第5話 八千万円の家は、夕食を作らない
第5話 八千万円の家は、夕食を作らない
六月に入ると、庭の紫陽花が青い花をつけ始めた。隆志は縁側から庭を眺めながら、家事代行の女性が作ったサンドイッチを食べていた。パンは乾き、レタスの端も茶色くなっていたが、冷蔵庫から皿を出すのが面倒で、包装紙のまま食卓へ置いている。
玄関のチャイムが鳴り、梨沙が改装工事の資料を持って入ってきた。白いブラウスに水色のスカートを合わせ、耳には真珠の飾りが揺れている。部屋へ入った途端、食卓の包装紙と流し台に積まれたコップを見て、細い眉を寄せた。
「家事代行の方、今日は来ないんですか?」
「週二回の契約だからな。毎日頼むと、十万円を超えるらしい」
「それくらい必要な経費ですよ。坂井さんには、もっと大きなお金を動かしていただかないと」
梨沙はサンドイッチの包装紙を指先で避け、光沢のある完成予想図を広げた。白い大理石風の台所、足を伸ばせる浴槽、明るいベージュの外壁が描かれている。隆志は今の薄暗い台所と見比べ、梨沙と二人で暮らすなら新しい台所のほうがふさわしいと思った。
「台所、浴室、外壁を合わせて一千万円です。今のままなら五千万円台ですが、全面改装すれば一億円で売れる可能性があります」
「一億円か。佳代子は五千八百万円が限界だと言っていたぞ」
「奥様は建築の人ですから、壊れた場所と工事費しか見ないんです。不動産は夢を売るものですよ」
「元妻だ。もう奥様じゃない」
隆志はそう言って笑い、契約書を手元へ引き寄せた。一千万円という数字は大きかったが、佳代子から受け取った退職金がまだ口座に残っている。一億円で売れれば、改装費を払っても十分な利益が出ると思った。
契約から十日後、工事が始まった。作業員が台所の棚を外すと、壁の裏から油と埃の混じった匂いが広がった。佳代子が毎年拭いていた棚の表面はきれいでも、内部には三十年分の湿気が染み込んでいる。
隆志は工事の音がうるさいと文句を言い、近くの喫茶店へ出かけた。梨沙と昼食を取り、海老のパスタと白ワインを注文する。会計は二人分で六千八百円だったが、梨沙は財布を出さなかった。
「工事が終わったら、庭でパーティーをしましょう。私のお客様も呼べば、買い手が見つかるかもしれません」
「梨沙さんが来てくれるなら、庭もきれいにしないとな」
「植木屋さんをご紹介できますよ」
隆志はその場で、庭木の剪定と芝生の張り替えも頼んだ。年間管理契約は二十四万円だった。佳代子が毎週、古い帽子をかぶって草を抜いていたことを思い出したが、汗だくで庭仕事をするより金を払うほうが合理的だと考えた。
三日後、工事責任者から電話が入った。隆志が帰宅すると、台所の壁は剝がされ、柱の一部が黒く変色している。床には木くずと配管の破片が散り、濡れた土のような匂いが部屋へ広がっていた。
「二階の洗面所から、長い間水が回っていたようです。柱の内部が腐っています」
「修理すればいいだろう。最初の一千万円に入っているんじゃないのか」
「表面を開けるまで確認できない部分です。給水管にも亀裂がありますので、柱の補強と配管の交換が必要になります」
責任者は追加工事の見積書を差し出した。金額は四百八十万円だった。隆志は紙を持つ手に力を入れ、端を折り曲げた。
「ふざけるな。どうしてこんな金額になるんだ」
「工事を続けるなら必要です。腐った柱をそのまま隠すことはできません」
「佳代子だ。あいつは一級建築士だった。知っていて俺に押しつけたんだ」
隆志はすぐに佳代子へ電話をかけた。呼び出し音が四回鳴ったあと、落ち着いた声が聞こえる。背後では、駅の到着を知らせる放送が流れていた。
「台所の柱が腐っていたぞ。お前、知っていたな?」
「第2話し合いの日に、過去の漏水による腐食の可能性を説明しました」
「可能性じゃない。本当に腐っていたんだ。四百八十万円も請求されたぞ」
「修繕見積書の十一ページをご覧ください。柱の補強と配管交換の概算が記載されています」
隆志は居間へ走り、佳代子が残した書類の箱を開けた。菓子の空き箱や広告を床へ落としながら見積書を探す。十一ページには赤い線で「漏水による柱腐食の疑い。解体後、補強工事が必要となる可能性あり」と書かれていた。
「こんな細かい文字、読めるわけがないだろう」
「大きな文字で書いた説明確認書にも記載しました。あなたの署名もあります」
「妻なら、もっと強く止めるべきだったんじゃないのか」
電話の向こうで電車の扉が閉まる音がした。佳代子は急いでいる様子もなく、次の電車を待つようだった。隆志は返事がないことに苛立ち、黒くなった柱を拳で叩いた。
「聞いているのか。お前にも責任があるだろう」
「私は専門家として説明し、妻としても考え直すよう申し上げました。それを数字遊びだと笑ったのは、あなたです」
佳代子は、これから仕事なので電話を切ると告げた。隆志が言い返す前に通話は終わり、画面には前妻という登録名だけが残る。隆志は再びかけようとしたが、工事責任者が追加契約書を持って待っていた。
その日、佳代子は市の住宅相談窓口へ初めて出勤した。薄い灰色のジャケットに白いブラウスを着て、古い革の鞄へ筆記用具と電卓を入れている。窓口の小さな花瓶には、職員が庭から摘んだ紫陽花が二輪挿してあった。
最初の相談者は、七十歳の藤野という女性だった。夫を亡くして三年がたち、郊外の一戸建てで一人暮らしをしている。藤野は茶色い手提げ袋から固定資産税の通知書と修繕見積書を出し、何度も眼鏡をかけ直した。
「屋根とお風呂を直すのに、五百万円かかると言われました。息子は売れと言いますけれど、夫と四十年住んだ家なんです」
「今の収入と、毎月の生活費を教えていただけますか?」
「年金が月十一万円くらいです。庭の手入れも、去年から植木屋さんへ頼んでいます」
佳代子は家賃、修繕費、固定資産税、通院に必要な交通費を紙へ書き出した。藤野の家から病院まではバスを二本乗り継ぐ必要があり、スーパーも坂道の下にある。家を残す気持ちだけでなく、五年後、十年後に続けられる生活かどうかを確かめた。
昼休みになると、佳代子は持参した小さな弁当を開いた。チーズを挟んだパン、半熟の卵、キュウリの浅漬けが入っている。窓を少し開けると、雨に濡れた紫陽花とアスファルトの匂いがした。
午後、藤野はもう一度窓口へ戻ってきた。手には駅に近い高齢者向け住宅の資料を持っている。家を売るとはまだ決められないが、見学だけしてみたいと言った。
「女一人でも、本当に暮らしていけるでしょうか」
佳代子は、家賃と生活費を書いた紙を藤野の前へ戻した。夫の食事を作る必要がなくても、毎朝自分のためにパンを焼き、洗濯をし、病院へ行く暮らしは続いていく。それを誰かに決めてもらう必要はなかった。
「一人だから暮らせないのではありません。誰かに世話をしてもらわないと生活できない人が、一人では暮らせないのです」
藤野は紙の数字を見つめ、ゆっくりとうなずいた。帰り際、窓口の紫陽花を見て、自宅の庭にも同じ青い花が咲いていると話した。佳代子は、花まで置いていく必要はなく、挿し木を一本持っていけばよいと伝えた。
そのころ、隆志は梨沙と追加工事の相談をしていた。食卓には冷めた宅配ピザが残り、チーズの脂が箱の底へ染みている。梨沙は見積書を一度だけ見て、工事を止めるほうが損だと告げた。
「壁を剝がしたままでは、家の価値が下がります。ここまで来たら、完成させるしかありません」
「退職金は、もう半分近く使っているんだぞ」
「一億円で売れれば、全部戻ってきます。今は未来への投資です」
隆志は相続預金の通帳を取り出した。残高を指でなぞり、四百八十万円を引いた数字を頭の中で計算する。佳代子なら簡単に計算しただろうと思った途端、腹が立ち、追加契約書へ強く印鑑を押した。
その月の終わり、住宅ローン、固定資産税、火災保険、光熱費、家事代行、外食費、植木屋の料金が続けて引き落とされた。二千万円あった退職金は、工事の契約金と繰り上げ返済を含め、ほとんど残っていない。隆志は通帳を閉じ、食卓の上へ裏返して置いた。
台所は解体されたままで、夕食を作ることができなかった。もっとも、完成していたとしても、隆志は包丁を握ろうとはしなかった。八千万円の家は、黙ってそこに建っているだけで、温かい味噌汁も肉じゃがも一度として作ってはくれなかった。




