第2話 妻の仕事を「数字遊び」と笑った夫
第2話 妻の仕事を「数字遊び」と笑った夫
翌朝、佳代子は目覚まし時計が鳴る前に目を開けた。台所からコーヒーミルの音は聞こえず、庭では雨に打たれた沈丁花が茶色い花を落としている。隆志が自分で朝食を用意する様子もないため、佳代子は冷蔵庫から卵を二つ取り出した。
昨夜の肉じゃがを温め、卵焼きを作り、二人分の味噌汁をよそう。離婚すると決めても、三十五年間続けてきた手順は一晩では止まらなかった。隆志は寝癖のついた髪で台所へ入り、食卓に置かれた住宅ローンの書類を邪魔そうに端へ寄せた。
「今日は菜月が十時に来ます。広瀬さんにも来ていただいてください」
「家族の話に菜月を巻き込むのか」
「昨日は、家族ではない広瀬さんを同席させましたよね」
隆志は味噌汁をすすり、卵焼きへ醤油をかけた。佳代子がいつも用意していた新聞は玄関の郵便受けに入ったままで、隆志は取りに行こうとしない。自分が新聞を食卓へ運んでいたことさえ、佳代子は家事として数えたことがなかった。
「難しい話じゃない。家と退職金を俺がもらって、お前が出ていく。それで終わりだ」
「八千万円の家ではありません。借金と修繕の必要な、築三十年の家です」
「朝から金の話をするな。飯がまずくなる」
佳代子は返事をせず、自分の卵焼きを食べた。甘い味つけは隆志が嫌うため、砂糖は入れていない。明日からは砂糖を入れてみようと思い、空になった湯飲みを流しへ運んだ。
十時前になると、佳代子は紺色のカーディガンと生成り色のスカートに着替えた。送別会でもらったスイートピーは大きなガラス瓶へ移し、食卓の端に置いてある。花瓶は引っ越しのときに処分したと言われていたが、流し台の下から梅酒用の瓶が見つかった。
菜月は約束の五分前に到着した。薄桃色のコートの肩には小さな雨粒が残り、手には桜餅の入った紙袋を提げている。玄関で濡れた傘を閉じると、庭の洗濯物を見て眉を寄せた。
「昨日から干しっぱなしなの?」
「お父さんの分だけよ。昨日までは私が取り込んでいたけれど、今日からは自分でしていただくことにしたの」
「ずぶ濡れじゃない。洗い直さないと臭くなるよ」
居間で聞いていた隆志が咳払いをした。菜月は父の顔を見たが、洗濯物を取り込もうとはしない。佳代子が桜餅を小皿へ並べると、塩漬けの葉の匂いが食卓へ広がった。
やがて梨沙が黒いタクシーで到着した。白いパンツスーツに細い金色のネックレスを合わせ、昨日とは違う柑橘系の香水をつけている。革の鞄を椅子の横へ置き、隆志の隣に当然のように座った。
「お忙しいところ、お呼び立てして申し訳ありません」
「坂井さんの新しい人生に関わることですから。私でよければ、最後までお手伝いいたします」
梨沙はそう言って隆志へほほ笑んだ。隆志は姿勢を正し、佳代子が出したほうじ茶には手をつけず、梨沙の前へ桜餅の皿を寄せた。菜月はその様子を見ても何も言わず、手帳とボールペンを出した。
佳代子は食卓の上へ書類を並べた。住宅ローンの残高証明書、固定資産税の通知書、火災保険の契約書、不動産会社三社の査定書、屋根と外壁の修繕見積書である。書類の角は種類ごとに色の違う付箋でそろえ、重要な数字には赤い線を引いた。
「まず、住宅ローンの残高は三千八百万円です。毎月の返済だけでなく、固定資産税と火災保険料も必要です」
「家を売れば返せる」
「それでは、次に査定額を見てください。一番高い会社で五千八百万円、一番低い会社で五千二百万円です」
隆志は三枚の査定書を重ね、表紙だけをめくった。八千万円という数字がどこにもないため、口元を曲げる。梨沙は書類へ顔を近づけたが、すぐに赤い爪で髪を耳へかけた。
「近くの新築は八千万円を超えていましたよ。角地ですし、改装すれば一億円も狙えるのではありませんか?」
「新築と築三十年の中古住宅を、同じ価格では比べられません。土地の形、接道、建物の状態でも変わります」
「可能性のお話をしているんです。せっかくの資産を低く評価する必要はないでしょう?」
佳代子は、梨沙が「売れる」とは言わず、「狙える」「可能性」と繰り返していることに気づいた。会社で見積書を確認するときも、責任を負わない人ほど曖昧な言葉を使った。佳代子は梨沙と言い争わず、次の書類を隆志の前へ置いた。
「屋根と外壁、給排水管の修繕見積額は六百二十万円です。これは現在確認できている範囲だけです」
「そんなにかかるはずがない」
「二階の洗面所で、十年前に水漏れがありました。床下と柱に腐食があれば追加工事が必要になります」
「十年前の水漏れなんて、とっくに乾いているだろう」
菜月が桜餅を包んでいた葉を皿へ戻した。幼いころ、二階の天井から落ちた水を洗面器で受けたことを覚えていた。あの夜も隆志は翌朝にゴルフの予定があると言って寝室へ戻り、佳代子と中学生だった菜月が雑巾を絞った。
「お母さん、その水漏れのとき、業者さんから配管を全部替えたほうがいいって言われていたよね」
「ええ。でも、お父さんが車を買い替えたばかりだったから、漏れた部分だけ直しました」
「昔のことを持ち出すな。今は家の価値について話しているんだ」
隆志は修繕見積書を数ページめくり、音を立てて閉じた。赤い線を引いた金額にも、現場写真にも目を向けない。佳代子が三十五年間積み重ねた知識より、梨沙が見せた新築住宅の広告を信じるつもりだった。
「私は一級建築士です。改修工事の積算も二十年以上担当しました。この家に今後いくら必要になるか、根拠のない数字を申し上げているのではありません」
「女が会社で数字を並べていただけだろう。梨沙さんは不動産の専門家だぞ」
部屋の中が静かになり、壁掛け時計の秒針だけが聞こえた。庭では濡れたワイシャツが風にあおられ、物干し竿の端へ絡みついている。菜月は父を見たあと、梨沙の名刺を手に取った。
「広瀬さんは宅地建物取引士ですか?」
「私はコンサルタントです。資格だけで仕事の価値は決まりません」
「では、どの会社が一億円で買うのですか。書面の査定はありますか?」
梨沙は、まだ改装前なので正式な査定はできないと答えた。菜月は手帳に「一億円の査定なし」と書く。隆志は娘の手元をのぞき込み、苛立ったように食卓を叩いた。
「可能性と査定額は違うよ。お母さんは三社の数字を出しているけれど、広瀬さんは広告しか出していない」
「お前まで母親の味方をするのか」
「どちらの味方でもないよ。あとで聞いていないと言わないように、今日の話を記録しているだけ」
佳代子は最後の書類を隆志へ差し出した。住宅ローンの残債、査定額、建物の劣化、修繕の必要性について説明を受けたと確認する書面だった。難しい言葉の横には、誰が読んでも分かるよう短い説明を添えてある。
「これを読んで、理解したうえで署名してください。迷うなら、別の建築士や不動産会社へ相談して構いません」
「また数字か。お前は家庭の話まで仕事にするんだな」
「家と二千万円を受け取る話です。仕事より慎重に考えるべきでしょう」
隆志は一枚目の途中まで読み、梨沙の顔を見た。梨沙が小さくうなずくと、隆志は二枚目をめくらずに署名欄へ名前を書いた。印鑑を押す手に迷いはなく、朱肉が多すぎて丸い印の縁がにじんだ。
「飯と洗濯くらい、男一人でもどうにでもなる。この家さえあれば、悠々自適だ」
庭から風が入り、スイートピーの花びらが一枚、署名済みの書面へ落ちた。佳代子は花びらをつまんで瓶の横へ置いた。朝食を作る人も、雨に濡れたシャツを洗い直す人も、隆志には簡単に交換できる存在だったのだろう。
「お母さん、本当にいいの?」
菜月が小さな声で尋ねた。佳代子は、朱肉の蓋を閉める隆志の手を見た。引き止めれば、これから先も「食事くらい」「洗濯くらい」と言われながら、夫の生活を整え続けることになる。
「ええ。お父さんが、ご自分で決めたことです」
佳代子は署名済みの書面を封筒へ入れた。食卓には冷めたほうじ茶と、誰も手をつけなかった桜餅が一つ残っている。佳代子はそれを自分の小皿へ取り、夫ではなく娘のほうを向いた。
「分かりました。では、銀行と弁護士に連絡して、正式な契約の手続きへ進みましょう」




