第7話 愛されていたのではなく、資産として数えられていた
第7話 愛されていたのではなく、資産として数えられていた
八月の朝、佳代子はベランダへ出て、小さなじょうろでプランターへ水をやった。パセリ、青じそ、バジル、ラディッシュ、分葱の葉が夏の空の下で光り、赤く熟したプチトマトも鈴のように連なっている。最初は何もなかったベランダだが、今では窓を開けるたび、青い葉と湿った土の匂いが部屋へ入ってきた。
佳代子はプチトマトを三つ摘み、朝食の皿へ添えた。バジルを一枚ちぎってチーズトーストへ載せると、焼けたパンの匂いに爽やかな香りが混じる。分葱は小さく切り、豆腐の味噌汁へ浮かべた。
「一人分なら、これだけでも食べ切れないわね」
佳代子が独り言を言うと、隣のベランダから田辺の声が聞こえた。管理人の田辺は麦わら帽子をかぶり、色の薄くなった朝顔の種を取っている。佳代子がバジルを分けると、田辺は代わりに黄色いミニトマトを二つくれた。
「一人で食べ切れないものは、隣へ回せばいいんですよ」
「では、今度は青じそも持っていってください。そうめんに合いますから」
「坂井さん、暮らし上手ねえ。引っ越してきたばかりとは思えませんよ」
佳代子は返事の代わりに、赤と黄色のトマトを皿へ並べた。以前の庭は広かったが、隆志の好きな松とツツジが植えられ、佳代子が食べたい野菜を育てる場所はなかった。今のベランダは狭くても、どの鉢に何を植えるかは自分で決められた。
その日の昼、佳代子は住宅相談窓口へ弁当を持っていった。青じそを巻いた卵焼き、プチトマト、ラディッシュの甘酢漬けを小さな弁当箱へ詰めている。休憩室で蓋を開けると、同僚の森下が赤いトマトを見て身を乗り出した。
「立派ですね。ベランダで作ったんですか?」
「ええ。水をやりすぎて、ラディッシュは半分割れてしまいましたけれど」
「割れたって食べられますよ。坂井さんの野菜は、建物と違って査定されませんから」
「では、今度バジルを持ってきます。放っておくと、どんどん増えるんです」
森下は喜び、妻がピザを焼くときに使いたいと話した。佳代子は自分が育てたものを誰かが欲しいと言うことに慣れておらず、卵焼きを少し大きく切りすぎたことに気づいた。昼休みが終わるまで、二人はベランダ菜園と虫除けの話を続けた。
同じころ、隆志の家では工事が止まりかけていた。台所の壁は剝がされたままで、床には青い養生シートが敷かれている。窓を閉め切った室内には、湿った木材と食べ残した弁当の匂いがこもっていた。
隆志は朝から梨沙へ何度も電話をかけていた。追加工事費を支払ったあと、工事会社から予定していた資材を確保できないという連絡が来たからである。梨沙は以前なら三回以内に出たが、今日は十回かけても留守番電話につながった。
昼を過ぎ、ようやく梨沙から折り返しがあった。隆志は胸の前にスマートフォンを持ち、怒鳴らないよう声を抑えた。機嫌を損ねれば、家が一億円で売れる計画まで駄目になると思った。
「工事会社が、資材を入れられないと言っている。どういうことなんだ?」
「私は工事会社ではありませんから、直接そちらへ確認してください」
「君が紹介した会社だろう。追加の四百八十万円も払ったんだぞ」
「契約なさったのは坂井さんです。私が支払ったわけではありません」
梨沙の声には、隆志の前で見せていた甘さがなかった。背後から男性の笑い声が聞こえ、食器の触れ合う音もする。隆志が誰と一緒にいるのか尋ねると、梨沙は仕事の打ち合わせだと答えた。
「今夜、家へ来ないか。相談したいことがある」
「今日は予定があります」
「明日は?」
「しばらく忙しいんです。ご用件はメールで送ってください」
通話が切れたあと、隆志は工事中の台所へ向かった。冷蔵庫には、家事代行の女性が三日前に作った煮物が残っている。蓋を開けると酸っぱい匂いがしたため、そのままごみ箱へ捨てた。
夕食はコンビニの冷やし中華で済ませた。麺は固まり、薄いハムが容器の端へ張りついている。食卓には一人分の容器しかないのに、椅子は八脚並んでいた。
翌日、隆志は梨沙の事務所を訪ねた。電話では留守だと言っていたが、雑居ビルの前には梨沙がいつも使う白い車が止まっている。隆志が階段を上がると、半開きの扉から梨沙と男の声が聞こえた。
「坂井さん、まだ一億円で売れると思っているの?」
梨沙が笑うと、男も声を上げた。男は改装会社の営業担当で、隆志も契約のときに会っている。二人は隆志のことを、数字を読まずに判を押す扱いやすい客と話していた。
「退職金二千万円、相続預金一千二百万円、持ち家あり。セミナーの名簿を見たときは、いい客だと思ったわ」
「離婚までしたんだろう。あんたと再婚できると思っているんじゃないか?」
「食事へ付き合っただけよ。結婚するなんて、一度も言っていないもの」
隆志は扉を押し開けた。梨沙は一瞬目を見開いたが、すぐに笑みを消し、机の上の書類をそろえた。隣の男は気まずそうに立ち上がり、煙草の箱をポケットへ入れた。
「俺をだましたのか」
「何のことでしょう?」
「俺と新しい人生を始めると言ったじゃないか」
「新しい人生を始められますね、と申し上げました。私と結婚するとは言っていません」
隆志は机へ手をついた。透明な灰皿には、口紅のついた煙草と男が吸った太い煙草が並んでいる。梨沙が独身だと思い込んでいたが、家族のことも住んでいる場所も、一度も確かめていなかった。
「一億円で売れると言っただろう」
「一億円で売れる可能性がある、と申し上げました。契約書にも利益を保証する記載はありません」
「工事が止まっている。払った金を返せ」
「工事会社との契約ですから、そちらへ請求してください。私は物件と業者をご紹介しただけです」
梨沙は書棚から契約書の控えを出した。紹介料についても、売却価格を保証しないことも、小さな文字で記載されている。隆志の署名と印鑑は、すべてのページにそろっていた。
「佳代子は、こんな細かい文字まで読んでいたのか」
「元奥様のお話は、私には関係ありません」
「君は俺の味方じゃなかったのか?」
梨沙は椅子へ座り、組んだ足を入れ替えた。以前なら隆志を「経験のある立派な男性」と持ち上げたが、今は目の前の契約が終わった客として見ている。隆志が持っていた預金の額も、すでに大きく減っていた。
「坂井さんは社会経験のある大人でしょう。ご自分で納得して判を押したんですよね?」
それは佳代子の説明を聞かず、隆志が何度も口にした言葉だった。隆志は契約書を握ったが、破ることも持ち帰ることもできなかった。梨沙は次の予定があると言い、扉を開けて退室を促した。
家へ戻ると、夕立が降り始めた。養生シートを張った台所の窓から雨水が入り、剝き出しの柱を濡らしている。隆志はバケツと洗面器を並べたが、雨漏りは一か所ではなかった。
洗濯機の中には、昨夜入れたシャツが残っていた。洗剤と柔軟剤を同じ場所へ入れたため、衣類には甘すぎる匂いが染みついている。隆志は濡れたシャツを床へ落とし、佳代子の番号を表示させた。
そのとき、梨沙から短いメールが届いた。今後の連絡は契約に関するものだけにしてほしいと書かれている。隆志は佳代子へ電話をかけることもできず、画面を伏せて食卓へ置いた。
夕立が去ったころ、佳代子は仕事から帰り、ベランダへ出た。雨粒を残したパセリ、青じそ、バジル、ラディッシュ、分葱が夕日の下で輝き、プチトマトも赤い色を濃くしている。風で倒れかけたバジルへ支柱を立てると、葉から強い香りが広がった。
佳代子は熟したトマトを摘み、半分を田辺へ届けた。残りはバジルと一緒に刻み、茹でたパスタへ混ぜる。大きな家も高価な台所もなかったが、一人分の夕食は十五分で出来上がった。
「今日のトマト、甘いですねえ」
隣から田辺の声が聞こえた。佳代子も一つ口へ入れると、皮が弾け、温かい甘さが舌へ広がった。水をやり、手をかけたものは、小さな鉢の中でもきちんと実をつけていた。




