。
翌日、佳代子は住宅相談の仕事を終え、駅前の図書館へ寄った。薄緑色のブラウスに生成り色のズボンを合わせ、鞄には朝摘んだバジルの葉を紙袋へ入れている。森下の妻へ渡す約束をしていたが、仕事中に会えなかったため、まだ爽やかな匂いが残っていた。
佳代子は旅行の棚から、海辺の町を紹介する本を二冊借りた。図書館の隅には自動販売機と小さな休憩所があり、紙コップのコーヒーは一杯百円だった。窓の外では、白い百日紅の花が夏の日差しを受けている。
「坂井さん、今度の日曜日は何か予定がありますか?」
同じ窓口で働く女性が、返却する本を抱えて声をかけた。近くの植物園で朝顔展が開かれ、六十五歳以上は入園料が半額になるという。佳代子は手帳を開き、日曜日の欄を見た。
以前の日曜日には、隆志の朝食、買い物、作り置き、ワイシャツのアイロンが並んでいた。今の手帳には、水やりと図書館の返却日しか書かれていない。佳代子は鉛筆で「朝顔展」と書き加えた。
「行ってみます。せっかくですから、お弁当も作って」
「園内の池に蓮も咲いていますよ。ただ、朝早く行かないと花が閉じてしまいます」
「早起きなら得意です。三十五年も練習しましたから」
二人で笑い、佳代子は百円のコーヒーを一口飲んだ。少し苦かったので、ポケットに入れていた角砂糖を一つ落とす。誰の好みに合わせる必要もない日曜日を、佳代子は自分の手帳へ初めて書き込んだ。
その夜、隆志は剝がれた壁を見ながら、佳代子へ電話をかけるか迷っていた。梨沙にも工事会社にも頼れず、預金は減り続けている。離婚したとはいえ、三十五年も妻だった佳代子なら、最後には自分を放っておけないはずだと考えた。
隆志は佳代子の番号を表示させ、発信ボタンの上へ指を置いた。食卓には冷めた弁当、床には濡れた雑巾、椅子には乾かないシャツが積まれている。画面の中の名前だけは、以前と変わらず「佳代子」のままだった。




