第4話 六畳一間で食べたシナモントースト
第4話 六畳一間で食べたシナモントースト
佳代子が新しく借りたのは、海まで歩いて十分ほどの場所にある古い公営住宅だった。五階建ての三階で、六畳の和室と四畳半の台所があり、家賃は月三万二千円だった。外壁には細いひびが入り、共用階段の手すりには潮風で浮いた赤錆が残っている。
引っ越した日の夕方、佳代子は管理人の田辺から鍵を受け取った。田辺は七十代の小柄な女性で、藤色の割烹着のポケットに鍵束と飴を入れていた。部屋まで案内すると、窓を開けながら向かいの公園を指した。
「火曜日と金曜日が燃えるごみです。瓶と缶は第二水曜日。下の花壇は、勝手に花を植えても怒られませんよ」
「ありがとうございます。前の家から、アヤメを一株だけ持ってくればよかったですね」
「花は逃げません。ここにも紫陽花がありますから、六月になったら見てください」
玄関には一人分の靴しかなく、靴箱の上には何も置かれていなかった。佳代子は新聞紙に包んで持ってきたスイートピーを、空になったジャムの瓶へ挿した。花は三本だけになっていたが、白い壁の前へ置くと、桃色がよく目立った。
荷物は段ボール三箱で収まった。衣類を押し入れへ入れ、本を窓辺へ並べ、製図道具を小さな机の引き出しへ収める。菜月が小学生のころに作った欠けた湯飲みは、流し台の横へ置いた。
浴室のタイルは水色で、目地の何か所かが黒ずんでいた。佳代子は古い歯ブラシへ洗剤をつけ、しゃがんで一つずつこすった。浴槽は足を伸ばせないほど狭かったが、壁も床も手を伸ばせば届く。
「お母さん、引っ越した日くらい掃除をやめたら?」
手伝いに来た菜月が、コンビニで買ったおにぎりを台所へ並べた。鮭、昆布、梅の三種類と、紙パックのほうじ茶が二本ある。佳代子は濡れた手をタオルで拭き、浴室を振り返った。
「もう終わったわ。一時間もかからなかったもの」
「前の家なんて、一階だけで一時間かかっていたでしょう」
「お風呂掃除をしているうちに、二階の洗濯物を忘れることもないわね」
二人は段ボール箱を裏返し、即席の食卓にした。佳代子は梅のおにぎりを選び、菜月は昆布の袋を開けた。窓から入る潮の匂いに、海苔とほうじ茶の香りが混じった。
「本当に、ここでよかったの?」
「駅もスーパーも近いし、病院へ行くバスもあります。住宅の相談員として見ても、悪くない物件よ」
「そういうことじゃなくて」
「分かっているわ。でも、今はこれくらいの広さがちょうどいいの」
菜月はそれ以上聞かなかった。食べ終えた袋をまとめ、押し入れへ布団を入れる。帰り際には、今度は孫を連れてくると言い、玄関で何度も振り返った。
一人になった部屋で、佳代子は湯を沸かした。鍋もやかんも小さく、二口のガス台は片方しか使わない。湯が沸く音を聞きながら、残っていた鮭のおにぎりを皿へ移した。
時計は午後七時を少し過ぎていた。これまでは隆志の夕食を出し、食べ終わる時刻を見計らって風呂を沸かしていたころである。佳代子は急いで立つ必要がないことに気づき、欠けた湯飲みへほうじ茶を注いだ。
翌朝、佳代子は午前五時半に目を覚ました。目覚まし時計は段ボール箱の中へ入れたままだったが、三十五年間続いた体の癖は簡単には変わらない。布団の中で十分ほど待ってみたものの、窓の外で鳴くカモメの声が気になり、起きることにした。
薄い黄色のカーディガンを羽織り、台所の小窓を開ける。五月の風は少し冷たく、階下の花壇では赤いツツジが咲いていた。誰かが水をまいたばかりらしく、湿った土の匂いが上がってきた。
冷蔵庫には、昨夜菜月と買った卵、チーズ、食パン、牛乳が入っている。佳代子は六枚切りの食パンへチーズをのせ、オーブントースターへ入れた。フライパンには卵を一つ落とし、隆志が嫌っていた半熟のまま火を止める。
紅茶の缶を開けたあと、佳代子は買ったばかりの小瓶を取り出した。蓋を回すと、シナモンの甘く温かい匂いが鼻先へ届く。隆志が「薬臭い」と嫌がったため、結婚してから三十年以上、家には置かなかった香辛料だった。
佳代子は紅茶へシナモンを一振り落とした。少なすぎたと思い、もう一度だけ瓶を傾ける。焼き上がったチーズトーストから香ばしい匂いが広がり、小さな台所が朝食だけで満たされた。
誰かのシャツへアイロンをかける必要も、味噌汁がぬるいと言われる心配もない。目玉焼きの黄身が固まる前に、佳代子は椅子へ座った。トーストをかじると、端はさくりと鳴り、熱いチーズが上顎へ張りついた。
「熱い」
佳代子は一人で言い、水を一口飲んだ。これまでは隆志の新聞を取ったり、空になった茶碗へご飯を足したりしているうちに、自分の食事は冷めていた。今日は紅茶からもトーストからも、まだ湯気が上がっている。
朝食後、佳代子は机へ家計簿を広げた。厚生年金と企業年金から、家賃、光熱費、食費、医療費を引いていく。車を手放し、不要な生命保険と会員契約を整理すれば、月十万円ほどで十分に暮らせる計算になった。
家計簿の余白には、菜月が孫と遊びに来る日の菓子代も書いた。図書館までのバス代や、月に一度外で昼食を食べる費用も削らなかった。数字を合わせることは、我慢するものを探す作業ではなく、残したい暮らしを選ぶ作業だった。
その日の午後、元同僚の森下から電話がかかってきた。佳代子より十歳若く、会社では何度も一緒に改修工事を担当した男性である。電話の向こうでは、書類を落としたらしく、紙を拾う音が続いていた。
「坂井さん、もう暇を持て余していませんか?」
「昨日引っ越したばかりです。まだ暇になる余裕もありません」
「市の住宅相談窓口で、週二日働ける人を探しているんです。雨漏りや耐震改修について、高齢者にも分かるよう説明できる人が必要でして」
「私でよければ、お話を伺います」
佳代子は勤務日と時間を手帳へ書いた。火曜と木曜の午前十時から午後四時までなら、朝も急ぐ必要はない。電話を切ると、窓辺のスイートピーへ水を足した。
同じころ、隆志は洗濯機の前に立っていた。床には白いシャツ、靴下、下着が積まれ、洗濯槽からは二日前に入れたままの衣類が酸っぱい匂いを放っている。洗剤をどこへ入れるのか分からず、柔軟剤の容器を持ったまま説明書を探した。
説明書は見つからなかった。隆志は佳代子へ電話をかけ、番号を表示させる。しかし離婚した妻へ洗濯機の使い方を聞く姿を想像すると腹が立ち、呼び出し音が鳴る前に切った。
梨沙へ相談すると、家事代行を利用すればよいと言われた。週二回の掃除と洗濯で月六万円、食事の作り置きを加えれば九万円になる。隆志は高いと顔をしかめたが、梨沙は赤い爪で申込書を隆志の前へ押した。
「自由な男性には必要な経費ですよ。家事に時間を取られるなんて、もったいないでしょう?」
「まあ、俺の時間にはそれだけの価値があるからな」
「朝食は近くの喫茶店で、昼と夜は外食にすればいいんです。奥様の料理より、ずっとおいしいものを食べられますよ」
隆志は家事代行を契約した。朝は喫茶店の七百円のモーニング、昼は千円前後の定食、夜は梨沙と居酒屋やレストランへ行く。家事代行が来ない日はクリーニング店へシャツを出した。
一か月後、隆志は通帳を開き、眉を寄せた。家事代行、外食、クリーニングだけで十一万八千円が消えている。住宅ローンや固定資産税とは別の金額だった。
「たかが飯と洗濯に、どうしてこんなにかかるんだ」
返事をする者はいなかった。大きな食卓には、昨夜持ち帰った寿司の空き容器が置かれ、醤油の小袋から黒い染みが広がっている。窓の外では庭のツツジが散り始めていたが、花びらを掃く人も、隆志の朝食を作る人も、もうこの家にはいなかった。




