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第3話 家と退職金を渡し、妻の仕事を辞めた

第3話 家と退職金を渡し、妻の仕事を辞めた


話し合いから三日後、佳代子は弁護士事務所を訪れた。春の風に桜の花びらが混じり、灰色のパンツスーツの肩へ一枚だけ張りついている。受付で上着を脱いだ佳代子は、花びらを指でつまみ、手帳の間へ挟んだ。


弁護士の井沢は、佳代子が持参した資料を一枚ずつ確認した。机の端には飲みかけのコーヒーが置かれ、書類をめくるたびに、苦い香りと紙の匂いが混じった。佳代子は膝の上で鞄の持ち手を握り、隆志が署名した説明確認書を見つめた。


「ご主人は、自宅と退職金を受け取る代わりに、今後の財産分与や生活費を請求しない。この清算条項でよろしいですか?」


「はい。離婚したあとまで、あの人の生活を支えるつもりはありません」


「住宅ローンについては、特に注意が必要です。夫婦で合意しても、銀行に対する坂井さんの返済義務は消えません」


井沢は、佳代子の名前が印刷された返済予定表を指で押さえた。家を隆志の名義に変えても、銀行が承諾しなければ債務者は佳代子のまま残る。隆志が返済を怠れば、佳代子へ請求が来ると説明した。


「銀行が正式に承諾し、私がローンから外れるまで、離婚届には署名しません」


「それが安全です。ご主人から急かされても、順番を変えてはいけません」


「三十五年待ちました。あと一か月くらい、どうということはありません」


翌週、銀行の応接室に佳代子、隆志、井沢がそろった。隆志は濃紺のジャケットに赤いネクタイを締め、革靴を新しくしていた。梨沙から、資産を持つ人物らしく見せたほうが審査に有利だと教えられたらしい。


テーブルには、紙コップの緑茶が四つ並んでいた。隆志は一口飲んでから、ぬるいと小声で言った。佳代子は自分の紙コップへ蓋を戻し、窓の外に咲く白いハナミズキへ目を向けた。


銀行員は、住宅ローンの残額が三千八百万円あることを確認した。隆志の年齢と年金収入だけでは、その全額を新たに借りることは難しい。しかし隆志には、両親から相続した土地を売った預金が一千二百万円残っていた。


佳代子の退職金からも一千万円を繰り上げ返済へ回す。残った千八百万円について、隆志の年金、預金、返済期間をもとに審査を行うことになった。隆志は金額を聞いても、家を売ればすぐに取り戻せると考えていた。


「改装すれば一億円になる家です。千八百万円くらい、何の問題もありません」


「現時点の査定額は、五千二百万円から五千八百万円です。将来の売却価格を前提に、返済を考えることはできません」


「あなたは梨沙さんの計画を知らないから、そんなことを言うんだ」


銀行員は表情を変えず、借り換え後の返済額を示した。固定資産税、火災保険、修繕費は返済額に含まれない。滞納した場合には分割で返済する権利を失い、残額の一括返済を求める可能性があることも説明した。


「この欄は特に重要です。ご理解いただけましたか?」


「はいはい、分かっています。一億円で売却すれば、すぐ完済しますよ」


「一億円で売却できる保証はありません。書面を最後までお読みください」


隆志は老眼鏡を出したが、数行読んだだけで外した。梨沙が待つ喫茶店へ早く行きたいらしく、腕時計を何度も見ている。佳代子は口を挟まず、銀行員の説明を最後まで聞いた。


審査結果が出るまで三週間かかった。その間も、佳代子は隆志の朝食を作らず、洗濯物にも触れなかった。隆志は二日続けて同じシャツを着たあと、新しいシャツを五枚買ってきた。


台所には、コンビニ弁当の空き容器が積まれていた。燃えるごみの日を知らない隆志は、袋へ入れたまま勝手口へ置いている。暖かくなった夕方には、油と古いソースの匂いが廊下まで漂った。


「ごみ、臭っているぞ」


「そうですね。明日が燃えるごみの日です」


「知っているなら出してくれればいいだろう」


「あなたのごみです。袋の口を縛って、朝八時までに出してください」


隆志は何か言いかけたが、佳代子は自分のためにいれた紅茶を持って居間を出た。カップには、これまで隆志が匂いを嫌っていたシナモンを少しだけ振ってある。甘い香りが階段を上がり、佳代子の部屋までついてきた。


四月の終わり、銀行から借り換え承認の連絡が届いた。千八百万円の新しいローンは隆志が単独で負い、佳代子は債務から外れる。所有権も隆志へ移すため、司法書士を交えて手続きをすることになった。


契約の日、隆志は梨沙を連れて銀行へ来た。梨沙は若草色のワンピースを着て、白い革の鞄を膝へ置いている。隆志が契約書へ署名するたび、梨沙は「これで自由になりますね」と耳元で励ました。


佳代子は退職金から一千万円を繰り上げ返済へ回し、残る一千万円を隆志の口座へ振り込んだ。送金票へ印鑑を押すと、長年働いて得た数字が通帳から消えた。それでも佳代子の指は震えなかった。


「これで、家も退職金も俺のものだな」


「はい。その代わり、ローンも税金も修繕費も、今日からあなたのものです」


「細かいことばかり言う。家を一億円で売れば、お前が後悔するだけだ」


佳代子は銀行員から、債務を引き継ぐ手続きが完了した書面を受け取った。自分の名前が返済義務から外れていることを、井沢と一緒に確かめる。それから初めて、離婚届の署名欄へ名前を書いた。


市役所を出ると、日差しが強くなっていた。歩道脇のツツジは赤と白の花を咲かせ、近くの弁当屋から揚げ物の匂いが流れてくる。佳代子は井沢へ頭を下げ、スーパーで段ボール箱を三つもらって家へ戻った。


荷造りには二時間もかからなかった。衣類、本、一級建築士として使ってきた製図道具、小さな炊飯器を箱へ詰める。棚の奥から、菜月が小学生のころに作った欠けた湯飲みも出てきたので、新聞紙へ包んで炊飯器の隣に入れた。


台所の大きな鍋も、八人分の食器も持っていかなかった。隆志の好みに合わせて買った濃い茶色のカーテンも、そのまま残す。庭の隅では、紫色のアヤメが二輪咲いていた。


佳代子は最後に、洗濯済みの白いワイシャツへアイロンをかけた。それは離婚を決める前に洗ったもので、籠の底に残っていた。襟を整え、椅子の背へ掛けると、隆志が部屋をのぞき込んだ。


「たった三箱か。三十五年も住んだわりには、何も持っていないんだな」


「家の物は、ほとんど家族のために買った物ですから」


「六十五歳で家も退職金も失って、どうやって暮らすつもりだ?」


隆志は空になった押し入れを見て笑った。妻なら最後には不安になり、離婚を取り消してほしいと頼むと思っていたらしい。佳代子はアイロンのコードを束ね、隆志へ差し出した。


「これが最後の洗濯物です」


「何だ、まだそんなことを言っているのか」


「明日からは、ご自分の人生をご自分で洗ってください」


玄関には、菜月が手配した引っ越し業者が来ていた。佳代子は黒いズボンに薄青色のブラウスを着て、退職の日にもらった花束から、まだ元気なスイートピーを三本だけ新聞紙へ包んだ。革靴を履き、踵を床へ二度打ちつける。


「本当に戻ってこないつもりか?」


「あなたが望んだ離婚です。家もお金も、すべてお渡ししました」


「女一人で老後を過ごせると思うなよ」


佳代子は、隆志が一度も持とうとしなかった段ボール箱を抱えた。玄関の外では、引っ越し業者の若者が残りの二箱を運んでいる。佳代子は三十五年間磨いてきた廊下を振り返り、照明のスイッチを隆志の目の前で指した。


「消し忘れないでくださいね。電気代も、今日からあなたがお支払いになるのですから」


佳代子が外へ出ると、午後の風が新聞紙を揺らした。スイートピーの青い匂いに、近所で焼いている魚の匂いが混じる。佳代子は段ボール箱を抱え直し、振り返らずに引っ越し業者の車へ向かった。


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