八月十二日(中)「海へ潜ろう」
「……ん、はぁ、はぁっ、どう……?先輩っ」
午後三時。晴れ渡った空の下で、澄み切った海の上で、彼女は笑顔を浮かべて僕に自慢げに語りかけた。
「すごい、すごいよノアちゃん!もう一人で泳げるね」
僕は彼女を心の底から褒めていた。
彼女は浮き輪も手助けも無しで、足のつかないほどの深いところへ行っても浮けるようになった。さらに、自由にクロールも、バタフライも、あるいは深く潜る方法でさえも、初めてとは思えないほどにマスターしている。
さすがジンの妹。コツさえ掴めばそつなくこなしてしまうのだ。
「……えへへ、うれしい」
凛とした猫みたいなノアの、そんな笑い方は初めて聞いた。やっぱりそれが可愛く思えて、僕も教えて良かったと嬉しくなる。
「わたし、免許皆伝?」
「僕に与えられる免許はないけど……、でも、本当によくできてるよ」
「……ふふ、これでわたし、もっと潜れるっ」
嬉しそうにテンションをあげて、口から下だけを海の中に入れるように浅く潜って笑う。
そんな表情と様子を見て、僕は訊きたかったことを訪ねようと思った。
「ねぇ。ノアちゃんってさ。泳ぐ以外にも、“潜りたい”っていってるよね。それはどうしてかな」
細かいニュアンスの違いかもしれないけれど、あえてノアがそれを使い分けているようだし、僕に教えて欲しいと頼んできた内容の大半も、深く潜る方法についてだった。
「……しりたい?」
彼女は、僕にゆっくりと近づいて、そして上目遣いで不安を隠すような声色に変わって話す。
「あぁ……いや、無理には、いいよ」
嘘だ。僕は知るべきだと思った。
彼女のコーチとして、“潜る”なんて危険なことを望む理由は知る必要があると思った。
でも、僕は踏み込むすぎるのを恐れて、距離を取る。
「……わたし、返さなくちゃいけないから、潜るの」
僕はその理由に逃げ道を与えたはずなのに、彼女は再び、話したいから話すように、拙く言葉を繋ぐ、彼女が“潜りたい”と願うわけを。
「返すって。その、ネックレスだよね」
「うん。わたしの。おかーさんの、宝物」
彼女は、首からかけた綺麗なそれを、おもむろに外して小さな両手で握りしめていた。そして祈りを込めるように、また目を瞑った。
その話は覚えている。
彼女はそれを返したいと真面目な顔をして相談したから、僕は泳ぎ方を教えてあげたいと思ったんだ。
でも、肝心な“方法”は知らなかった。
潜ることができてどうやって返す?
彼女の母は、潜水艦の事故で、深海に取り残された。
そんな人に、今更どこで、何をして返せばいい?
そして、なんで、その遺品を返さなくちゃいけない?
「もう、できる。先輩のおかげでできるようになった」
「………そっ、か」
変に口を挟めないほど、彼女は晴れやかに笑っていたから、水に流されるように、僕も笑って返すしかなかった。
「だから、ありがとう。わたし、満足」
そうしたら僕の手は勝手に持ち上げられて、そして握られる。
これはレッスン終了の証なのだろう。もう存分に泳げるようになった彼女は僕から離れて、どこまでも広い海へ、泳いでいくのだろう。
腕前的に信用はしていた。危機管理も、フウカと比べて慎重だから、そうそう溺れることはないと知っている。でも得体の知れない予感が、彼女を手放してはいけないと囁いていた。
だけど僕は、彼女の意思を曲げられない。
「……それならよかった。じゃあ、もう僕はいらないね」
「……ぁ、……うん、わたしは、もう卒業」
一瞬悲しそうな表情をしたように見えたけど、きっと幻想。僕如き、なんでもない一般人だ。これ以上教えられないし、もっと適した人がいくらでもいる。
だから離れる選択をした。
「……よし。ともかく一回休憩しようか。陸にあがろう。疲れたでしょ?」
「ん、でもちょっとだけ、だよ?」
「それでもあがろう。自由に泳ぐのはしっかり休憩したあとね」
彼女は自分の実力がどれほどになったのか、他の団員たちに見せびらかして、試したそうにウズウズしてるけれど休憩は大事だ。
二時間程度ぶっ通しで泳いでいたら、僕でさえ、少し疲れている。体格も体力も劣るノアが疲れていないわけがないと無理にあげさせることにした。
「あーっ!ライトー!ノアちゃん!おつかれっ!どうだったー?」
浅瀬に行けば、その間一度も泳いでなかったフウカが僕たちの方に真っ先に駆け寄ってくれる。
麦わら帽子を片手で押さえながら走る姿が、素直に可愛いと思えて、僕は心拍数が上がるような変な感覚に襲われた。
「フウカ先輩。ふふ、すっごく楽しかった。わたし、もうオリンピック選手」
「それは言い過ぎだけど……、でも楽しかったよ」
「ふふっ、ふたりがそう言ってくれるなら私も嬉しいなー!」
「そっちはどう?」
「ふふん、こっちはね──」
砂浜で遊んでいたそちらの様子をフウカに聞こうと思えば、そのセリフを奪うように、マントをつけた誰かがカッコよく登場した。
「フッ、華麗なるビーチ球遊びをたしなんでいた」
「……なにそれおにぃ」
ジンだ。水が苦手とはいえど、五十センチ程度の浅瀬は平気らしく、妹のためにここまでやってきている。
「ビーチバレーをはじめ、ビーチバスケにビーチサッカーを行った」
「すごいスポーツだ」
「ビーチボーリングとビーチカーリングもしたねぇ?」
「どうやってやったんだよ」
「ビーチ雪合戦もしたな」
「何が雪だよ」
「ん、すごく面白そう」
「うんっ、面白かった!ノアちゃんもやるー?」
「……やりたい、けど……」
フウカに手を引かれながら、ノアは僕の方をチラリと向いた。
許可を待っているようだ。僕はもう彼女の先生ではないけれど、そんなで見られたら、言わないわけにはいかない。
「ちょっとだけ休憩させてあげて、フウカ。疲れているからお話をしてあげてよ」
「あっ、そうだよね……!?というか暑いでしょ?パラソルの下いって話そ!いろんな面白いことあったんだよー!抱腹絶倒させ続けてあげる!」
「ふふ、なに、それ。きかせてほしい」
フウカは僕の意図をよく理解して、彼女を引っ張ってくれた。強引さにももう慣れたように、ノアは嫌がる素振りもなくて、ただ笑って、皆が待っているあの傘の下へ自らの意思で歩き始めている。
「……ねぇ、ジン」
フウカも歩いていたというのに、対して僕は立ち止まって、その名前を呼ぶ。
彼に何か言いたいことがあったから、固まってもないけど、とりあえず引き留めたかった。
結局、彼は僕を見て振り返ったけど、すぐに歩み始める。
「なぁ、ライト。貴様は疲労回復に何が効くか知っているか?」
僕から話しかけたはずなのに、なぜか今ジンから尋ねられている。
困惑はしているけど、特に理由もなく呼んだだけだったから素直に答えてみせた。
「え、うーん……スポドリ、はちがうから…….ハチミツレモンとか?」
「フッ、なら作るぞ。蜂蜜檸檬」
「えぇ、ええ?」
彼は前を向いた。そして僕が隣に並び立つのを待っていた。
ついていかなきゃと思った。
だから少し駆け足になって、ジンの横顔を見れる位置につけて、ノアとフウカが向かうパラソルから少しズレた場所──海の家へと歩んでいく。
◇
「どうだった?我が妹は」
僕らは、ピークを過ぎて人が全くいなくなった海の家にいる。それは客席じゃなくて、なぜかキッチン。
一度手伝いで入りはしたが、今度はルカもいないし不法侵入ではある。でもどうしてかジンが自信満々に「大丈夫だ、俺だからな」なんて変なことを言うので言われるがまま入ってしまった。
「どうって……すごいよ、あの子は」
「フフ、誉高い」
「もちろんジンに似て、ね」
ふたりで作業をしながら会話を続けている。
どんな作業かといえば、僕が冷蔵庫に入ってあるハチミツとぬるま湯を九人分混ぜ合わせて、それを氷で冷やしていて、ジンが大量のレモンを輪切りに切っている。
「よせ。俺は確かにすごく全知全能であるが……」
「えげつない自信だ」
「ノアは俺には出来ないことができる。……水泳、とかな」
電気は煌々とつけていないから、太陽から逃げられる日陰の暗いキッチン。
ジンは、妹をどれだけ愛しているのか、とても安らかな声色だった。
「ライトには本当に、感謝している」
「……やめてよ。ノアが頑張っただけだから」
「その気にさせたのは貴様だと言っている。褒め言葉を素直に受け取れと言ったろう?」
「ふっ」と笑われてしまって、本来は鼻につく笑い方のはずなのに、もうすっかり慣れてしまって、なぜかジンの横だと安心できる気持ちになる。きっとこれは、家族のノアだけじゃなくて自警団メンバー全員が思っていることなのだろう。
「……そうだね、じゃあ、どういたしまして?」
「あぁ。その方がいい。……ずっと前から、ノアは泳ぎたがっていたんだ。だが、残念ながら俺には、そしてあいつらにも、不向きだった」
ジンは昔話をはじめそうだった。
僕は無意識に、聞くために自分の作業の手を止める。
「昨年の夏。今日と同じ、八月十二日。海の上に行きたいと言われた。照れ屋で遠慮がちのノアがだぞ?自分の意見で俺に相談したんだ」
「……?沖釣りに行きたかった、とか?」
「あぁ……それもあるだろうな。だが、もう便はなかったし、送ってやろうにも当時の俺はそんな能力なんてないからな。約束してやれなかったんだ。ノアは俺を責めなかった。だが、あの時の悲しそうな顔は忘れない」
「……そうなんだ、でも──」
「──だから、俺は船の免許を取った。今年こそ連れて行ってやれるようにな」
励ましの言葉を考えていれば、彼は彼らしく、呆れるほど前向きに、気高く、前を向いていた。
「なぁ、昨日のあいつの顔はみたか?」
「……うん」
僕は、思い出す。
助手席に乗って、海を眺めていた横顔。
兄をネタにしていじる、小悪魔な様子。
たくさんの魚を釣って、捌いた、真剣な瞳。
僕と一緒に大物を釣り上げた瞬間の、無邪気な笑い。
ペンダントを握りしめる、祈るような、姿。
魚パーティの中心で、心底嬉しそうに緩む顔を。
「幸せそうだったろう!満足げだったろう!」
「そう、だね。昨日ほどノアちゃんについて知れた日はなかった」
「あぁ!あれが“ノア”だ。俺は、それを見れただけで報われた気がする、行動してよかったと思える!」
なんてジンは眩しく笑うのだろう。
これが妹を持つ、“兄”なのかと、僕は見上げるような、どこか尊敬さえする気持ちになった。
僕も、そうなりたいと思ったのかも知れない。
「数ある俺の宝物のうちのひとつはな、ノアの笑顔だ。母さんが好きだった、な」
「“おかーさん”……か」
「フッ、聞いたんだろう?ライト」
「うん。聞かせてもらった」
死んだ母のこと。
僕は僕の母が死んでしまうことなんて、考えたくない。だから、彼らがそれを味わって、どんな感情を抱いているかなんて考えることすら烏滸がましい。
重苦しい話題だ。
でも。今。
僕はそこから一歩、踏み出して、胸につっかえた何かを、訊いてみなきゃいけないと思った。
「ねぇ、ふたりの“おかーさん”は、なんであの──コンパスを渡したの?」
プライベートな家族のことだけれど、それが知りたかった。
「覚えている。母曰く『コンパスは、どんなに嵐が吹いても視界が真っ暗になっても、宇宙に投げ出されたとしても、進むべき“正しい方向”を見失わない。人生で迷子になりそうな時にこれを見れば、きっと、帰れる』のだと、父からの想いを継いで、ノアへと、そして俺へと託したのだ」
そうだ、コンパスは“帰るため”の道具。
いつだって、特に船で遠出をした時なんか、千草島に帰ることを望む際に彼ら兄妹はそのコンパスを持っていく。
だからこそ、もうひとつ、聞きたい。
「事故が起きた時、ふたりの“おかーさん”は、コンパスを持っていた……?」
僕の予想が確信に変わる質問。ジンは少し考えて、言った。
「持っていない……とは言い切れないが、あったとしても、それは使い慣れていないものだろうな。なぜなら、愛用の“コンパス”を俺たちに授けたのだから」
ようやく彼女の心理を、僕は、理解できたような気になった。
「そっか……、きっと、彼女は、それで」
僕は今はまだ遠い場所にいる彼女を思い浮かべる。そして過去、ネックレスを握ったあの淡い願いと一緒に。
「ねぇ、ジンは知ってる?ノアちゃんが、泳ごうとしてたんじゃなくて、“潜ろう”としていたことっ」
とっくにハチミツレモンは作り終えていた。
僕はジンに対して焦るように詰め寄った。
「……は?……なっ、そ、そうなのか?けど、なぜだ?何が違う?」
彼は知らなかった。僕に対しては当たり前のように最初から教えてくれた目的を、兄には伝えなかった。
どうしてか、わからない。
けど、僕は早く戻らなきゃいけない気がした。
「戻ろう。ほら、それを、食べさせてあげるんだ」
疲労回復の効果が詰まったそのジュースを、長時間の水泳で疲れている彼女に。
それで休憩を果たせば、僕らはまたもう一度、海に行こう。
そして“目的”を果たそう。
きっと、大変だけれど、僕がそばでみていれば、叶えてあげられるはず。
◇
「おかえりっす!ふたりとも!」
「待ちくたびれたぞ!ふたりがいなきゃなにも始まらんっ!」
「あ、ハチミツレモン?……気がきくじゃん、ありがと、ジン」
「はちみつ!?のみほす〜!」
「その動詞が真っ先に出てくるんだ……」
僕らはそれぞれお盆を持って、簡単な机に置き、配っている。
彼らは存分に休憩していたのか、もうすっかり疲労なんてないほどに会話を楽しんでいるみたいだった。
そして、横で、フウカが僕の肩を突く。
「おかえり。待ってたよ、ライト!」
そう言われるのはやっぱり嬉しかった。休憩の後からはもう少し彼女と一緒に時間を過ごそうと思った。
それは二人だけじゃなくて、僕とフウカ、それと“彼女”をいれて。
僕は、見渡す。
そして、ジンも同じタイミングで、見渡した。
同じことを思った。
同じことがよぎった。
そして同じことを、言った。
「なぁ、貴様ら、ノアは、どこにいる?」
「ねぇ、フウカ、ノアちゃんは、どこ?」
いない。長い髪の、伸び切っていない身長のあの子が。感情表現は不得意だけど、意外にお喋りで、情操豊かな可愛らしい一面しかない、妹みたいな彼女が。
最も近くにいたに違いない、フウカに僕は尋ねた。
そして、彼女は、おかしそうに首を傾げる。
「え?ノアちゃんはおにぃと先輩探しに行くって、海の家に行ったよ?」
いつもの、なんてことのない無邪気な笑顔。
だけど、その言葉を聞いた瞬間、僕の背筋を冷たい悪寒が走った。
「……え」
違う。そんなわけはない。
僕らは海の家から今戻ってきたばかりだ。
千草島の砂浜には、海の家へと続く一本道しかない。
遮るものなんて何もない、遮蔽物のない白い砂の上だ。もしノアちゃんが僕らを探しに歩いていたなら、否が応でもすれ違っているはずだし、目に入らないわけがない。
じゃあ、ノアちゃんはどこへ行った?
海の家に行くと嘘をついて、どこへ向かった?
ガタガタ、と手元で音がした。
僕の持っているお盆の上で、ハチミツレモンのグラスが震えて、氷が悲鳴のような音を立ててぶつかり合っている。
「まさか、ノア……っ」
隣にいたジンの声が、今まで聞いたことがないほど小さく、震えていた。
彼が持っていたお盆が、その手から滑り落ちる。
──パリン、と九つ並べていたグラスのうち、ひとつが、揺れて、落として、割れて、爆ぜた。
静かな砂浜に、鋭い破裂音が響き渡った。
せっかく二人で作ったハチミツレモンが、ガラスの破片と共に、乾いた砂にどす黒く染み込んでいく。
その赤信号のような衝撃音を合図に、僕とジンの視線は、同時に弾かれたように『海』へと向いた。
いつの間にか、昼間の穏やかさは消え失せていた。
「──ノアぁぁッ!」
僕より先に動き出したのは、ジンだった。
彼は行き先は推測できたかのように、一直線に走り出す。
それは迷いなく、海。広大な海。晴れている空に対して、少しだけ濁り始めた、波の強くなった、海。
「どこにも、いくなぁあアッ!俺がっ、いるだろうッ!」
彼の怒号、願い。
僕は知っている。
彼は海が怖い。
それにはきっと理由があって。
彼の過去と切り離せない“トラウマ”のはずで。
そんなの克服なんて簡単にできないからこそ、彼はいままで避けてきた。
だけど、そんなものすら踏み越えてしまえるほど、彼にはもうひとつ、“トラウマ”があったんだ。
「──ッ!」
「え、ライト……」
僕は駆け出した。
訳もわからず駆け出した。
駆け出さなきゃいけないと思ったから駆け出した。
フウカの困惑も、何も理解できてないような彼らの言葉も、全部置き去りにするように走った。
脳裏に、さっき海の上でノアちゃんが浮かべた、あの寂しそうな『卒業』の笑顔がフラッシュバックする。
──『わたし、返さなくちゃいけないから、潜るの』
──『もう、できる。先輩のおかげでできるようになった』
そうだ、ノアちゃんは僕から泳ぎを教わって『卒業』したんだ。僕の手を離れて、一人で『目的の場所』へ行くための力を手に入れたんだ。
だから僕に関係ない──わけがないだろう?
僕は行かなきゃいけない、その小さくて白くて細い腕を掴まなきゃいけない。
走った。
そして、追いついた。
私服のまま、マントのまま、肩まで水に浸かった彼に。
コンパスを片手に、海に、一瞬だけ躊躇してしまった彼に。
僕はその肩を押し退けた。
言った。
安心して欲しいって。
必ず連れ戻してくるって。
だから信じてって。
それを言うにはあまりにも時間が足りないから。
短く、彼に僕を刻むように。
自警団No.9だと、証明するように。
「──助ける」
そう四文字と決意を残して、僕は暗い、深い、海へと、飛び出した。
シリアス。




