八月十二日(後)「海へ潜ろう」
泡。
わたしはそれを吐き続けてる。
深く深く、遠く暗い海の“底”へ。
教わった泳ぎ方で、教わった“浮き方”の反対をなぞって、自らの意思で潜る。これは沈んでるのと変わりはないけど、違う。わたしは堕ちない。やらなきゃいけないことがあるから、意識を持ったまま下へ、願いの場所へ。
(……おかー、さん)
わたしは、遠くへなくしてやらないように、右手に重たい宝物を握りしめる。
それはコンパスのネックレス。
おかーさんから貰った、おかーさんの宝物。
わたしに託され、ずっと手入れをして、眺めてきた。それにわたしがいまからすることを思えば寂しくもなるけど、もうきめた。これは、今から、『返さなきゃ』いけない。
どこに?おかーさんに。
もういない?しらない。
しんでる?しんでない。
わたしは罪を抱えてる。
これはわたしが持ってはいけないモノだった。
だっておとーさんは、おかーさんに帰ってきて欲しいから、コンパスを与えたんだ。
そう、“わたしが奪った”から、おかーさんは帰って来れなくなった。
もう、遅いかな。でも、帰ってきて欲しいな。
たとえわたしが、帰れないとしても、いいから。
(……っ?ぁ……)
わたしの体が急激に引っ張られる気がした。
それは大いなる自然の流れ。これは波かな。日の光が薄くなるぐらい潜っても、波って感じるんだって面白く思える。あれ、こんな危ないの、ふつう、焦るのにもうそれを思えないのは、意識がぼんやりとしてきてるから?
くる、しい。なぜか、肺が熱い。
息を吸え、と体全体が命令をするように口が開くけど、わたしはそれをできない。やらない。
肺に空気があれば浮いてしまうと学んだ。
だから肺から空気を抜いていればすぐに沈めると思った。
目的を果たさないで今から上昇することなんてしたくなかった。
そのおかげでほら、もうすぐ、おかーさんへと続く、海底がみえるよ。
辺り一面に見える色とりどりのサンゴ。
ねぇ、ここは覚えてる?
わたし、はじめてじゃないんだよ。
おかーさんと潜ったんだ。その時はシュノーケルをつけて、泳げないおかーさんに手を引っ張ってもらった。
でも今は、ひとりでここにこれてるよ。
あの時はマスク越しでもちょっとしか目を開けられなかったけど、いまはそんなのなくても目を開けられるよ。
わたし、どうしてもここにきたかったから、風香先輩に泳ぐ場所を聞かれて、おすすめしたの。
これから、このサンゴの下に、コンパスを埋める。
浅いかな、おかーさんのいる場所にはまだ遠いかな、でもわたしがここに埋めておけば、海の中の思い出の場所なら、いつかきっとみつけてくれるよね。
ここは、おかーさんが好きっていってくれた、おかーさんがこの千草島で海洋学者を目指した、理由だもんね。
さぁ、もうちょっと、いま、腕を動かして、砂をかき分けて、ここに眠らせれば──
(……っ!?っ!〜〜っ!)
さらわれた。
激しい波が、ちがう、海底を這う引き波がわたしの体を叩いて、緩まった指の隙間から、わたしのコンパスを奪っていった。
チェーンがサンゴ礁に引っかかった。けれど頼りなく、ぱちんと千切れて、大切なコンパスが、どこかへ引き寄せられていく。
まって、ってその指を伸ばすけど届かない、もう遅すぎた、わたしの手は、無力に、冷たい水を、掻くだけだ。
どうしよう、どうしよう!
コンパスが、流されていく!
あれはここに埋めなきゃダメなの、海に投げても、いつかはあの堤防に帰ってくるだけなの、だから、わたしが手渡さないと、思い出の、ここに埋めないと、おかーさんには。
(っ、ぁあっ……)
苦しい、苦しい苦しい。
わたしは変に動いてしまったから、残しておいた最後の空気をついに手放してしまった。
意識が朦朧とする。水をかきわける力も朽ちてきて、潜るんじゃなくて、沈んでいく。
空を見上げた。
微かに、揺れる光がかろうじてみえる。
わたしは何もできないまま、ここでしんでしまう?
それは、どうだろう。かなしい、のかな。
うまく考えられない、考えさえまとまらない。
諦めて、目を瞑ってしまいそうになった。
でも、その時。わたしは思い出がよぎった。
それはだいすきな顔。変な人だけど、わたしを愛してて、わたしも愛していて、失いたくない、おにいちゃん。
そうだ。わたしは帰ってこなくてもいいと呟いたけれど、帰りたいから、泳ぎを学んだんだ。わたしも生きていたいから、泳げるようになるこの日を待っていたんだ。コンパスを届けて、わたしも浮上して、そして、いつか、わたしと、おにぃちゃんと、おとーさんと、“おかーさん”と、あの日永遠に続けばいいと願った、魚パーティの続きをしたかった、だけなんだ。
(いやだ、いやだ!あいたい、おにぃちゃんに、あいたいっ!)
なんて馬鹿なことをしたんだろう。謝ったら許してくれるかな、でも謝りたいな。
わたしは願って、目を開ける。コンパスはもう見なかった。必死に上に登るために体を動かす。
限界、苦しいけれど、本当に最後の力を振り絞って腕を動かす。そして、あの太陽に向かって、手を伸ばす。
もう誰も握ってくれないとさえも思っていた。
けれどその時。
──深海に、『光』が差した。
「……っ……!」
温度を感じた。腕が掴まれた。引っ張られた。狭まる視界に、その顔が見えた。腕だけじゃなくて、全身を抱きしめられた。その人の体が動いた。上に、上に向かって、わたしは浮上した。安心した。もう、大丈夫なのだと思った。だから、目を瞑った。
そして意識を、手放した。
◇
「っぷはぁあッ!はぁっ、はあッ!ノアちゃんを、ノアちゃんをッ!」
僕は見つけた。そして手繰り寄せた。
二十メートルぐらいの深さだろうか、そこから往復をするのはかなり息が限界に近かった。
僕も沈みそうになってしまったけど、それでもあがってこれたのは、僕の両肩をそれぞれ支えるレインとルークのおかげだ。
必死な形相をして海に走った僕らを見て、彼らもまた迷いなく飛び込んでくれていたのだ。
僕は自分の息を整える時間さえも惜しいと、その二人に、明らかに呼吸がないノアを手渡して、砂浜に引き上げるよう指示を出す。
二人は力強く頷いて、彼女を水に触れないように持ち上げ、そして最も信頼できる、医療知識さえも完璧に心得た“兄”に引き渡す。
「ノア、ノアっ、乃彩……ッ!」
彼は地面に彼女を寝かせ、名前を呟きながら、迅速にレスキューのマニュアルをなぞっていた。
彼らが遠い。僕はまだ波に流されている。
どうなっているのだろう、生きているのか、僕は助けられたのか、それとも、“また”、見殺しにしてしまったのか……?
「──っ、のあ……ぁぁ……!」
ジンだけが見える。
彼は叫んでいた。
それは悲しみに満ちた声色じゃなかった。
世界の全てを許せるぐらい“安堵”に満ちた、色だ。
絶望的な状況だった。
でも彼女は、生きたい、と願ったから体に、肺に水を入れなかった。
だから繋げられる。
彼女は、きっと、呼吸ができたんだ。
目を、開けたんだ。
僕は報われた。心臓にかかった鎖が、一つ解けた気がした。
安心してしまったことで僕は深く息を吐いてしまった。それが海の上では失策だったことを、あとになって、思い出す。一瞬で沈んで、そして微かな波に体が持っていかれそうになった、その時──僕の手が掴まれる。
「──ライトっ!ほらっ、みんなで帰ろう!?」
フウカ。
ノアの手を握った僕。そして僕の手は君が握ってくれたんだ。
今日初めて泳いだっていうのに、君はもう浮き輪も無しで、ここまで泳いで来れたんだね。
僕はふっ、と笑って、嬉しくなって、そしてその手を僕からも握り返して、二人でゆっくり、砂浜へとあがっていく。
◇
「……ほんとに、ごめんなさい、みんな」
パラソルの下、彼女は座り込んで、そして頭を下げて縮こまっていた。
もうあれだけ暗かった波は静かになって、透き通っていて、太陽もまだ沈まない時間だった。
「わたし、心配させちゃった」
謝っているけれど、怯えてはなくて叱られるのを半ば諦めているみたいだ。
僕らはそれに何も言わず、ただ無事なのを喜ぶように笑っている。そして、代表者の彼に想いをぶちまけさせることを託した。
「──大バカ、者が」
「……っ、おにぃ……」
「反省しているのだろう、もう謝るな、お前が無事なら、それでいい」
ジンは小さな体を抱きしめていた。
いつも大袈裟なほどに愛を伝えているから、なかなか抱きしめさせることは許さないけど、今だけは誰もがその兄の行動を受け入れていた。
ノアは面を上げて、僕らからは見えない彼の一面を覗いた。
ジンはどんな顔をしているのだろうな。僕らはそれを見ていないけど、どれだけ珍しいものなのかはノアの反応でわかってやれる。
彼女は目が潤んでいた。でも、泣かないように、その肩に笑顔で、抱きしめ返すように、顔を埋めた。
その状態のまましばらく経って、落ち着いた頃にジンがいつものような調子に戻って喋り始めた。
「それでノア。おまえは何をしにあんなところにいったんだ」
「……えっと」
ノアは僕の方をチラリとみて、そして、自分の胸元を掴むように、けれどあるべきものがないように、手は空を切った。
僕は気づく。彼女の宝物であるネックレスがない。
だから確信した。僕の予想は的中していたのだと。
彼女はそれを成し遂げられたというのに、ひどく浮かない顔で、懺悔するように口を開いた。
「おかーさんに、コンパスを返そうとした。そしたら戻ってくるかも、って、思った」
そんなことがあるわけない、死者は帰ってこない、なんて台詞は誰も吐けやしない。だってきっと、聡明な彼女はわかっている。わかっていてこそ、その行動に踏み出させてしまった責任があると、声に出してはないが読み取れるように唇を噛んで、その柔らかな頭をひとつ撫でた。
「そう、か。……なぁ、言ってやりたいことが三つある」
「……うん、言って」
これは兄妹の話。僕らは聞いていいのか迷ったけれど、ジンは「構わない」と目配せをして、黙ってそばで待っていることにした。
「まずひとつ、死んだ人間に戻ってきてほしいと思うことは、悪いことじゃない。……でもな、残された者の気持ちを考えろ」
「……うん、……うんっ」
二人が今、何を思ってその言葉を話して、聞いているかは知り得ない。そうして僕も、頭で何がよぎっているか、誰も知り得ないのだろう。
「そしてふたつ、なんで俺を頼らなかったんだ。お前のためなら俺がなんでもしてやるってわかってたろう」
「……わかってたから、いいたくなかった。……いったら、とめられるかもしれない。逆に、おにぃが、いなくなるかもしれない」
ジンはそう言われて呆れたように、優しい笑みをしながら、今度は僕の方を向いて少女に詰めた。
「……そうか。じゃあ、なぜライトを連れていかなかった。お前はあんなに楽しく教わっていただろう。ライトは、全てを聞いても、きっとお前を止めず助けてやる選択をしただろう」
それは、確かに僕の本性を表している。実際、ノアに助けを求められたら、やりたいことを表明されていたら、なにがなんでも助けになった。ひとりでは行かせなかった。
「先輩に……迷惑だと思った。こんな……意味がないこと」
やっばり、自分の行動にはなんの価値もないことをわかってなお、突き動かす罪悪感に彼女は勝てなかった。「迷惑なんかじゃない」と言いたい想いは、彼女のために口に出さないで、ただ静かに近づいて、感情を受け渡すように、ジンのように、その小さな頭を撫でる。
「…….せん、ぱい……っ?」
思えば、フウカやルカがいつも撫でている彼女の頭に触れるのは初めてかもしれない。
女の子の頭を撫でるのは良くないとはわかってはいるけれど、この時はなぜか無意識に、邪な気持ちはなく慈愛の意味で、そうしてやりたいと思った。
ジンは僕の行動を拒んだりせずに、むしろ潤み続ける彼女の瞳を眺めて、僕に小さく感謝を告げる。それは共にハチミツレモンを作った時と同じような言葉だった。
たった数秒撫でて、僕が手を引けば、彼は最後にノアに尋ねた。
「最後だ。……その宝物は、返せたか?」
ノアは満足できるところに置けたのか、僕の口から言ってあげたいことはまだ残っているが、それをまず聞きたかった。
成し遂げたと思っていた任務、だが予想に反して、彼女は苦しそうな顔をして言った。
「……ううん、埋められ、なかった。波に、流された」
後悔。
彼女は自分を命の危機に晒しただけで、心配をかけただけで、母とのつながりを“失った”だけだ。
それがどれほど辛いものなのか、僕は知っている。
“僕ら”は、知っている。
「──そうか、ならば取り戻すぞ」
あまりにも即答で、自信を持って、さも当然かのように僕らのリーダーが言い切ったから、皆は動き出したんだ。
「そうっす!あれって大切なものなんすよね……?それなら持ってないとっ!」
「そうだよ〜!なくしちゃままじゃだめ。ちゃんと、お別れしないとねぇ」
「ボクらでも良かったら力になるから、頼ってよノアちゃん!」
ノアはひとりじゃない。誰もが生きていて欲しいと、笑って欲しいと、自警団最年少の健気な彼女を守るため言葉を誓う。
「みん……な……っ」
「お前の意志で手放したのならば俺は何も言えん。だが、波如きに攫われたのならば俺は取り返す責務がある。さぁ、ノア、やるぞ」
「……うん、うんっ、やる、取り返す、わたしっ、コンパスを。だから……お願い」
僕らはまた彼女の表情を見つめていた。
それは以前の悲壮感に溢れた苦しさの顔じゃない、覚悟に満ちた、決意の顔だ。
「──みんな、手伝ってください」
頭を下げる。彼女はルカに似て礼儀正しく、ジンに似て強かな女の子。僕らはそうお願いされてしまっては、断る気概など万に一つもあり得ない。
「当然」、という声が重なり、僕らは深海に堕ちたあの銀細工のコンパスを拾う術の作戦を練る。
「ふッ、なくしものは海の底にあるのか?それならオレが潜って探してきてやるぞ!」
「……いや、どれだけ海が広いと思ってるんですか。波に攫われたのなら落ちている具体的な場所もわからないんですよ」
「それでも、だっ!オレが何度でも探しにいけばいい話!しらみつぶしにあたりを漁れば絶対に見つかる!」
「あたしも手伝うっすよ!時間さえあればきっと……」
「それがダメなんです!何回も潜れば溺れるリスクも増えますし、時間が経って暗くなればさらに危険になります!」
「あぁ、ルカの言う通りだ。それは効率的じゃない、体力を無意味に減らすだけだ」
「ジンくん、じゃあシュノーケルを持ってくるのはどう?」
「そうだよ〜!酸素ボンベでもあればぁ……」
「否。我武者羅に探していることに変わりはない、それは貴様らの命を守る団長として許可する理由に足らない」
「でも、ボスッ!やらなきゃ一生探せないぞ!」
「わかっているっ、だから今考えているのだ!貴様も少しは抑えろ、自警団のライフセーバーなのだろう!?自らの命も勘定に入れろッ!」
「……ッ、あぁッ、わかっている、だが……」
海は広大だ。
その中からひとつの目当てのものを探し当てるなんて、ルークたちが議論するように不可能に近い。彼の言葉はどこまでもカッコよくて頼りがいのあるものだったが、彼自身の命を考えれば、容易に頷けるものじゃなかった。
ジンは顎に手を当てて思考を超速で張り巡らせる。
そして、それと全く同じ姿勢で、ノアも答えに辿り着く何かを得るため、ひとつ呟く。
「……っ、せめて、目印さえ、あれば。そもそも、わたしがしっかり、握っていれば……」
無力感に苛まれている。
皆を巻き込んだ分、誰よりも見つけたいと願っている。
けれど、色んな思考が絡まって、意味もない後悔が前面に出てしまい、うまく解決策が閃かないようだった。
それは僕も同じで、平凡な思考では画期的な策を想像さえもできやしない。
でも、いつだって“君”は。
予想外のアイディアをもたらすんだ。
それこそが団員No.8だって、証明するように。
「──ねぇ!探知機って使えないのかな!魚を探すやつみたいに、金属を見つけるのっ!」
顔を上げて、光明を見出したのは、僕とジンと、ノアだった。
「ジンっ!たしか金属探知機って……!」
「あぁっ!エデンにあるぞ!あれなら砂に埋もれていても見落とすことはない!」
「……なるほど、でも待ってください。結局それを持って探索してもどれぐらい海が広いと思ってるんですか!見つかりやすくなっただけで、誰かが海に沈まなきゃいけないのなら危険に変わりはないです!」
ジンに対して抗議するようにルカは言った。
こういう場面で彼女が論理的にセーブ役として機能するからこそ、この自警団という組織は上手くやっていけるのだろう。
だけど、僕らは探知機だけではなく、もうひとつのアイディアがそばにあった。
「じゃあさ!人じゃないモノに探知機をつけたらいいんだよ!ね、できるかな──ノアちゃん!」
フウカの特大のヒント。僕とジンは既にそれにたどり着いていて、そして指名された彼女は、いつにもなくその瞳に光を宿して、頷いた。
「──できる。わたしの“潜水艦”を、改造する」
潜水艦とは、ラジコン。
そう、彼女は自警団のエンジニア。
ジンが買い与えた部品のそれらは彼女の才能を遺憾なく発揮して、その創造力の背中を押す。
もし、海中を自在に動ける機械があれば、その先端に金属探知機を取り付けることができたのならば、がむしゃらに人を寄越す回数を節約し、時間は大幅に削られる。
息を呑んだ。一筋の光は見つけられた。しかし、そこで輝く細い糸を手繰り寄せるのはどれほどの困難なのだろう。
でも、それほど彼が自信に溢れているから、僕らならできると確信してしまった。
「……よし、決まったな。まずはエデンへ必要なものを取りに行く。メンバーは俺と、探し物補佐のルカ、ここへ届ける“足”のレインだ」
「……わかりました。工具が必要なんですよね」
「了解っす!クモちゃんですぐ持ってきます!」
お決まり、彼の役割分担が始まる。それに耳を傾け、全員が自分のできることに集中してひとつの困難に挑んでいく。
僕とフウカも、すっかりその一員だった。
「ノア、貴様はここで上着を着て休んでいろ」
「ぇ……でも……」
「意地悪をしたいわけじゃない。俺たちを信じろと言っている。部品を運んできた次の作業、『改造』はノアにかかっているのだからな。体を休め、頭を働かせ、構想を練れ。そのハチミツレモンでも飲んでな」
「……うんっ」
ノアの頷きに、ジンは微笑んで各員の顔を見つめて言葉を続ける。
「メアリとフウカはノアが充分休まるようにそばにいろ。……それと、また勝手に海に行かないように監視してくれ」
「はいは〜い!」「りょーかい!」
「ルークは………、貴様、どうしたい」
「……!ボス、無意味かもしれないが……オレは潜って少しでも見つけられる回数を増やしたい」
「……フッ、だろうな。わかった。ならテイラーと共に潜るのなら許可する。シュノーケルはつけろよ」
「っ!いいのか!ボス!」
「ぼ、ボクが溺れないかだけ心配だけど、力になれるように頑張るよ!」
「フッ、それならルークはテイラーが溺れないように腕で抱えておけ」
「あぁ!熱い抱擁で密着し続けてやる!」
「えええ!?溺れる原因が増えちゃったよ!?」
「どんな深い海に沈んでもテイラーだけはこの手を離さん!」
「離してよ!?一人で沈むのが二人になるだけだよ!?ロマンチックなセリフは別のところで聞きたかったよ!?」
不思議だ。あんなに不穏だったのに、もういつもの僕ららしく、その一言で光の方へ動き出していく。
彼は最後に僕へ告げた。
「ライト。お前は自分でやりたいことをやれ」
「……僕のしたいこと」
「そうだ。自由に動け。貴様はそれができるやつだ」
「……わかった。僕は僕らしく、やるよ」
これで話は終わって、皆は一度それぞれの方へ向いていく。
僕も、迷いなく、向いた。
どこへ?それはジンと同じエデンの方角へ。
なぜ?それが僕のやりたいことの、最初の一つだから。
やりたいこと──『ノアを笑顔にしてやること』。
そのためなら僕は、荷物だって運ぶし、改造だってやるし、海に入って潜ることだって、全部、やり切れると思うんだ。
◇
「……っ!みんなっ!キャッチした、銀の信号……!」
午後六時。
夕暮れに染まった空の下で、バッジ付きのサンダルを履いた彼女が、飛び上がって告げた。彼女の手にはモニター付きのコントローラーがあった。
「大丈夫、遠くまで流されてない、場所は──」
僕は既にそれを覗いていたから、伝えられるまでもなく、走り出す。
記憶した。どの位置にそれがあるか。
あとはそれを取って、戻ってくるだけ。
海へ走ったのは自分の意思だけれど、その背中を優しく押して、見つめられているような感覚がした。
きっと、フウカだろう。彼女が望む幸せのためにも、僕はノアを笑顔にするために、今、海に、潜る。
……
体力はこれ以上なく残っている。
潜水艦と繋がった太い有線ケーブルを辿り、最高率でポイント付近へ到着し、そのネックレスの存在を示す砂の中に手を伸ばせるほどまで接近した。
姿は見えない。でも、信じてその砂ごと僕は掴む。
固く、小さな物体の感触。
普通、海の中で金属探知機なんて使ったら、海底に沈むそこら中のゴミや鉛に反応し役に立たないらしい、だが、そのネックレスに用いられた純正の銀だけの信号を受信するように、ノアがプログラムしたのだから。
砂を払って目にしたそれは。
──コンパスの形をしていた。
「……!ぶはっ、らぃど、ゔぇをづがゔぇ!」
僕がそれを見惚れるように、安堵するように眺めていれば、頭上から誰かの必死な声が聞こえる。
『ライト、手を掴め!』、そんな言葉が確かに聞こえた、それは自警団のガードナーにして、ライフセーバーのルークだ。海中だというのに気にせず全力で喋ろうとするその姿がどうにもおかしくて、頼り甲斐があって、僕はそれを左手で掴んで、浮上する。
この右手には、これを大切に握ったまま。
「──せんぱい、せんぱいっ!」
水面に顔を出した。
そうしたら、彼女は羽織っていた上着を脱いで、スクール水着でここまで向かっているのが見えた。
今はそれどころじゃないはずなのに、最初はあれだけ泳げなかったはずの彼女が、今こうして腕を動かして、息を吸って、僕の元に近寄っているのが、なぜか、たまらなく嬉しく思えたんだ。
程なくして、彼女は僕の胸に飛び込んでくる。
「ノアちゃん、見つけたよ」
「……っ!わたしの、おかーさんの、コン、パス……!」
この手を開いて、彼女へ見せた。
美しく輝く、世界にたった一つの宝物を。
ノアは、勢いよく泳いだせいだろうな、目尻に水を落として、それをじっと眺めている。
このまま、このアクセサリーを彼女に手渡しても良かった。
物欲しそうにしていた。それを抱きしめたいだろうと気持ちをわかってあげられていた。
でも、僕はまだこの右手に強く残したまま、彼女に、ずっと伝えたかった、この想いを聞かす。
「──ねぇ、これをまだ、返したい?」
まっすぐその瞳を見た。彼女は、ビクッと震え、まるで直前まで同じことを思考し続けていたようにその言葉に動揺する。
彼女がどんな答えを、どんな理由で伝えたとしても、僕はこのネックレスを彼女に返すだろう。
でも、聞きたい。知りたい。
僕の願うことは、過去の彼女の思考に逆らっているけれど、今の彼女と、同じなのかなって。
「……わたし……っ、わからない、どう、すればいいの?」
ノアはひとつずつ、心のうちを明かしていく。水に浮かんだ僕らは、身を寄せ合って語り合う。
「おかーさんに帰ってきてほしい。これはもともとおかーさんの宝物で、わたしが貰ってしまったから、帰らぬ人になったと思った。返せばっ、戻ってくれると思った……っ」
「……うん」
「でも、でもね、わたし……」
彼女はわかっていた。
なぜ託されたのか、言わなくても、わかっていた。
「──これを手放したく、ないなぁ……っ!」
彼女の目尻の水は、海水よりも綺麗な色をしていた。
それは、涙。僕は彼女のそれを、誰にも、僕自身でさえ、彼女のために見せたくないと思ったから、手の届く距離にいる彼女を抱きしめて全身で覆い隠す。
僕は耳元で、彼女の支えになれるような言葉を囁く。
嗚咽混じりにも彼女は言葉を返してくれる。
「手放さなくていい。ずっと持っていればいい」
「いい……の……?わたしに、資格はあるの……?」
「あるよ。ないことなんて、ありえない。だってそれは“おかーさん”から貰ったんだ。自分の命より、大切な、授けたい祝福があるから、贈ったんだ」
「……!祝福……」
「ねぇ、ジンは、好き?」
「………うん、だいすき」
「そっか。もし、ジンが溺れていたら危険に顧みずとも、助けたい?」
「……うん。いなくなって、ほしくないから」
「きっと、コンパスの意味は、それと同じだ」
僕は彼女から離れて、その人の手を持ち上げて握る。
ゆっくりと開くようにして、掴んだ銀のアクセサリーを、彼女の手のひらにおいて言った。
「これは『命に代えてでも助けたい』って、愛が籠った、願いの塊。だから、この持ち主は、もう“おかーさん”じゃない」
返す、だとか、僕には最初からわからなかった。
だって、受け渡されたそれは──
「──ノアちゃんのモノだから」
君は受け取った。
たった数時間の別れから、いろんな意味を込めて見つめるように、愛を流し込まれるように、流し込むように、抱きしめて、祈って、そして、笑って。
「──わたし。もう、なくさない……っ!」
コンパスはいつだって帰る場所を示す。
どんなに迷っても、進むべき方角へ導いてくれる。
それは誰かが託した願いだ。
僕らはそれを美しいと、信じてみたいと思ったから、自由を求める僕らの“つながり”を示すモチーフとしたんだ。
いまだってほら。
こんなにも眩しく、彼女は前を向いている。
ノア√、了。
綺麗にまとまったんじゃないかなと思います。
書いているうちに、心情をいれてあげようと思えば話が膨らんで計5話になりました。
そして、ノアの不在で真っ先に動き出せるジンとライトを思い描いて、書きながら益々彼らを好きになったのを覚えています。
ノアちゃんは可愛い。




