八月十二日(前)「海へ潜ろう」
“僕”は泣いていた。固いコンクリートの地面に座って、足をぷらぷらと深い海の方へ放り投げて、あの地平線の先を眺めている。
『おかー……さん……っ』
もう、両手に抱えきれないほどの悲しみで埋められて、泣き疲れるぐらいだった。ずっと待っていた、その人の帰りを。でも五日も経っても、おかーさんは現れないから、とうとう“僕”は、首にかけたこのネックレスを握りしめてしまった。
“僕”は小さく、呪いの言葉を吐いた。
後悔しかない想い。こんなの誰も聞いてほしくない。
でも、“僕”の後ろに、“誰か”はずっといて、そしてもう耐えきれないように背後から声をかける。
『──。』
“僕”の名前を呼んだ。それは安心する、だいすきな家族──おにぃちゃんの声だと気付いた。
でも振り返りはしなかった。
こんな泣き顔は見せたくない。たとえ、そんなのを笑わない人だとしても、“僕”が、弱い“僕”がいやだ。それに、真実を告げられたとして、認めたくないよ。おかーさんをずっと待っていたいよ、いつか絶対に帰ってくるって、信じていたいよ。
まだまだ未熟な子供だと、嫌に自覚している“僕”に対して、その人は、「ふっ」と優しく息を吐きながらも、諦めることはしなかった。
『なぁ、遊ぼう。一緒に』
『………ぇ……?』
おにぃちゃんは近づいて“僕”の肩を叩く。
まだ振り返らない。
最近のおにいちゃんは昔と変わらず、いや、もっと活発になって、喋り方も少しだけおかしくなったけど、一緒に遊ぶのはいつも楽しい。
……けど、今は、だめ。そんな気分じゃないし、“僕”は待っていなきゃいけない。
じっと、黙っていれば、おにぃちゃんは肩に触れるのをやめて、その隣に座り始めた。
『──は、海が好きか?』
『……ううん、きらい』
おにぃちゃんは別のアプローチに切り替えるように、優しく諭すように、じっと瞳を見て話し始める。
それは少し恥ずかしくて、目を逸らしたけれど、嫌なわけじゃないからただ質問に返して、どかせることはしなかった。
海は、おかーさんを奪った海は、嫌いに決まってる。
それは、おにぃちゃんもそうでしょ?
『そうか、俺は、海が好きだぞ』
『……ぇ、なんで。だって、おにぃは』
『あぁ、水は苦手だ。泳げないしな』
相反するようなことを言っている。おにぃちゃんは一年前から、深そうでよくわからないことを語るようになった。その説明が続くのを黙って待った。
『でも、好きなんだ。……母さんが好きだったから』
『……っ、おにぃ……っ』
“僕”は思わず振り向いた。
いつも気丈に笑い飛ばしてくれるおにぃちゃんは、共にあの地平線の向こうを見て、寂しそうな顔をしていた。
『こんな理由じゃ、ダメか?俺は、俺の“宝物”は、好きだった人が好きなモノなんだ。だから、それを世界に忘れさせたりなんてしないように、残し続けていきたい。俺が愛していきたい。……なぁ、──はこれが間違っていると思うか?』
おにぃちゃんは“僕”の方に向いて、そしてどこまでも優しい宝石のような瞳で見つめてくれた。
そんなの言われたら、きらいになんて、なれるわけがなかった。
『まちがって、ない。……そう、わたしも、すき。ずっと前から、すきだった。海が。どこまでも広がる、海が。“ろまん”が眠る海が。──おかーさんが、好きだった、海が』
この島で生まれ育って、どんな思い出もこの海に重ねられたから、好きなんだ。
泳げないけれど、それを嫌いになりたくないよ。
“僕”は気付いたら、またおかーさんを思い出して、泣きそうになる。それはもちろん悲しみもあるけれど、さっきとはちがって、幸せだったことを思い出して、嬉しくもなるんだ。
人に涙は見せたくない。
でもこのままだとおにぃちゃんに見られてしまう。
だから、全て分かってる、“僕”のおにいちゃんは、立ち上がって、“僕”がもう泣かないように、幸せだけをみせてくれるように、この手を強引に引っ張って連れ出してくれた。
そして、“僕”を笑わせてくれる。
『ふっ、そうか。……ならば、よし。俺と遊ぶぞ!』
『わっ、……ん、ねぇ、遊ぶって?』
『海が好きだからこそ、出来る遊び。“釣り”だ!どちらが大きい魚を釣れるか、勝負をしよう!』
おにぃちゃんのその両手には、いつからか二本の釣竿が握られていた。
それは見覚えがあった。おとーさんのモノで、いつか家族で釣りをした時に使った記憶もある。
“僕”はそれが、なんだか嬉しくて、暖かくて、おかしく思えて、眩しく写って、「ふはっ」と笑えて。足が動き出して。涙は振り切って、そして。
おにぃちゃんを抱きしめたんだ。
「……ッ!?─、──……?どどどどうした急に」
「ううん、なんでもない。……よし、さぁ、やろ。わたし、釣り、絶対まけないよ」
固まって動揺して動けなくなったおにぃちゃんから、強引に質のいい方の釣竿をひったくって、いつもみたいに、生意気に笑いかける。
わすれられない、大切な一日だ。
それは夕日と共にだんだんと淡くなっていって、色褪せて。
そして、僕の意識へと戻り──世界は、崩壊していく。
◇
「ということで、どう?風香。泳ぎたい?」
縁側に並んで座る。
僕は昨日の出来事をまとめて風香に相談していた。
「〜〜!もっっちろん!わたし、人生で一回も泳いだことないから、ぜったいやってみたいっ!」
その内容は、ノアにお願いされた水泳指導のこと。
なんて聞いたかは言うまでもなく、目をキラッキラに輝かせて僕の左手を掴んでブンブンと振るい、全速力で頷かれた。
「誠が教えてくれるんだよね!?」
「まぁそのつもりだけど……」
「ふふ、やったね。私のインストラクター兼トレーナー兼コーチ兼先生だ」
「多すぎでしょ」
あとなんだその文字数多い順の変な並び、ってツッコミも入れたかったけれど、彼女の喜ぶ顔の前では野暮なことは言いたくないと思った。
「……にしても、泳ぐのが初めて、ね」
「んー?あっ、さすがにお風呂は毎日入ってるよ……!?心配しないで……!?」
「してないから毎日見てるから」
「お風呂を?」
「みてないよ!?風呂上がりの姿をだよ!?」
今時といえど、学校でスイミングの授業がないところなんてあるのだっけ。
彼女に調子を狂わされたことで、深く考えるのを諦めれば、僕は必要なものを思い出す。
「あ、そういえば水着ないや。……風香も持ってないよね。どうしようか」
「……ふっふっふ、実はあるっていったらぁ〜?」
「え。前にビーチフラッグした時ないっていってなかったっけ?」
「えへへ。実はおでかけした時、円海さんに選んでもらったのですっ」
「あ〜……僕がお手洗いに行ってた間にか」
「誠のもあるよ?」
「それはなんで?」
「円海さんが洗濯してくれてるからねぇ、サイズはばっちりだし、私がデザインを監修しました」
「……うん、まぁ、いいか、ありがとう」
ちなみにあのお出かけの時に買ってもらった円海さんチョイスの服と風香チョイスの服はかなり気に入っていて、普段使いしている。
だから水着も心配はいらないだろう。というか心配のある水着を僕は知らない。
「それで、泳ぐ場所を探したいと思うんだけど……、近くのプールとかって知ってる?」
「んー……?聞いたことないなぁ」
「だよね。ジンに聞いてみようかな。なかったら最悪ビニールプールでも……」
「ふふっ、誠ー?泳ぎたいならぴったりの場所があるじゃんっ、というか囲まれてるじゃんっ!」
ちっちっち、と指を振って彼女は僕に指摘をする。
というか、なんて言われるかは分かっていたけれど、あえてそれは選ぼうとしなかった。
「海だよ海!そこで泳ごうよっ!」
「……うーん、考えたけど、初心者が最初から挑戦するには危ないかなぁって……」
「だいじょうぶ!心愛ちゃんの海の家の近くの砂浜は浅いでしょ?それにいっぱい泳いでる人みたことあるもん!」
「でも海は生き物とか波とか海水とか……」
「私たちの先生は誠でしょ?」
「……?うん」
「なら危険を守ってくれるから安心!」
「守り切るには限度があるよ?」
「え、誠は私を守り切ってくれないの?」
「…………いいや?守り切れますが」
「乃彩ちゃんも?」
「余裕だね」
「ふふっ、よし!決定!」
「……ふふ、はいはい」
乗せられたのは半分自覚している。僕の言葉は間違っていないだろう。
でも、少しだけ、彼女に頼られて信じられていることが嬉しくて、見栄を張って答えてしまった。
海、か。
うん、乃彩も好きだと言っていたし、悪くない、そっちの方が喜ぶのかもしれない。危険も僕が目を光らせておけばいいだけだ。
大変さ、でもそれよりも、彼女たちの記憶に残る、良い一日にしてあげたいのだ。
「どこの海にするー?」
「それは、皆におすすめを聞いてみようか」
「そうだね!じゃあ……海に一番詳しい乃彩ちゃんに相談だ!」
風香はたどたどしい手つきで、買ってもらった携帯に文字を打ち込む。
それは乃彩への連絡先。
友達の欄には円海さん含めて十人。
他の団員とも交友を深めているその姿を見て、僕はなんだか、心の底から嬉しくなる思いがした。
◇
「よーしっ!自警団ラジオ体操係のあたしが準備運動の号令かけるっすよーっ!」
「そんな役割あったんだこの組織」
「ははッ、一人何役でも出来るからな!ちなみにオレは自警団ビーチバレー審判係だ」
「プレイできないのかよ」
「さらに自警団のライフセーバー係でもある」
「その誉高き仕事を先にいいなよ……?」
非常に突っ込む要素が多い、活動的なボケ二人と僕。
「ねぇね、楽しみだね!ノアちゃん!」
「うん……!みんなで泳ぐのなんて、はじめて……っ」
「おぉ?もしかして自警団で泳ぎの遊びはしたことないの?」
「そう、おにぃが大の苦手だから。……フウカ先輩は、泳ぐの得意?」
「ぜーんぜん!」
「ふふ……、同じだ」
「えへへ、今日は凄腕のライト先生がいるからねっ、ふたりでオリンピック選手ぐらい上手くなっちゃお!」
「なる。水泳界に新風、変革、激震、旋風をもたらそう」
「もたらそー!」
そしてワクワクが隠し切れずに、落ち着かない様子の波長が合いすぎる二人。
「うへぇ〜……、テイラーぁ、ルカぁ、あついよぉ……」
「まぁまぁ、一緒に頑張って運動しよ、メアリちゃん」
「そうですよ。私たちがいるんですから、楽しくできますよ」
「ん〜、ふたりがそんなに言うならするけどぉ……、やっぱりっ、ジンくんがひとりだけあそこにいるのは不公平だよ〜!一緒に運動しようよ〜!」
「……パラソルの下で悠々自適と本読んでるね。サングラスもつけてる。あ、今手振った」
「あいつ転がしてきましょうか?」
「待ってルカちゃん?」
「転がして連れてきて〜」
「許可しないでメアリちゃん?」
「はい。任せてください」
「あぁ……行っちゃった……さよならジンくん」
「テイラーも諦めるの早いねぇ?」
「あ、転がってきた、おかえりジンくん」
「ばっ、ぶっ、おい待てッ、ルカっ、止めっ」
「運んできましたよー!」
「ありがと〜!」
「なぁ、それが人がサッカーボール扱いされて来た時に出る言葉か?」
「ん〜?痛かったねぇ?」
「そうだな痛かったなすごく」
「名誉ボール君ですね」
「貴様ふざけるなよ」
「まあまあ、ジンくんはJリーグの公式球よりタフで大きくて頭もいいよ!」
「なぁ、テイラーはそれが人間への褒め言葉だと思っているのか?」
そしていつもの同級生四人組。
ここは、海の家の少し近くで、観光客は寄りつかないけれど見渡しやすい、ノア直伝の穴場の砂浜で。
自警団のフルメンバーが、太陽がカンカン照りの最中、集まっていた。
さらさら泳ぐ気のないひとりを除き、全員が水着を着て、運動をレイン主体で丁寧にこなして、海に入る準備を着実に済ましていく。
「っしょっと!最後全員でジャンプしておわりっす!海に入る時は体温調節のために心拍数をあげるのが鉄則っすからね!」
「へぇ……確かに。初めて知ったよ、物知りだねレイン」
「へへっ、泳ぎは好きっすから!長く楽しむためにも、怪我予防の知識はいっぱい知ってます!」
「それは助かるよ。今度教えてもらっていい?」
「もちろんっす!」
「ふっ、ブラザー。オレも健康知識はある。そうだ筋肉豆知識を授けようか」
「あ、いらないです」
「え……、そ……、そうか……」
「………やっぱり、今聞いていい?」
「実はラジオ体操を完璧にこなせば四百種類の筋肉を刺激できる」
「意外と興味深かったよ」
僕の近くで駄弁りながらも、褐色かつ小麦色の肌を見せる機能性重視の水着を着た、引き締まった体のレイン。そして、見慣れたタンクトップは脱ぎ去って、大きな筋肉の体を見せつける上裸の“漢”、ルーク。
彼らはやはり運動神経抜群だからこそ、泳ぎにも頼りになりそうだ。……まぁ、初心者に教えられるかと言ったら絶対適しているわけがないから結局僕が教えるけれど。
他の服装といえば、ジンはいつものマントを着た舐め腐った私服で、テイラーは長袖の綺麗なラッシュガード。
ルカとメアリは、同じ時に買ったのか黒と白の色違いで、可愛らしく、露出はそう多くないワンピースの水着。
僕は描写するまでもなく意外と普通のトランクス一つ。
ノアは学校で使ってるのかスクール水着を着て、そのうえにあのコンパスのネックレスを提げていた。
そして──
「──えいえい。ね、似合う?ライトっ!」
運動を終えて、改めてどうやって泳ぎを教えようか考える僕の頬をちょん、と突いたのはフウカ。
彼女はくるりと一回転して、僕へ格好をアピールした。
パステルの紫で統一した、ひらひらとフリルのついた、ビキニ。
露出度がちょっと高くて、いつものゆったりとした服装とは違くて体型が見えて、僕は一瞬目を逸らそうと思ったけれど、そんなこと聞かれたら、彼女を見てこう答えるしかなかった。
「……うん、似合うよ、すごく」
「〜〜!えへへ、やったね。円海さんありがとっ。ライトもすごく似合ってるよ!さっすが私!」
「男に似合ってるとかはあるのかな……」
「もちろんあるよ!……それで、最初はなにからやる〜?」
そうだ、本題に戻る。
もう必要な事項は済ませたから、今すぐに海に入れる。でもその前に、今日の“目的”を、彼女を呼び寄せて再確認しよう。
「フウカ。それとノアちゃん」
「ん、ここにいる」
「まずは僕と一緒にあっちで練習してみよう。そのあと、自信がついたら皆で競泳、してみようか」
「……うんっ、する」
「泳げるようになるぞー!」
既に、今日の企画を全員に話した時点で、目的は『フウカとノアの泳ぎの特訓』だということは話していた。
だから他の団員は暖かい目で見つめているし、その最後の競走まで、各自で遊ぼうとしてくれている。
海へ意気揚々と走り出したのは、案の定レインとルーク。そして意外にも運動神経もよく面倒見も抜群なルカが、レインに強引に手を引かれて水に浸かっている。
海に入らず、その間際で楽しんで砂のお城を作ることにしたのは、他と比べて白すぎる肌のテイラーとメアリ。それと水嫌いのジンが結構ノリノリで楽しそうに参加している。
三人ずつで分かれた遊びだけれど、この広い砂浜では全員が目に届く、繋がっている。
さぁ、僕を慕ってくれる彼女たちをがっかりさせないように、必ず泳ぎ切れるように、そばで教えてあげよう。
◇
「まずは、水に慣れることから始めるよ」
「水に慣れるー?」
僕ら三人は、既に水中へと入っていた。
だけれど、深さ五十センチもないぐらいの、腰にもつかない浅瀬。
これから講義を行おう。
「うん。最初に『水泳』をどう思ってるかを聞いてみたいな。ノアちゃん、学校のプールの授業の時に、ゴーグル越しでも目は開けた?」
「……ううん、ちょっとしか、開けなかったかも。……なんか、すこし、こわくて」
「そっか、わかるよ。……ノアちゃんが泳ぐのが苦手なのはそれが原因?」
「たぶん。あ、でも、わたし、他のみんなと違って、すぐ沈んじゃう」
「なるほどね。ありがとう、ノアちゃん」
僕はカウンセリングするように、二十五メートルを泳いだことのない彼女の症状を探す。ある可能性があると至って、僕は次の生徒であるフウカへ尋ねた。
「それでフウカは、そもそも広いところで泳いだことがないんだっけ?」
「うんっ、だから水中で目を開く発想がなかったかも!できるかわからないなぁ」
「……じゃあ、問題ね。人間は水の上に浮かぶ?」
「おお!ラッキー問題!そりゃあ浮かぶよ!だってみたことあるし……今でもあそこでレインちゃんが泳いでるからっ」
「そうだね、正解だ。じゃあ、人間はどんな時に浮かぶんだろう」
「え、どんな時にでもじゃないの……!?」
フウカの回答に首を振れば、この問題には彼女が何か思い当たるように答えた。
「あ、肺に、息があるとき?」
「そうだねノアちゃん。浮き輪みたいに、空気が体の中にあれば人は浮く」
「……あ、そっ、か」
「……ふふ、自分が沈んじゃってた理由がわかったかな」
「うん。たぶん、あんまり息吸わないまま泳いでた」
「そう。だから一つ目にふたりに知っておいて欲しいのは、“焦らない”こと、だね」
昨日、沖釣りから帰った後に、僕は図書館へ寄って調べたんだ。水泳のための教則本。
これはそこに書いてあったのをなぞっているだけだけど、大切なことだと思った。
「焦らない……、か」
ノアはしっかり咀嚼して、記憶するように言葉をつぶやいてから、僕の続きの言葉を待っている。
「それと、ノアちゃん。昨日『運動神経がないから泳ぐこともできない』って言ったよね」
「ん、いったきがする」
「実は、泳ぐのに“運動神経”はあんまりいらないんだ」
「……え?そうなの」
「必要なのは、水を恐れない心だけ。身体さえ浮くことができれば、案外泳ぐのは簡単なんだよ」
念のため見比べた複数の本でも一様に記述されていたのは、『水泳が苦手な人はえてして水を恐怖している』こと。
僕にとってはもう当たり前みたいに思える感覚だけれど、彼女たちには“水を恐れない”、そんな基本から教えていく必要があると思った。
「……恐怖心。……克服」
「そう。水と一緒に生きてきたノアちゃんだとしても、改めて、水は怖いだけじゃないんだ、ってのを知って欲しいんだ」
「……うん、がんばる」
僕の目には、ジンはともかく、釣りに毎日勤しむノアはそれほど水に苦手意識はないように見えるが、泳げないのには自分でさえ気づけない潜在的な理由もあるだろう。
ゆっくりそれを、溶かしていけばいいと笑った。
「ライトっ!早速浮かぶ練習してもいーい!?」
「はいはい、一緒に行こうか」
「わたしも、やる」
これからするのは初歩的なこと。
それでも彼女たちとなら、面白くなりそうだと直感していた。
◇
「貴様らーっ、昼休憩だ、集まれ!」
この暑さの割には随分と涼しく思える海の上で、少し遠くから、よく通るリーダーの声がした。
僕はそれを聞いて、浮き輪を掴んだまま、顔を水中に埋めるふたりの指を優しくつつく。
「……ぷはっ、んー?なになにライトっ!」
「……ん、はぁ、なぁに、ライト先輩?」
彼女たちは思いの外、筋がある。
泳げない人が陥るという“浮けない”という困難は容易にクリアして、水への恐怖もみられず、ビート板付きのレッスンを乗り越え、四種の泳ぎも拙いながらも自力で前に進めて。
今は逆に“深く沈む”練習をしている時に、お昼の号令がかかったのだ。
「一回休憩だよ。よくがんばったね。ルカのご飯を食べたら……また、泳ぎにいこっか」
二人の特訓をしながら、僕は海全体を見渡していたから、一時間前ぐらいにルカとジンが海の家の方へ歩いていくのを目撃していた。
彼らは恒例のように自警団のお料理担当だ。
実際、ルカは自警団シェフ係なる役職を与えられているらしいけれど、ジンはいつだって彼女について回ってご飯を作っている。
仲が良い……と思うかもしれないが、なんか、互いに一品ずつ作って料理の味を競い合ってる。勝った方は負けた方に存分に煽っている。いややっぱり仲良いなあの人たち。
「……そういえば、ライト先輩も、お料理上手なんだよね」
海から離れるように、だんだん浅くなっていく水を足に感じて歩いていれば、横に並んで歩くノアが、僕を見上げて聞いていた。
「そうだよ!ライトはとっても上手!料理ランキングにも名前を連ねてるからね〜!」
「フウカが答えてくれるんだ……。まぁ、ありがとう。二人ほどじゃないけど、作れはするよ」
「ん、十日前ぐらいのパスタ、おいしかった」
「……パスタ……あっ、つくったねぇ一緒に!」
「ふふ、また皆でやってみたいね」
僕が笑って提案すれば、ノアは前を向いてその視線の先にいる人物を想って口を開いた。
「……というのも、ルカねぇがね。前からずっと言ってる。ライト先輩と新メニュー考えたいって」
「え、ルカが?」
「うん。前にお仕事手伝ってたでしょ。そこで腕を認められた」
「そんなにかな……」
「あと、材料見抜いてくれて嬉しかったって」
「……ふふ、そうなんだ。新メニューなんて面白そうだし、僕もまたルカのお仕事手伝ってみたいから今度声かけてみるよ。フウカもくるでしょ?」
「もちろん!今度こそ完璧に接客するもん!」
「楽しみだね。ノアちゃん、教えてくれてありがとう」
「ううん。……がんばって。ルカねぇを喜ばせて欲しい」
「……?当然だよ。……それより、ノアちゃんは本当にルカの妹みたいだね」
「あ、わかる!お互いにリラックスしててすごく仲良いよねー?」
「そ、そう……?……うれしい」
同棲しているルカとノアのふたり。
擬似の姉妹ではあるけれど、まるで本物の家族のように信頼しあって良い関係だと思えた。
ジンが除け者なのがちょっと可哀想で面白いけど。
……
「美味しかったっす!それで……午後から何するっすか?」
「ビーチフラッグだな」
「勝手にしててください」
「ははッ厳し」
「辛辣だねルカちゃん……。ボクが審判やってあげるよ」
「じゃあわたしよーいドン係するね〜」
「それならあたしはフラッグ差し込み係するっすよ」
「えっとえっと……じゃあ私は応援係!」
「あ、誰も競ってくれないんだな」
「……第一そんなの純粋な早さ比べでルークが勝つに決まってるじゃないですか」
「え……それでも……やろう……ハンデつけるから……」
「そこまでしてやりたいんだね……」
「両足折るから……」
「そこまでしてやりたいんだね!?」
「一分止まるから……」
「どんだけ長いコースやんだよ」
フランスパンではない普通の食パンで作られたサンドイッチを、砂浜の上にレジャーシートを引いて、大きなパラソルの下、九人でまるくなって食べていた。
とても楽しくて、愛おしい時間。
でも桁違いの体力を誇るルークを除いて、皆は一通り海で泳ぎ尽くして少し疲れている様子。
次に口を開いのは、顎に手を当てて海を眺めているジンだった。
「……ふむ、だが一度海から上がって他の遊びに興じても悪くないかもな。少々、波が騒がしくなってきた」
ジンが向いた方を全員が見つめる。天気は相変わらずの晴れ。だが、たしかに、ほんの少しだけ浜に押し寄せる波が高くなっている気がする。
微々たるものだが、ジンの直感は不思議と当たりそうだと思え、収まるまで海に入るのは控えようと判断をしようとした。
「そうだね。……じゃあ皆でなにか遊んでみる?」
「よしッ!ビーチフラッグがダメならビーチバレーはどうだ!?」
「……まぁ、それなら戦略性あるのでいいですよ」
「でもビーチバレーならルークが強制審判係なんすけどいいんすか?」
交代でやってあげようよ。
「ふッ、オレはみんながスポーツで笑えればいいのさ」
「スポーツ庁長官?」
「あと別に審判が点を決めたって良いだろう?」
「限りなくダメだろ」
「……!私バレーやったことない!やってみたいけど……すぐできるかなー?」
「ふふふ〜、だいじょーぶ簡単だよおフウカちゃん!ちょっといたいけど体でぶつかりにいけば勝手に跳ねてくれるから〜」
「そんな攻略法はないよメアリちゃん……」
「えへへ、へたでもきっと楽しいよ〜!やろやろぉ!」
「うんっ、やってみる!ライトっ!わたしにバレーも教えて!」
「はいはい、わかった。バレーね……」
僕らは次の遊びを見つけて、もう動き出していた。
どこまでも前を向いて、楽しそうに。
でも、この中でひとりだけ、俯いた顔をして、海を眺める一人の少女がいた。
相槌を打ちながらも、いつものような切れ味がなく、どこか上の空。
彼女は、今日一日中ずっと首から提げていた銀のネックレスを、きゅっと握る。
「……ノアちゃん?」
言いたいことがあるのではないかと、ここ数日に深まった仲のせいで、少ない表情変化の彼女の“本音”を読み取れてしまった気がしたから僕は名前を呼んでしまった。
彼女は声を聞いて僕の方へさっと振り向いて、そして口を開いてもしばらく何も出てくれなくて、またそっと海へ向き直す。
僕は時間が経ってもいいからと、そのそばで待っていてあげる。
もうパラソルの下にいるのは、僕とフウカと彼女だけ、となった時にようやく、ぽつりと小さな音量で話してくれた。
「……わたし、泳ぎたい。まだ、潜れないから」
切実な願望のようだった。
彼女にはすぐにでも泳げるようになりたい理由があった。
それは波が来ているからといって、簡単に諦めたりできないほど強い意志を感じた。
それでもはっきりと口に出しにくそうにしていたのは、きっと彼女が心優しい人物で、海に出て泳ぎを教えてもらうのは、ひとりじゃできなくて必ず僕が必要で、それに迷惑がかかってしまうと思ったんだろう。
だから、彼女の前に手を出して、僕は言ってやった。
「──なら、練習しようか」
「……ぇ、ほんと?ライト先輩、ビーチバレーするんじゃ」
「それはまた今度。今はノアちゃんと泳ぎたいんだ」
遠慮がちな彼女のために、僕は自分の心からの想いもしっかり伝える。
そして隣のフウカを見つめて、彼女は僕についてくるのかどうだろうと考えていれば、ふと目があって「しかたないなぁ」と言わんばかりに肩をすくめて笑ってくれる。
「ふふ、私は別の機会に教えてもらうから、ノアちゃんにライトをひとりじめさせてあげるね」
「……フウカ先輩、いいの?」
「いいのですっ、ビーチバレーもやりたいし!……だから、ライトを頼んだよ」
「わっ、……うん。ありがとう」
「えへへ、どういたしましてっ。それじゃあ二人の説明はわたしがしてくるねー!」
彼女はお姉さんらしく、ノアの頭をポンと撫で、バレーのコートを設営するルークたちの方へと走り出していった。
フウカは午後も僕らと一緒に泳ぐと思っていた。けれど、彼女は上手くなりたいと願うノアに僕がつきっきりで集中できるように身を引いてくれたのかもしれない。
その心は僕には読めないけど、彼女は思いやりに溢れた優しい人物だから、あとで、寝る前にお礼を言っておこうと、今度付きっきりで教えてあげようと誓う。
「──あらためて、ライト先輩。わたしに、泳ぎ方を、潜り方を、おしえてください」
そして、僕らの午後は、そんな言葉から動きだした。
ルークがバカすぎて好きです。勝手に喋るなこいつ。




