八月十一日(後)「沖釣りをしよう」
「……っ!かかった!ライト来て〜!」
僕が糸も垂らさず、ただ船の中で船長がしている作業を学ぶように眺めていれば、彼女が元気よく名前を呼んだ。
それに呼応して僕の体は無意識に動き出し、一言断ってから、不安定な船の上を歩みだす。
「よし、そばにいるよ。頑張ってフウカ」
「うん!せーー……っの!」
風香は向こう側からも掴まれている釣り竿を両手でなんとか抑えていて、そして僕の支えを確認してから、引っ張り上げるため力を使い切った。
「よっと!わあぁっ!できたっ、釣れたよ、ライト!えへへ、これでもう五匹目〜!」
フウカは慣れたように釣った魚を針から外し、そしてバケツへ放り込んだ。そこには確かに五匹泳いでる。僕とフウカの合同で釣り上げた子達だ。
「上手くなったねフウカ。もう僕の助けがいらないぐらいだ」
「ううん!ライトに背中押さえてもらうだけで力が湧いてくるの!だからライトは必要!」
「……そっか。じゃあまだ手伝うよ」
時計を確認すれば、沖釣りを開始してからもう一時間が経っている。
その間ずっと、フウカは水面と睨めっこしていたのだ。対して僕はといえばさっき言われた通り、彼女の背中を支えて力を高めるバフ役として働いている。
直接的に釣りをしなかったのは、釣り竿の本数という物理的な問題もあるけれど、非力な彼女が海に飲み込まれるのが怖いからすぐに動けるようにという意味もある。
「よーっし!またがんばるね、ライト!」
「うん。……危なくなったらすぐに呼ぶんだよ?」
「もちろんっ!ほら、心配しないで団長のとこ行っておいで!」
彼女は再び海に糸を垂らして、僕を送り出す。
せっかくだからその隣でお話でもして良かったけれど、僕のやりたいことを見抜いていたフウカは彼の元へ背中を押してくれた。
「ありがとう」と伝えて、僕は彼女に呼ばれるさっきまでいた場所にゆっくりと戻る。
それは、運転席をよく見れる助手席へ。
そこは、サングラスをずらして、真剣な目をしながら迷いなく“革”を縫い付けるジンの隣だ。
「む、どうだ、釣れたか?」
「うん。ばっちり。……おぉ、すごくカタチになってきてるね」
僕が座り出したのに気づいて彼は作業を止め、釣果を尋ねる。フウカの能力を誇らしげに答えて、僕は話を彼の手元のモノに移した。
「フッ、だろう。もうすぐ完成だ」
レザークラフト。
それは今、手持ち無沙汰なジンがやっている暇つぶし。
だけれどそれは暇つぶしと呼ぶにはあまりにも趣味の作業で。
だけれどそれを趣味と呼ぶにはあまりにも仕事のようなクオリティだ。
なぜ彼はせっかく海のど真ん中にまで来たのに、釣りをせずそれに興じているのか?
それは先程のように釣り竿の本数の問題……ではなく、理由はまさか『ジンの唯一苦手なものが海だから』ということになる。
船は運転できるのに釣りは無理なのかよというツッコミはもうした。
彼曰く、ただ泳げないのが原因であるからこそ、逆に自分の力で海を渡れる船の運転は、世界全てを支配している感覚になれて楽しいのだとか。
よくわからないけれど、ノアのために人肌脱いで足となって、周りが釣りをするその空いた時間でこんな大層なモノを作れてしまうのだから彼はやはりすごいという印象になる。
「ね。それは何になったの?」
作業がようやく終わった。
釣りをするよりもそのレザークラフト技術を学びたかった僕は、食い入るようにただ黙って見つめていたけれど、結局、彼が何を目指していたかはわからなかった。
自慢げに見せつけられた完成品は、まだなんのデザインも刻まれていない、飴色の丸くて厚みのあるケース。
縫い付けたスナップボタンをぱちん、と音を立てて開き、その意図していた使い方を今から見せるようにしてそれに答える。
「──方位磁石のレザーケースだ。フッ、我ながらジャストフィット」
彼はマントからあるひとつのアイテムを取り出した。
蓋が付く、まるで懐中時計みたいにアンティークなそれを、自作の革袋にピッタリ合うのを確認してからその中身を見せびらかす。
「コン、パス……!」
僕は少し興奮していた。
玩具じゃない実物で精巧なそれを初めて見たのはあるけれど、なによりそれこそが“僕ら”のモチーフだったからだ。
「ん、そうか。ライトにはこれを初めて見せたか?」
「うん……!綺麗だね、それ」
「……ふっ、触るか?」
「え、いいの……?ありがとう、……これ、やっぱりすごく良いモノだよ」
「だろう。俺の数ある宝物のうちのひとつだからな。マントにいつも入っている」
「あ、そこに宝物入ってるんだ」
「他にも色々あるぞ。パワーストーンとか」
「絶対重いでしょ」
「重いが自身に負荷をかけて修行していると思えばカッコいい」
「あぁ無敵なんだ」
彼はなぜそんな容量があるのかわからないぐらい、宝物を紹介してくれる。
「その通り。あとは防犯ブザー」
「なぜ!?必要!?いやあって損はないけど!?」
「フッ、これも宝物だ」
「えぇ……?なんで……?」
「ノアが生まれて初めて作った機械だからに決まっているだろうッ!!!」
声デカ。
「……そっか、エンジニアのノアが初めて……ね」
「俺へのプレゼントときたらそれはもう嬉しかった。しばらくピンを抜いて荒れ狂う音だけを聞いていた」
「怖すぎる」
「一ヶ月ぐらい子守唄にしていたな」
「怖すぎる」
「騒音がいつしか柔らかく聞こえたんだ」
「怖すぎる」
「まだまだ宝物はあるぞ。くるまったティッシュ」
「えぇ!?なんで!?」
「ノアが俺にくれたものだからだが?」
「怖すぎる!」
彼は他にも、ノアと関係のないくだらないようなものを多く僕に見せて、それを“宝物”と呼んだ。
きっと誰からみても大したことのないもの。
けれど、ジンからすれば、それらは永遠の思い出が詰まった、まさにジンだけの“宝物”なのだろう。
ひとしきり紹介を終えて、そして、彼は再び、最初に見せたあの“宝物”を、僕が今手に持ってるその“宝物”を微笑んで見つめて言った。
「……フッ、俺には把握し切れないぐらい宝物があるが、それでも“それ”は特段傷ついて欲しくないからな。ケースを作ってベルトにでも引っ掛けようと思ったのさ」
ジンはその宝物の“コンパス”を、それほどまで大切にしていると語ってくれたのに、今、僕へ手渡して自由に触らせてくれている。
これには、確かな重みがあった。
大切な思い出が込められているのは、言われなくてもわかった。
それでも触らせてくれたのは、僕を仲間と信じてくれたからだろうか。
それが嬉しかったからこそ、僕は思い切って尋ねてみることにした。
「ねぇ、“コンパス”ってジンにとってどんなモノなの?」
目の前のこれだけじゃない、『自由警備団』のシンボルとしての“コンパス”としての意味を問うたのだ。
「フッ、これは導だ。どれだけ迷っても最後には帰れる、俺たちの道のな」
「道標……、か」
「あぁ。たとえ、今この船上で異常気象が起こって霧に包まれ、あの島が見えなくなったとしても、これさえあれば我らは帰れる。そういう物理的な意味もある」
「……じゃあ、抽象的な、意味は?」
「……ハッ。そこまでわかっているのなら俺が言う必要はないだろう?」
僕はなんでも彼に答えを求めようとしていたけれど、それは無粋だと言われて気がついた。
僕は自分自身の格好を改めて客観視する。
いつもの服装に、そして“いつもの”になりつつある自警団員を示す腕章。
そこに留められていた、コンパスのバッジ。
僕はそれをひとつ撫でる。
答えを言われる必要なんてなかった。たとえこの夏が終わっても、僕は刻まれたコンパスさえみれば、エデンという名の暖かい居場所にいつだって戻って来れる気がした。
彼にこの宝物を返して、僕はジンの優しい瞳を見つめ返して言う。
「……そうだね。言わなくても、十分伝わったよ」
「そうか。……なぁ、ライト。貴様に帰りたいと願える家はあるか?」
「………え、家って」
「あぁ。家だ。ライトは萩原の家じゃなくて、もうひとつあるのだろう。本当の家が」
返されたそのコンパスを、きゅっと握ってジンは言った。
僕の家。それはある。優しい両親が住む、確実に恵まれた環境に違いない、何の不便もなくて大きな家。
僕は今、我儘にそこから距離を置いているけれど、嫌いになんてなったことがないほどに大好きだった。
「……あるよ。僕の、大切な家が。いつか、二人がいるあの家に帰りたいと願えるよ」
「ふっ、ならばすぐに会いにいけよ。その願いが叶えられるうちに」
「……?うん、それはもちろん。……でも、今はまだ、もう少しこの島にいたいんだ」
僕の本音。両親には心配をこれ以上かけさせたくない。けど、僕はまだ、あの日から前を向けていないから、弱気な僕を見て欲しくない。
やらなければいけないこと、僕が心の底から過ごしたいと望む日々は残ってる。
だから、リーダーに正々堂々と伝える。
「フウカと円海さんとのあの家が。そして──エデンが。もうひとつの帰りたい“家”になったから、かな。それほどまでに好きなんだよ、僕はここが」
「……!クク、貴様はやはり素直なやつだ。嘘がつけない正直なやつだ。甘い言葉を平気で吐ける」
「え、えぇ?何、急に」
「褒めている。良いところだと言っている。甘ったるいのは嫌いじゃない」
「素直とか甘いとかって、そうかなぁ、僕は……」
「なんだ、俺の言葉が間違っていると?」
「……いや、……ありがとう?」
「フッ、そうだ、賞賛は有難く受け取るのが一番だ。……それと、エデンにいたいのならば夏が終わるまで、いつまでもいればいいさ。そのコンパスさえあれば、道には迷うことはない」
彼は意味深な言葉を散りばめる。それに意味があるのかはわからなくて、ただカッコいいことを彼らしい口調で喋っているだけの可能性もある。
でも、僕らのコンパスに並々ならぬ熱情が隠されているのは、真実だ。
「……ふむ。いったいどうして俺がこのコンパスと巡り会ったのか、知りたいか?」
また突然彼は言う。
実物のコンパスの存在には今日まで気づかなかったわけだが、こう気になるように聞き出されてしまっては、答えは決まっている。
もちろん、知りたい。
どんな経緯でそれは“宝物”となったのか、もっとジン──常盤甚一郎というひとりの友達を深く覗くために、頷いていた。
「うん、きかせてよ、ジン」
「フッ、却下だ」
「えええこの流れで!?じゃあなんで自分から質問したの!?」
「ハハ、ほんの冗談だ。聞かせるつもりはある。だが、俺の口からはこれ以上出ん。喋るのは──」
彼はコンパスをレザーケースにしまい、裁ち鋏や縫い糸をマントに戻して、窓ガラス越しに“前”を見つめた。
そこには、ある少女が海に釣り糸を垂らしている。
「──ノアだ」
「……ノアちゃんが?」
「フッ、ほら、行ってこい、ライト。元よりあいつに聞きたいこともあるんだろう?」
フウカが船の後部で釣りをしているのに対して、ノアはいつだってジンの目が届く前側にいた。釣り糸が絡まないようにする意味もあって、フウカとノアは会話しながら釣りすることはできないけれど、互いに集中しているのだからそれでもよかった。
僕は確かに、ここで釣りを始めてから……いや、今日、ジンの船で外に出るのが決まった時から、彼女に尋ねたいことがあった。
背中を押されるように、温かく見つめられ、そして僕は助手席から立ち上がって運転室の扉を開ける。
目指す先は、小さな背中の、その隣。
◇
「ね。ライト先輩って泳ぐの、得意?」
僕は釣り竿を持っていた。持たされていた。
ただ立ちながらその先に魚が食いつくのを待っている。
そう僕へ雑談のように話しかけたのは、横で即席の椅子に座って、バケツ内に入った多くの魚を次々と締めているノアだ。
「うーん、苦手じゃない、かなぁ。習い事とかはしてこなかったけど泳ぐのは好きだし、授業でも悪い評価はとったことないかも」
「おお。さすが。おにぃとは違う」
「ジン?海が苦手なのはさっき知ったけど……」
「苦手なんてもんじゃない。発狂」
「発狂!?」
「体の半分が水に浸かっただけで意識を失って沈む」
「お風呂はどうしてるの……?」
「気絶しながら入ってる」
「執念!?健康というか命に良くないよ!?」
「じゃあ、入ってない。シャワーも浴びてない」
「それは衛生的に終わっちゃったよ」
「大丈夫。濡れた布で拭いてる」
「水嫌いのペット?」
「そのあと乾布摩擦してる」
「なんでだよ。命に良いやつだよ」
「……ふふ、嘘つきすぎたけど、おにぃはほんと海がダメ」
ノアは口調に対してすごく喋るのが好きな子だ。大喜利みたいに捉えどころのない冗談をすらすら言って、だからこそ僕はこうしてあまり動きのない釣りをしながらも、心地よく笑っていられる。
「……じゃあ、ノアちゃんは?」
「ん、わたし?」
「そう、海は好き……なのはわかってるから、泳ぐのは得意?」
島に住む者であるから、海は密接に生活に関わってくる。そしてなおさらノアは、“釣り”というのを海の家の食材を助けるひとつの仕事にしているのだから海が嫌いなわけはなかった。
「……ううん。あんまり」
「あちゃ、そうなの?」
「おにぃほどじゃないけど、学校でも二十五メートル泳ぎ切ったことがないぐらい、できない」
彼女は順調に魚の息を止めながらも、少し落ち込むような声色になったのを僕は聞き逃さなかった。
そして、言葉を続ける。
「すぐ、沈んじゃう。……わたし、運動神経ないからそういうの、ぜんぶ向いてない。ほんとは、泳ぎたいのに」
僕はここで自警団の体力ランキングを思い返してみる。上位に位置するあり得ないほど活発な面々と、下位勢のテイラーとメアリのそもそも運動をしたくない寄りのインドア系。
そして、また下位に含まれるのは純粋に『運動したいのにできない』と嘆く、目の前のノアと、あとおそらくフウカだろう。
「ノアちゃんは、泳ぎたいの?」
「うん。泳ぎたい。沈むんじゃなくて、深く、“潜りたい”。だから、浮き輪も、ライフジャケットもなしで、泳げるようになりたい」
「……そっか。どうしてか、聞いてもいい?」
「理由は……、わたしが、海が好きだから、じゃ、だめ?」
僕はそれより大きな理由を知らなかった。
そっか、人が何かをしたいと思う衝動に、細かい動機は必要ない。
「だめなわけないよ」
「ふふ、そう。ありがとう」
まだ釣り竿に魚はかからない。
ゆっくりと流れる穏やかな時間の中で、僕は口を開こうとした。
なんて言おうとした?
それはたぶん、『泳ぎ方を教えようか?』という次なる遊びの提案だ。
いきなり海は難しいかもしれないけれど、ジンに言えばプールの場所を教えてくれたり、はたまた自分たちで作るところから始めてくれそうだから、彼女の願いを叶えるために僕はお節介にも勝手に行動しようとした。
だけど、そんな僕を遮るように、先に彼女は勇気を出して言葉を紡ぐ。
「ぁ、あっ、あのっ」
「……なぁに、ノアちゃん」
「わたしに、泳ぎを教えて、くれませんか……?」
その目を見た。
いつもより丁寧な口調で、緊張しているように頬は染まってるけど、その宝石のような瞳だけは真っ直ぐと僕を貫いていた。
あぁ、彼女の芯が強くて、相手の目をよく見るところは、その兄によく似ている。
僕は頼られたことが嬉しくて、自分に自信なんてこれからも持てないけど、でも精一杯頑張ってみようと、返事はすぐに出ていた。
「もちろん。明日、皆と一緒にやってみようか」
「……!“明日”っ。うんっ。約束、ね」
年齢としては一個下。学年は二個下だけれど、妹がいたらこんな感じなのかなって、僕は無邪気にはにかむ少女を素直に愛おしく思えた。
その顔をじっと、微笑ましく見つめていたら、僕はもうすっかり意識は釣り竿から離れていて。
突然、海から引っ張られる衝撃に体を揺さぶられる。
「──わっ!っと、かかった……っ!」
最初の油断のせいで、本格的に腰を入れても上手く力が伝わっている感じがしない。結構な大物。このまま僕の力が劣って噛みちぎって逃げられてしまいそうに思えた。
「や、ば……ッ」
バランスを崩しながらも踏ん張っている。
だけど、一人じゃもう限界だ。
「──ふたりなら、釣れる、よ」
耳元で甘い囁き声がした。長い髪からキャラメルのようなシャンプーの甘い香りがした。
僕が握るグリップを、上から被せるようにグローブをした小さな手のひらが添えられる。
それは当然、後ろで作業をしていたノア。
正直彼女一人いたところで、パワーにはなんの助けにもならない。けれど、数多もの魚を釣ってきたそのテクニックならば、僕の力の入り用も大きく変わって、釣り上げられるほどの“勇気”さえ貰えてしまった。
「よ、ッと!」
「っしょっ!」
力を合わせた僕らは、見事にその大物を僕らのフィールドに引き上げてこれた。
その魚種を確認するよりも前に、息が上がるほど短時間で体力を使った僕らは、互いに見つめあって、無事を見て、笑って、そして、喜びのハイタッチを交わす。
「やったね、ライト先輩っ」
「助けてくれてありがとう、ノアちゃん」
彼女はやっぱり釣りが、海が大好きだ。
こんなにも笑顔で喜んでくれる。普段の性格からは考えられないほど、飛び跳ねて、年相応に感情を出している。
そして僕は、太陽の光を受けて反射する、揺れた彼女の“胸元”へと視線が吸われた。
それは、銀のペンダント。
普段はつけていない、この遠征のためだけに身につけた、ペンダント。
美しくて綺麗、その意匠は『コンパス』を模っていた。
「……ねぇ、ノアちゃん」
「ん、なぁに?」
僕がずっと訊きたいと思っていたのは、それだ。
どうしてだろうと思ったけど、変に遠慮して、何も言えなかった。けど今、もうちょっとだけ仲良くなれた今なら聞ける気がした。
「そのネックレス、よく似合ってるね」
「え……、ん、……ふふ、ありがとう。うれしい」
まずはおしゃれをしている女の子に対して最初に言うべきことを。僕に言われたことを少し時間が経ってから理解して、そのコミュニケーションが正解だったように、彼女は笑った。
そして、ネックレスを両手で抱きしめ、目を瞑る。
「それはコンパス、だよね」
「うん。……これ、きになる?」
「ちょっと、ね」
「……そっ、か」
「あぁ、けどね。話したくなかったら全然大丈夫だよ。ほら、まずはこの魚を締めてからにしようか」
僕はいつだって過去について問うときに、逃げ道を与える選択を作る。それはもはや無意識で、いつからこれがクセになったかもわからない。
歯切れの悪い返事と考える素振りを見せたノアに、話を変えられるように、魚の口から針を外そうと僕は勝手に動き出す。
けれど、彼女は僕に、「ふはっ」と心の底から笑いかけて、その使い込まれたグローブ越しに服を引っ張った。
「ううん、逆。話したい。……締めるの手伝いながら、聞いてもらえる?」
僕はもう釣り竿を壁に立てかけていた。
彼女の手慣れた動きを見て学んで、そして時には指示に従って押さえ付けて。
細々と語る“昔話”に相槌を打つ。
「このコンパスはね。わたしの、宝物」
「宝物、ってジンも同じこといってたよ」
「……うん、おにぃも一緒。……これは、わたしの宝物の中でも、いちばん特別だから、自警団に入った時にもこれを選んだの」
自警団の入団試験といえば、僕とフウカに宣言させたように各々の“宝物”を見つけなければいけない。
ノアにとって、それは『僕にとっての風香』ぐらい大切なものなんだ。
「前に、おかーさんのこと、話したよね」
彼女はか細く、ゆっくりと言った。
僕はそれについて覚えている。その話をしたのは一度だけで、それもたったひとこと。深掘りすらしなかった。
八月一日。ノアと二度目に会った時、五年前の出来事──数日間も海から帰って来ない“母”の話をされた。
「……うん。話してたね」
「気づいてると思うけど、わたしたちのおかーさんはね。もう、この世にいないんだ」
ノアはついに言った。薄々勘付いていて、核心に迫る気もなかったのに、それを確定づけた。
宇宙飛行士らしい父の話しかジンから聞かされなかった。
八月六日、居場所のわからない者へ送る手紙にノアは二通出していた。
その他にも、ジンは両親がいるうちに家に帰れとか、明らかに意味を宿した言葉を告げていた。
最後まで知らないままでいようとしたけれど、それでも強く伝えてくれたノアと僕は向き合うのを決めた。
「これはね。おかーさんが、わたしにくれた、おかーさんの“宝物”」
「……そうなんだ。綺麗だね。それ」
僕はジンにも言った褒め言葉を、彼女のネックレスをよく見て伝える。
「でしょ。ちゃんと、磨いてるから。なくさないように。いつか返してあげられるように。いつもは持ち歩かないで家に置いてる」
「へぇ。じゃあ、どうして今日は持ってきているの?」
「……ふふ、いい質問。それは、わたしが海に出るから」
その通り、宝物は家に置いたままで保管していくのが普通だ。でも今日ばかりは持っていきたいわけがあったのだろう。
「これがあれば、千草島から離れても、帰って来れる」
「……だね。ジンと同じこといってる」
「ふふ、はずかしい。おにぃは他に何か言ってた?」
「ううん。俺の口からは出ないから、ノアちゃんから聞いてこいって」
彼女はふっと息を吐いて船の運転席の方を見た。
そこにはサングラスをかけて何故かドヤ顔して手を振るジンがいた。……そういえば全部見られてたんだった。
「他に話すことはないけど……、そうだ。わたしが泳ぎたい理由。おしえる」
「海が好きだから、以外に?」
「なんで海が好きなのか、をね」
もう血抜きは全部終わっていた。
新しく釣りもせず話に夢中になっている。
「おかーさんは海洋学者だった。釣りも趣味だけど、ダイビングが大好きだった。いっしょに潜ったりして、わたしたちによく語ってくれたの、海の底──深海の“ロマン”を」
彼女たちの母が、その宇宙飛行士の父とは対照的に海を探求しているのを知った。何かで聞いたことがある、地球の海の九十九パーセントは未開拓であると。
それは何よりも“ロマン”を大事にするジンの、親として似つかわしい性格だ。
「色とりどりのサンゴの森を見せてもらった」
「サンゴ……気になるなぁ」
「すっごく綺麗。おかーさんが、それをみて海洋学者を目指したぐらい」
「へぇ、ロマンチックだ」
「あとね、それに、いろんな貝とか、魚とかも捕まえてきて、おとーさんがそれを料理してパーティを開いてくれた」
「ふふ、楽しそうだね」
「うんっ、とっても楽しかった。でも、おかーさんは研究のために、潜水艦に乗って……たぶん、事故で、深海に取り残された」
「……っ。そっ、か……」
「あっ、ううん、そんな顔をしてほしくなくて。……えっと、だけど、だから、わたしはね。海を嫌いになりたくない、の」
海が好きな理由、それは驚くほどに単純で、そして最も切ない“愛”の動機。
「おかーさんは、海が好きだったから」
親が海によって殺されたのに、それでも海を好きでありたいと思うのは、彼女の相手を思える優しい性格だからこそで、尊ぶべき決意だった。
「おかーさんに少しでも近づくために、海に潜りたい。そして……、これを、返したい」
ノアは握りしめたコンパスのネックレスを、おもむろに外して僕へと改めて見せた。
やはり、何度見てもよく手入れが行き届いていて最高峰の銀色だった。
僕は当然、疑問に思う。
「お母さんから貰った“宝物”なのに、それを返すの?」
「うん。返し、たい」
「……後悔は、しない?」
「……しない。わたしは返すべきだから」
残酷なことだが、もうこの世にはいない人へ、遺品を返すことなんてできない。やろうとするべきじゃない。
しかしそれでも、彼女は言い切ってしまったのだから、僕としてはその背中を押してあげるしか、できなかった。
「わかった。改めて、言うよ。僕が泳ぎ方を教える」
「──!ほんと、ありがとう、ライト先輩」
「でも、交換条件ね」
「え……、うんっ、なんでもきて。わたしに任せて」
「ふふ、じゃあ今日の晩ご飯。とびっきりのお魚パーティを開いてよ。明日いっぱい動けるぐらいの」
「……ん、そんなの、元からやろうと思ってた。……他に、ない?わたし、ライト先輩になにかやってあげたい」
「あはは、ありがとう。でもいいよ。ぶっちゃけ美味しい料理なんてなくても、可愛いノアちゃんの笑顔さえあれば、僕はなんだって力になるから」
「か、かわ……、む、ずるいこと、言う」
「ずるいかなぁ。事実だからね」
「……、ほんと、変な人」
表情変化に乏しいようにみえても、肌の色はコロコロと変わって彼女はとても愛おしい。
これはジンがノアを溺愛する理由もわかるぐらいに、僕もただの兄目線のフィルターで、妹である彼女を覗いていた。
「……ねぇ、ライト先輩、もし、わたし──」
そうしてノアが続きの言葉を何か言おうと、口を開いた時に、船の反対側から大きな声が聞こえた。
「ライトーっ!きてーっ!」
フウカの声。きっと釣り竿に獲物がかかったんだ。
僕は無意識に足がそちらに向いて一歩を踏み出していた、けれど、瞬間、ノアには僕に伝えたい言葉があることを思い出して歩みを止める。
「……ううん、行ってきて、ライト先輩」
「そっか。……じゃあ、ほら、一緒に行くよっ」
「ぇ、わ、わっ!」
彼女は僕を送り出した。でも、寂しそうな表情が見ていられなくて、もうその作業は全て終わっていたから、空いているその手を強引に取って走り出す。
フウカの元へ。
今日は別々で取っていたけれど、出会った日のように三人で釣りをすれば、きっともっと面白いから。
防犯ブザーのくだりが好きです。




