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第1話 定年退職の日、食卓に離婚届があった

第1話 定年退職の日、食卓に離婚届があった


定年退職を迎えた朝も、佳代子は午前五時半に目を覚ました。九月に入ったばかりで、庭の木槿には白い花が三つ咲いている。薄い水色のパジャマから紺色のブラウスと灰色のスカートへ着替え、髪を後ろで一つにまとめると、台所に立って味噌汁の鍋へ火をつけた。豆腐を切る包丁の音がしても、隆志は起きてこなかった。


佳代子は鮭を焼きながら洗濯機を回し、夕食用の肉じゃがを煮た。隆志は煮崩れたジャガイモを嫌うため、面取りをしてから鍋へ入れる。湯気に混じって醤油と砂糖の匂いが広がるころ、ようやく隆志が寝室から出てきた。二年前に定年してから、朝は新聞を読み、食べ終えた食器を流しへ置くのが彼の日課だった。


「今日は遅くなるのか」


「送別会があります。でも、夕方六時半には帰ります。肉じゃがは温めるだけで食べられますから」


「昼飯は?」


「冷蔵庫に焼きそばがあります。青い保存容器です」


隆志は返事をせず、鮭の皮を皿の端へよけた。佳代子はその皮を自分の弁当箱へ入れ、空いた皿を重ねる。最後の出勤日くらい家事を休んでもよかったが、休めば夕方まで食器と洗濯物が残るだけだった。隆志の白いワイシャツへアイロンをかけ、襟元の小さな染みを落としてから、いつもの黒い鞄を持った。


玄関の靴箱には、佳代子が先週買った秋桜の小さな鉢が置いてあった。桃色の花が一輪だけ開き、細い茎が朝の風で揺れている。佳代子は土の表面が乾いているのを見て、じょうろで水をやった。今日で三十五年間の会社勤めが終わるのだと思っても、朝の景色は昨日とほとんど変わらなかった。


「行ってきます」


「うん」


隆志は新聞から顔を上げなかった。佳代子は履き慣れた黒いパンプスを履き、玄関の扉を閉めた。


会社では、午後三時から小さな送別会が開かれた。会議室の長机には紙コップの紅茶と、駅前の洋菓子店で買ったモンブランが並んでいる。壁には佳代子が担当した病院や学校の改修工事の写真が貼られ、二十年前の写真には、白いヘルメットをかぶった若い佳代子も写っていた。


「坂井さん、この見積もりを覚えていますか。僕が配管の数量を一桁間違えた工事です」


後輩の吉岡が、古い現場写真を指さした。佳代子は紙皿に落ちた栗の欠片をフォークですくいながら、夜中まで二人で図面を確認した日のことを思い出した。


「覚えていますよ。あなた、翌朝になって会社を辞めると言い出したでしょう」


「坂井さんが始末書の書き方まで教えてくれたから、まだここにいます」


社員たちが笑い、吉岡も赤くなって頭をかいた。佳代子は白と黄色のリンドウを束ねた花束と、厚いアルバムを渡された。表紙には『三十五年間、お疲れさまでした』と、少し曲がった金色の文字が貼られている。


「これからは、坂井さんご自身のために時間を使ってください」


その言葉を聞くと、佳代子は花束を持つ指へ少し力を入れた。退職したら隆志と温泉へ行き、傷んだ台所を直し、庭に秋の花を植えるつもりだった。退職金二千万円は旅行だけでなく、住宅ローンと老後の生活費にも充てる計画である。


「ありがとうございます。明日の朝、寝坊できるか試してみます」


佳代子がそう答えると、また笑い声が上がった。三十五年間使った机を布巾で拭き、引き出しに残っていた飴を後輩へ渡してから、佳代子は会社を出た。


帰宅したのは午後六時二十分だった。玄関には隆志の茶色い革靴のほかに、踵の高いベージュのパンプスが並んでいる。知らない甘い香水の匂いが廊下まで流れ、朝に干した洗濯物は庭で冷たくなっていた。


佳代子が居間へ入ると、肉じゃがの鍋は朝と同じ場所に置かれていた。蓋の内側で冷えた水滴が肉へ落ち、表面には白い脂が固まっている。食卓では隆志が紺色のジャケットを着て、その向かいに四十代ほどの女が座っていた。女の胸元には細い金のネックレスが光り、佳代子の席には一枚の離婚届と三枚の書類が置かれている。


「お帰りなさい、佳代子さん」


先に口を開いたのは女だった。佳代子は花束を食器棚の横へ置き、アルバムを椅子の上に載せた。


「どちらさまでしょう」


「広瀬梨沙と申します。隆志さんが参加している資産運用セミナーで、講師を務めております」


「どうして、その講師の方が私の家にいるのですか」


隆志は咳払いをし、財産分与要求書を佳代子の前へ押し出した。紙には自宅、退職金二千万円、預貯金という項目が並び、赤い線が引かれている。隆志は梨沙の顔を一度見てから、ソファへ深く座り直した。


「離婚してほしい。退職金とこの家は、慰謝料として俺がもらう」


佳代子は椅子へ座らず、書類を一枚ずつ読んだ。結婚して三十五年、隆志が自分で離婚について調べたとは考えにくい。洗濯機の説明書すら探さず、佳代子を呼ぶ人だった。


「慰謝料とは、何に対するものでしょうか」


「仕事ばかりで夫を顧みなかった妻への慰謝料だ。三十五年間、俺が支えてやったんだから当然だろう」


隆志の声は大きかったが、佳代子ではなく梨沙へ聞かせているようだった。今朝食べた鮭の皿も、昼の焼きそばを入れた青い容器も、洗わずに流しへ積まれている。佳代子は冷めた肉じゃがを小皿へ取り、味の染みたニンジンを一つ口へ入れた。冷たい脂が舌へ残り、ジャガイモにはきちんと形が残っていた。


「広瀬さんも、この内容をご存じなのですね」


「ええ。こちらの土地と建物には、八千万円ほどの価値があります。奥様には年金も資格もあるのですから、十分に再出発できるでしょう」


梨沙は柔らかく笑った。佳代子は建設会社で改修工事の積算を担当し、一級建築士の資格を持っている。この家の土地価格、築三十年の建物の状態、古い給排水管の交換費用を、誰よりもよく分かっていた。


住宅ローンは三千八百万円残っている。二年前には床下で漏水が見つかり、応急処置だけで済ませていた。来年には屋根と外壁も修繕しなければならず、合わせれば六百万円以上かかる。八千万円というのは近所の新築住宅の販売価格であり、この家がその金額で売れるという意味ではない。


佳代子は梨沙の説明を遮らず、離婚届を自分の前へ引き寄せた。隆志の顔に、勝ったつもりの笑みが浮かぶ。朝にアイロンをかけた紺色のシャツを着て、妻が煮た肉じゃがの前で、妻の退職金を受け取る話をしていた。


「家も退職金も、本当に全部欲しいのですね?」


「何度も言わせるな。君には年金と資格がある。俺にはこの家が必要だ」


「家に残っている住宅ローンについては、どうなさいますか」


「家をもらうんだから、俺が払う。八千万円で売れば



第1話 定年退職の日、食卓に離婚届があった


定年退職の日も、佳代子は午前五時半に目を覚ました。三月の朝はまだ薄暗く、庭の沈丁花が冷たい空気の中で甘く香っている。紺色のパジャマの上へ灰色のカーディガンを羽織り、台所の小窓を少し開けると、新聞配達のバイクが乾いた音を立てて通り過ぎた。


炊飯器を開けると、昨夜のご飯が茶碗一杯分だけ残っていた。佳代子はそれを隆志の茶碗へよそい、豆腐とわかめの味噌汁を温め、塩鮭を焼いた。自分は食パンの端へマーガリンを薄く塗り、流し台の前に立ったままかじった。


「コーヒーは?」


起きてきた隆志は、食卓へ座るなり新聞を広げた。二年前に定年退職してからも、朝食が並ぶ時刻だけは正確だった。佳代子は洗濯機へ隆志の下着を入れながら、台所を指した。


「今、落としているところです。先にお味噌汁を召し上がって」


「鮭、少し焼きすぎじゃないか」


「皮を残せば大丈夫です」


隆志は返事をせず、鮭の身だけを箸で崩した。今日が妻の最後の出勤日だと覚えている様子はなく、新聞の折り込み広告に載った温泉旅行の写真を眺めている。佳代子は何か言おうとしたが、洗濯終了を知らせる電子音が鳴り、濡れたシャツを取り出した。


夕食用の肉じゃがも朝のうちに作った。ジャガイモの角が少し崩れるまで煮て火を止め、鍋の蓋へ「温めて食べてください」と書いた付箋を貼る。隆志が明日の町内会へ着ていくという白いワイシャツにもアイロンをかけ、襟の黄ばみへ洗剤をつけた。


「今夜は、会社で何かあるのか」


「小さな送別会を開いてくださるそうです。帰りは六時半ごろになります」


「夕飯が遅くなると困るんだが」


「肉じゃががあります。お刺身も冷蔵庫へ入れておきました」


隆志は「ああ」とだけ答えた。佳代子は薄紫色のブラウスに紺色のスーツを着て、使い込んだ革の鞄を持った。玄関の鏡で髪を整えると、庭の沈丁花が一枝だけガラス越しに見えた。


「では、行ってきます」


「帰りに牛乳を買ってきてくれ」


三十五年間で何千回も交わした朝の会話だった。佳代子は靴を履き、少し緩くなった踵を床へ二度打ちつけた。最後の出勤くらい「ご苦労さま」と言ってほしかったが、隆志は居間へ戻り、テレビの音量を上げていた。


会社では、午後四時から会議室で送別会が開かれた。紙コップの紅茶と小さな苺のケーキが並び、窓辺には後輩たちが持ち寄った黄色いフリージアが飾られている。佳代子が改修工事を担当した病院や学校の写真は、一冊のアルバムにまとめられていた。


「坂井さんが止めてくれなかったら、あの学校の配管は工事後に破裂していましたよ」


若いころ何度も佳代子に図面を直された後輩が、頭をかきながら笑った。別の女性社員は、白と桃色のスイートピーを束ねた花束を佳代子へ渡した。花を包む薄紙が、佳代子の指の中でさらさらと音を立てた。


「三十五年間、本当にお疲れさまでした。これからは、ご自分のために時間を使ってください」


「ありがとう。明日から目覚まし時計をかけなくていいと思うと、少し落ち着きませんね」


「最初の一週間くらい、朝寝坊してください。肉じゃがも洗濯も、逃げませんから」


佳代子は周囲と一緒に笑った。しかし笑いながら、明日の朝も隆志の味噌汁を作るため、同じ時刻に目を覚ますのだろうと考えていた。


会社を出たころには、細かな雨が降り始めていた。佳代子は花束を濡らさないよう胸へ抱き、駅前の店で牛乳を一本買った。紙袋からは、送別会でもらった焼き菓子のバターの匂いが漂っていた。


玄関を開けると、見慣れない赤いパンプスが置かれていた。廊下には甘い香水の匂いが流れ、朝干した洗濯物は庭に出されたまま雨に濡れている。佳代子は牛乳を冷蔵庫へ入れ、花束を抱えたまま居間の戸を開けた。


肉じゃがの鍋は、付箋を貼ったまま朝と同じ場所に置かれていた。隆志は食卓の奥へ座り、その隣にはベージュ色のワンピースを着た若い女性がいる。女性の前には佳代子が来客用にしまっていた金縁のカップが置かれ、紅茶から細い湯気が上がっていた。


「遅かったな。話がある」


隆志は空いている椅子を顎で示した。食卓の中央には、離婚届と財産分与要求書が置かれている。佳代子は花束を新聞の上へ寝かせ、雨粒のついた包装紙をハンカチで拭いた。


「そちらの方は?」


「広瀬梨沙さんだ。俺が通っている資産運用セミナーの講師で、今後のことを相談している」


梨沙は名刺を差し出し、赤く塗った唇を持ち上げた。肩書には不動産コンサルタントと印刷されているが、会社の住所は雑居ビルの一室だった。佳代子が名刺を裏返すと、隆志が苛立ったように食卓を指で叩いた。


「単刀直入に言う。離婚してほしい」


「今日、ですか?」


「退職金が振り込まれただろう。財産を整理するなら、今が一番いい」


隆志は、佳代子の退職金二千万円と、この家の所有権を自分へ渡すよう要求した。世田谷にある八千万円の豪邸を妻に奪われかけているのだと、梨沙へ聞かせるような声で話す。三十五年間、佳代子が仕事に専念できたのは、自分が家庭を支えたからだとも言った。


「仕事ばかりで夫を顧みなかった妻への慰謝料だ。三十五年間、俺が支えてやったんだから当然だろう」


佳代子は椅子へ座り、鍋の蓋を開けた。冷えた脂が煮汁の表面で白く固まり、ジャガイモは朝より濃い色になっている。小皿へ一口分だけ取り、冷たいまま口へ運ぶと、醤油の味が舌へ強く残った。


この家には、住宅ローンが三千八百万円残っている。屋根と外壁は次の梅雨までに補修が必要で、給排水管も交換時期を迎えていた。隆志には何度も説明したが、修繕見積書を開こうともしなかった。


「家も退職金も、本当に全部欲しいのですね?」


「当たり前だ。君には年金も資格もある。俺にはこの家が必要なんだ」


「この家を維持する費用について、広瀬さんから説明を受けましたか?」


梨沙は髪を耳へかけ、近隣の新築なら一億円を超える物件もあると答えた。隆志は満足そうにうなずき、この家は八千万円で売れるのだから、多少の費用など問題にならないと言う。佳代子は濡れたスイートピーと、手をつけられなかった肉じゃがを順番に見た。


「分かりました」


隆志が椅子へ深くもたれ、梨沙の顔を見た。勝ったと思ったときに左の眉だけを上げる癖は、結婚したころから変わっていない。佳代子は離婚届を自分の前へ引き寄せた。


「物分かりがよくて助かる。判を押したら、早めに荷物をまとめてくれ」


「その前に、銀行と弁護士を交えて正式な手続きをします」


佳代子は離婚届の横へ、革の鞄から住宅ローンの返済予定表を出した。残高三千八百万円という数字を見て、梨沙の笑みがわずかに止まる。隆志は表紙さえ開かず、佳代子のほうへ押し返した。


「細かいことは後でいい。家は俺がもらう。それで決まりだ」


佳代子は返済予定表を隆志の前へ戻した。朝、自分でアイロンをかけた白いシャツの襟が、隆志の首に少し食い込んでいる。佳代子はこれまでのように襟を直してやらず、書類から手を離した。


「承知しました。ただし、家についている三千八百万円の借金も、固定資産税も、これから必要になる修繕費も、すべてあなたに引き受けていただきます」


雨脚が強くなり、庭で洗濯物の竿が揺れた。隆志は八千万円という言葉に気を取られ、佳代子の示した残高をまだ見ようとしない。佳代子は濡れたシャツを取り込むためには立たず、会社でもらった花束を自分の膝へ静かに移した。


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