↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/12

第6話 三十五年分の家事代を請求してもよろしいですか

第6話 三十五年分の家事代を請求してもよろしいですか


離婚から三か月が過ぎた七月の朝、佳代子はベランダで洗濯物を干していた。一人分のブラウスと下着、薄いタオルが二枚だけなので、小さな物干し竿にも半分ほど余裕がある。階下の花壇では朝顔が青い花を開き、潮を含んだ風が湿ったシーツを揺らしていた。


玄関の郵便受けから、厚い封筒が床へ落ちる音がした。差出人には隆志の名前があり、赤い文字で「重要書類在中」と印刷されている。佳代子は洗濯ばさみの入った籠を床へ置き、台所から眼鏡を持ってきた。


封筒の中には、二百四十万円の支払いを求める請求書が入っていた。柱の補強と配管交換に必要な四百八十万円の半分を、元所有者である佳代子が負担すべきだと書かれている。支払期限は二週間後で、応じなければ法的措置を検討するという一文まで添えられていた。


佳代子は請求書を食卓へ置き、冷蔵庫から麦茶を出した。朝食用に焼いたチーズトーストは半分残り、皿の上で冷めている。シナモンの香りを確かめるように一口かじってから、請求書の二枚目をめくった。


そこには、隆志が三十五年間、夫として佳代子の仕事を支えたと書かれていた。家庭を顧みない妻に代わって精神的な負担を引き受けたため、退職金を受け取るのは正当であり、家の修繕についても佳代子が責任を分担するべきだという主張だった。佳代子は二度読み、麦茶のコップを静かに置いた。


「精神的な支え、ですか」


誰もいない台所で声に出すと、冷蔵庫のモーター音だけが返ってきた。佳代子が昇格試験を受けた夜、隆志は夕食が遅いと怒り、用意してあったカレーを鍋ごと流しへ置いた。資格試験の前日にも、町内会の飲み会から帰った隆志のために夜中までお茶漬けを作っていた。


佳代子は請求書を透明なファイルへ入れた。感情のまま隆志へ電話をかけても、言った、言わないの話になるだけだと知っている。洗濯物を干し終えると、離婚協議書と住宅関係の資料を鞄へ入れ、井沢弁護士へ連絡した。


「元夫から請求書が届きました。今日、伺ってもよろしいでしょうか」


午後、佳代子は井沢の事務所を訪れた。薄青色のワンピースに白いカーディガンを羽織り、汗を拭くためのハンカチを首元へ当てている。事務所の窓辺には小さな風鈴が下がり、冷房の風で時々、涼しい音を鳴らした。


井沢は請求書を読み、離婚協議書と照らし合わせた。住宅に関するローン、税金、修繕費は隆志が負担し、双方が今後一切の金銭を請求しないという清算条項がある。さらに佳代子は、家の劣化と修繕の可能性を事前に開示し、隆志も署名していた。


「この請求に応じる必要はありません。ご主人は、専門家へ相談して作ったのでしょうか」


「広瀬さんから、強く言えば私が払うと教えられたのだと思います」


「法的措置と書けば、怖くなって振り込むと考えたのでしょうね」


「昔からそうでした。大きな声を出せば、私が先に片づけていましたから」


佳代子は鞄から、少し角の擦れた離婚協議書を取り出した。井沢は隆志の請求を拒否する回答書を作り、以後の連絡は弁護士を通すよう求めることにした。佳代子は署名欄へ名前を書き、持参した水筒の麦茶を一口飲んだ。


その日の夕方、隆志から菜月にも電話がかかった。菜月は仕事から帰り、息子の体操服についた泥を洗っているところだった。洗面所には石鹸の匂いが漂い、スマートフォンを肩と耳の間へ挟んだまま、靴下をもみ洗いしていた。


「お前から母さんに言ってくれ。家の修理代を半分払うのは当然だろう」


「離婚協議書には、何て書いてあるの?」


「夫婦で三十五年も住んだ家だぞ。紙に何と書いてあろうが、人として責任がある」


「その紙に署名したのは、お父さんでしょう」


隆志は、佳代子が自分の無知につけ込んだのだと話した。家には欠陥があり、退職金も修繕費で消えそうなのだから、元妻が助けるべきだという。菜月は洗った体操服を絞り、洗濯機へ入れた。


「お母さんは、家の状態を説明したよね。私も聞いていたよ」


「あれは佳代子が俺を不安にさせるために並べた数字だ。梨沙さんも、あの説明では分かりにくかったと言っている」


「大きな字の確認書まで作ってあったでしょう」


「とにかく、母親を説得しろ。俺は三十五年間、あいつが仕事を続けられるよう支えてきたんだ」


菜月の手が止まった。洗面器の中で、泥の混じった水がゆっくり回っている。父が朝食を作り、母の帰宅に合わせて風呂を沸かした記憶を探したが、一つも浮かばなかった。


「具体的に何をしたの?」


「夫が家にいること自体が、妻の支えになるんだ。俺が一家の主人として家を守っていたから、佳代子は外で働けた」


「お母さんは、朝御飯と私のお弁当を作ってから出勤していたよ。夕方は保育園へ迎えに来て、帰ってから夕飯も作っていた」


「昔のことを持ち出すな」


「三十五年間支えたと言い出したのは、お父さんでしょう」


隆志は、佳代子が家計簿をつけていたはずだから、実家の棚から探すよう命じた。家計を調べれば、自分が家族を養っていた証拠が出ると思っている。菜月は断ろうとしたが、父の主張を一度、数字で確認することにした。


翌日、菜月は久しぶりに実家を訪れた。台所の壁は剝がされたままで、ビニールシートの向こうから木材と湿気の匂いがする。食卓には食べ終えた牛丼の容器と割り箸が置かれ、飲み残した味噌汁の表面には薄い膜が張っていた。


隆志は袖のよれたポロシャツを着て、居間のソファへ座っている。梨沙から電話が来るかもしれないと言い、スマートフォンを食卓の中央へ置いていた。菜月が押し入れを開けると、下の段から菓子箱に入った古い家計簿が見つかった。


「これだ。見れば、俺がどれだけ家へ金を入れたか分かる」


家計簿には、三十五年分の支出が佳代子の小さな字で記録されていた。米、味噌、隆志の酒代、菜月の給食費、家の修繕費まで、項目ごとに色鉛筆で分けられている。古いページには醤油の染みがあり、菜月が幼稚園のころ貼った花のシールも残っていた。


菜月は給与明細と銀行通帳も並べた。住宅ローン、教育費、光熱費の大半は佳代子の口座から引き落とされている。隆志の給与から家計へ入った金もあるが、ゴルフ、車、酒、交際費として出ていった額が多かった。


「お母さんの残業代、私の塾代に全部使われている」


「母親なんだから当然だろう」


「おばあちゃんの病院代も、お母さんが払っている。お父さんのお母さんなのに」


「嫁が姑の面倒を見るのは、昔なら普通だった」


菜月は別の箱から、佳代子が使っていた予定帳を見つけた。朝五時半起床、弁当、洗濯、保育園、残業、買い物、夕食、義母の通院と、細かな予定が書き込まれている。隆志の名前の横にある予定は、ゴルフ、飲み会、車検ばかりだった。


「お父さんが内助の功を請求するなら、お母さんも三十五年分の炊事、洗濯、掃除、育児、介護、家計管理を請求していいのよね?」


「妻が家事をするのは当然だ。金を請求するようなことじゃない」


「それなら、夫が妻の退職金を受け取るのも当然じゃないでしょう」


隆志は食卓を叩いた。空になった牛丼の容器が跳ね、割り箸が床へ落ちる。菜月は拾わず、請求書を父の前へ戻した。


「お前は、母親の味方をするのか」


「私は、お母さんの味方をしているんじゃない」


菜月は家計簿と予定帳を紙袋へ入れた。これは母が三十五年間働いた記録なので、工事の埃で汚れる家へ置いておけないと思った。食卓では冷めた味噌汁が傾き、蓋の隙間から茶色い汁がにじんでいる。


「お父さんが自分で署名した契約の話をしているの。家も退職金も欲しいと言ったのは、お父さんでしょう。責任だけ半分に戻すことはできないよ」


菜月は紙袋を抱え、玄関へ向かった。隆志は追いかけず、床へ落ちた割り箸を見ている。以前なら佳代子が黙って拾ったが、今はその割り箸一本さえ、隆志が自分で片づけなければならなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。