八月九日(後)「お菓子の家を作ろう」
苦しい、苦しいよ。
喉が渇いた、お腹が空いた、甘いのがいい。
わたしは、電気もつけないカーテンも閉め切った暗い部屋で、すぐそばのベッドにも横にならないで、三角座りで俯いている。
「おと、うさん……おかあ、さん……っ」
おかしいな、昨日散々苦しんで、思い出して、泣き腫らしたのに、まだ涙が、言葉が止まらないよ。
一度寝たのに、この夢は覚めてくれないよ。
……いや、これは夢じゃないんだ。
わたしは、もう、あいされてなんていなかった。
おかしが甘くなくなってしまったから。
最初から、なにも甘くなんてなかった。
すべて嘘だった。偽りだった。わたしの食べる姿をみて、笑顔になってくれる人なんて誰もいなかった。わたしはどこかおかしかった。望まれてうまれてこなかった。だから、ふたりは消えてしまった。邪魔だったから。鈍臭いわたしなんていらなかった。あたまがよくないわたしなんていらなかった。ふたりと比べて絵を描く才能なんてなかった。あのペンも邪魔だったから押し付けた。あの絵画も売れなかったから置いていった。
全部、わたしのせいで、わたしのすきなあの『家』は壊れてしまった。
「あ、ぁああぁ、わたしは、だれからも………っ」
無意識のうちに言葉が漏れ出てしまった、けれど、また無意識のうちにその先の言葉を止めてしまった。
だって、それを言ってしまったら、わたしは、わたしじゃなくなってしまう。
そんなのは、こんなだめだめなわたしでも、唯一、そうだと認めたくないことだった。
そうかもしれないけど、でも、いやだ。
あいされていたい。
「……ぅぅ、なぎ、さぁ……」
名前を呼んだ。
わたしが最も安心する人の。愛する人の。大好きな人の。
どうしようもなくなった時に出てきた言葉が、彼だったのには驚くけど、でもその名前を呼んでも、もう二度とわたしの前に来てくれないことは知っていた。
「ごめん、ごめんねぇ……、なぎさぁ……」
昨日、逃げ出したわたしのところに来てくれたのに、『こないで』って言ってしまったから。
急に頭がいっぱいになって、思ってもないことをいってしまった。いったあと、すぐに謝ろうと思った。でも、言葉が何も出なくて、黙ったままだった。
それでも、その綺麗な顔をみたかったから、いつも起きたら目の前にある、困ったような笑い顔がみたかったから、わたしの寝癖をなおす、白い肌の、あたたかい指でなでられたかったから。
わたしはそっと、部屋の鍵だけあけて、待つしかできなかった。
それでも彼はやさしいから、あけてくれなくて、夜になるまでずっと扉の奥にいてくれたけど、ついにわたしを愛してくれなくなって、帰ってしまった。
全部、ぜんぶ、わたしのせい。
彼がわたしのまえからいなくなってしまったら、もう、誰も、わたしなんて───
「──茉里。ボクだよ」
「…………ぅぁっ」
足音がした、声がした。
わたしは顔を上げて、扉を見た。
だいすきなその人。いつもと呼び方はちがうけど、すごく優しくて良い声で、確かな温度を纏っていたから間違えることなんてなかった。
「開けて、いいかな?」
ドアノブに手をかけていた。何も言わなければこのまま入ってきてくれそうだった。
でも、わたしは臆病だから、つい口から言いたくもないことが漏れてしまう。
「だ、めぇ、こないでぇ……!わたし……、なぎさにきらわれる、そんなの、いやだからぁ……っ!」
もう既に手遅れかもしれない。でも、彼からだけはそんな軽蔑の目を向けられたくない。嫌いにならないで欲しい。
だから、開けないで。
だけど、そんな願いは届かずに。
わたしと同じ、臆病な彼は──扉を開けた。
「──茉里。ボクが君を嫌うことなんてあり得ない」
光が差した。
目が暗闇に慣れていたから、まぶしかった。
でも、それでも、目を開け続けていたいぐらい、きみは輝いていた。
「てい、らぁぁ……!」
テイラー。わたしの幼馴染が与えてくれた可愛い名前。
それを示すのは、髪のヘアピン、わたしが与えた、考えた、コンパスのバッジ。
彼はいつもみたいに困った笑みを浮かべて、わたしを覚ましてくれる。
「ボクは、ここにいる。そばにいる。ねぇ、それでもいい?」
彼は座り込むわたしに近づいてくれた。
そして背中まで包むように、両手で優しく抱きしめてくれた。
耳元で囁かれる、どこまでも、甘い言葉。
ずっと溺れていたくなるぐらいだったから、わたしはもう、ついに嘘もつけなくなって、いいたかったことが、がまんしていたことが、とまらなくなってしまった。
「そばに、いて……ぇ、わたしから、はなれないで、きえないで、わらって、かってに、いなく、ならないで、わたしを……あいしてよぉぉ……!」
言いたかった、あの日も。こんなことを感情をむき出しにして。でも、失ったものの大きさに気付く前に、おとうさんとおかあさんは、もう“二度と会えないところ”まで行ってしまったから。届かなかったんだ。
わたしの叫びを、テイラーは全身を使って受け止めて、やさしくつよく、抱きしめ続けてくれる。
「愛してる。君を。これは絶対嘘じゃないよ」
……あぁ、覚えてるなぁ。
わたしは、こうやって、抱きしめられてたなぁ。
いなくなる前だけじゃなくて、生まれた時から、わたしは毎日、抱きしめられてきたなぁ。
その温もりと、今が、すごく、似ているよ。
体温だけかな、強さだけかな、それとも、他の何かも同じなのかな。
そうだといいな。
だって、“この甘さ”は嘘じゃない。
そしたら、これとよく似た今までの“甘さ”だって──嘘じゃないんでしょ?
………
「茉里ちゃん、おちついた?」
どれくらい、彼の匂いが染み込んだ彼のシャツを鼻水で濡らしたのだろう。すする頻度が少なくなって、わたしの震えもおさまってきて、彼は抱きしめるのをやめて、わたしから離れた。
その時、いなくなってしまうんじゃないか、と「ぁ」と小さく呟いて手で空を掴んでしまったのに彼は気付いて、笑いながらそれを握ってくれた。
「大丈夫、茉里ちゃんのそばにボクはいるから」
「……ほんとぉ?」
「うん、ほんとだよ。……ねぇ、茉里ちゃん、来て欲しいところがあるんだ。手伝って欲しいことがあるんだ」
手で彼を確かめながら、わたしは立ち上がった。
テイラーがあまりにもまっすぐな目をして、わたしを導くから、それについていきたいと思った。
「お菓子の家を、作ろう」
でも、その口から、そう言われて、わたしはまた頭の奥が割れそうなほどに、痛く、熱くなっていく。
だって怖い。こわいよ、もう『甘い』と感じられなくなった。家は簡単にわたしの手で壊れてしまうと知った。そんなのから、目を逸らし続けていたかった。
それでも、わたしに向き合わせ続けるのが、わたしのバディ、テイラーだった。
「茉里ちゃんを愛しているのは、“ボク”、だけじゃない」
「……ぇ」
「“ボクら”だ。君の八人の、仲間たちだ」
そうだよ。
わたしにはいるよ。
おばあちゃんにもテイラーにも、負けないくらい、すっごく大好きで、わたしも“愛してる”みんなが。
わたしは、もう、顔を上げられた。
光の方へ、暗い闇から一歩を踏み出して、いま、先頭をゆく手を繋いだテイラーに引かれるように、わたしたちの『秘密基地』へ、向かい始める。
◇
「ライトー!みんなあつめてきたよ!完成したぁ?」
エデンⅣ、僕が一人で作業していた会議室にフウカは勢いよく扉を開けて飛び込んできた。
息は切れていたけれどその顔はとても気持ちよさそうに笑っていた。
壁の時計を見る、時刻は十時。いつもの活動開始時間だ。
「うん、完成したよ。走ってきてくれてありがとうフウカ。……それで、主役は?」
「ふふふー!テイくんがもう連れてきてますっ!あとは団長だけっ!」
彼はバディの手を引っ張って連れてこれたんだ。それならもう、やることは簡単だ。
僕が描いたこれを、いつも通り、この団の全員で笑いながらカタチにしていくだけ。
彼女の過去に何があったかはわからないけれど、ただこの『お菓子の家を作る』というイベントに、ありったけの“意味”を込めて。
「フハハッ!貴様ら、俺が帰ってきたぞ!」
フウカがしばらく僕の設計図をキラキラした瞳で眺めていたら、遠くで気持ちのいい笑い声が聞こえた。
これで全員揃った。「おかえり」と多様な声が聞こえる、その中には彼女もいた。
「……ね、フウカ。良いのを創ろうか」
「うんっ!誰が見ても忘れないぐらい、最高のモノを!」
僕らはこの部屋から出て、そして途方もない材料を贅沢に使う、夢のような計画を実行に移す。
◇
「お、フルメンバーじゃないか!これだけ人数がいれば今日中に終わるぞ!」
「へへ、本当は今日はちょっと配達が多かったんすけど、フウカちゃんが手伝ってくれてさくっと終われました!」
「ん、わたしも、フウカ先輩が手伝ってくれて、いっぱい釣れた」
「はい、そのおかげで海の家の営業でたくさん使えるぐらい魚が集まりました!今日の仕事は朝の立ち上げだけなので、もう存分にこっちに参加できますよ!」
隣でフウカは皆からの称賛を受けて「たいしたことはないよー」と言ってる割に頬を綻ばせながら喜んでいる。僕が任せた役割を彼女は立派に果たしたんだ。
「うむッ、オレも今日は遊び尽くしデイだ」
「なんですかそれ」
「ダイエットでいうチートデイの遊び版だが?」
「当たり前みたいな顔するなよ」
「ははッ、それでフウカ!これから何をするんだ?操舵手としてもうやることは決まっているんだろう?」
「ふふふっ、それはねー……メアリちゃんがどうぞ!」
どうして集められたのか知らないルークが真っ当の疑問を投げる。それに応えるのはフウカではなく、ずっと端の方で、テイラーの右手を握っている彼女だった。
「ほら、メアリちゃん」
話を突然ふられて、珍しくおどおどとした様子の彼女の背中を、テイラーは優しく押した。手を離して、そして一歩踏み出し彼女は望みを伝えた。
「え、えっとねぇ……!……み、みんなで、お菓子の家をつくらない……?」
そんなの誰も断るわけがない。
返事は決まっていた。
一致した答えに、全員が笑って、言った本人のメアリでさえも、きょとんとした顔のあとに、本当に幸せそうに、笑っていた。
◇
「二メートルって、大したことないと思ってたっすけど、思ったよりめちゃくちゃ高いっすね!?」
「横幅も狭いと思っていたが、普通にデカいな!これなら確かに『家』と呼べる!」
「ソロテントよりも大きいぐらいだし、余裕で中に入れるね!」
僕の計画書と構想を共有して、彼らは目を輝かせて興奮していた。夢のように思える話、やはりそれを咎めてくれるのはリアリズムのルカ。
「その分、とんでもないぐらいの材料使いますけどね……」
ただ、僕は勝算がなくてそれを書き出したわけじゃない。
「うん。これでクッキーの壁とかにしたら四方で八千枚ぐらいは必要だし、そもそも自重で割れてしまう。だから、素材はライスクリスピートリート──マシュマロで固めたシリアルにしよう」
昔、海外のテレビ番組か何かで見たのを覚えている。ライスシリアルとマシュマロを混ぜ合わせたモノはお菓子の巨大建築として適していると。
ただの思いつきだったが、ジンに相談してみれば、さすがの知識量で僕を肯定してくれた。
「あぁ。これは軽量で可塑性もある。接着にも秀でた素材だ。既製品ではなく材料さえあれば自分たちで作ることも容易。……ただ、それには結構な体力を使うが……」
三十キロ程度にも及ぶ材料らを、巨大な鍋で混ぜ合わせる必要がある。だが、僕らで体力勝負といえば、頼りになるのが二人もいた。
「ははッ、オレに任せろ。筋肉とは料理をするためにある」
たぶんちがうよ。
「あたしもやるっす!たぶん、こんなでっかい鍋使うの給食のおばちゃんになんなかったら一生ないっすよ!」
ルークとレインの担当はお菓子の家の壁担当として決まった。彼らなら不器用以外の要素ではなにも心配はない。
「それで、屋根は……、なるほど、ウエハースにチョコを塗るんだ」
「積み上げたあとに、一番軽いノアちゃんにやってもらいたいんだけど……いけるかな?」
「ん、任せて。わたし、コテの扱い、島の中で最強」
「そうなの!?」
「あぁ。我が妹はDIYに強い」
「ノアちゃんも兄に似て多才だね……?」
なぜかエデンの玩具箱にあった建築用のガチのコテを既に手にしていたノアがシュールだったが、そのやる気を買い、補佐役のルカと一緒に屋根係に任命する。
「それでボクらは何すればいい?ライトくん!」
すっかり、もう昨日とは違って指示役がジンから変わってしまった僕にテイラーはやることを求めていた。
彼には、彼らには、やらせたいことがあった。
「装飾をお願い、いけるかなテイラー。そしてメアリ」
誰よりもデザインセンスがなかったらその大役を任せられない。でも、もう僕らはそれを昨日の段階で思い知ったから、再び、彼女に任せたんだ。
「……!うん!わたし、がんばるよぉ〜!」
まだ少し元気はなくて落ち着いているけれど、鬱屈とした雰囲気はもう彼女の顔には見られなかった。
この子と完成させるんだ。
そして、言おう。テイラーだけじゃなくて僕にも伝えたいことがあるから、君が「甘い」と言ってくれた時、それを心に残してあげたい。
「ライトー!私はなにする!?」
「フウカは僕と一緒に皆の手伝いをしようか」
「やるやる!なんでも手伝うよー!」
「ふむ、なら俺の役割も決めてくれ」
「え……?うーん……」
「そこで踊っててください」
「おい勝手に決めるなルカ」
「へぇ、踊ってみる?」
「踊るわけないだろう!?なんだ!?俺はライトにも除け者にされるのか!?」
ジンが今まで全てにおいてのリーダーだったから、そんな彼に指示を出すのに躊躇した。こんな曖昧なモノでもいいのかと。
それでもルカがいつものように場を和ませてくれたから、頼られていることを自覚して、ジンにも指示を出す。
「ふふっ、冗談冗談っ。じゃあジンも僕についてきて、足りないところの補佐をしようか」
「了解した。フッ、腕が鳴る。コリコリコリコリ」
「うわキモ!腕が鳴ってますこいつ!」
腕ってそんなんだっけ?
「くそ、さすがボスだぜ。腕はオレも鍛えてるのにそんな音鳴ったことないぞ……」
「口で喋ってるだけだから、たぶんルークも真似できるんじゃない?」
「コリコリコリコリ」
「うおー!ルークくんもできたねー!」
「ん、ポージングだけ決めて口だけ動いてるの怖い」
「なんでこんな意味のわからないバカがふたりもいるんすか?」
あぁこれも、いつも通りの僕らの会話だ。
その輪に包まれる君を見た。
耐えきれなくて、君は、いつもの笑顔で吹き出していた。
「あははっ!ふたりとも、なにそれぇ〜……!」
これから、長い長い、九人の工作が始まる。
◇
夕暮れ。
午後六時、エデンにて。
冷房が効き、ブルーシートも引いて衛生観念にも気も使ったその場所に、『家』と呼ぶには小さすぎるかもしれないけれど、『お菓子』と呼ぶには大きすぎる、それが建っていた。
誰がこの光景を見たことがある?
きっと、夢見たことはあるにせよ、これを実行に移してやり遂げたことは、誰も成し得たことのない奇跡に違いない。
僕らはそれを叶えるため、かけがえのない九人で手を取り合ったんだ。
「ライトー!こっちの飾り終わったよ!」
「フッ、此方も完璧。食すには惜しい混沌だ」
お菓子の家の両サイドから業務用のホイップクリームを携えた二人が僕の元へ寄ってくる。
さぁ、あとは一箇所。
そこが終われば、この長い遊びは遂げられる。
皆が、その後ろ姿を見守って、報告を待っていた。
「──できたよ〜!みんなぁ!」
メアリの声。それは最後に残った作業、お菓子の家のドアノブをラスクのように固めたフランスパンの端切をくっつけて、気持ちよく届けられた。
晴れやかなその笑顔に、ずっとそばで作業を支えていたテイラーがまずハイタッチを交わして、そして、他の皆が寄り合って喜びを共有する。
「あぁ、本当に綺麗だねぇ……」
存分に元気な様子でその完成したお菓子の家を見終わった後、彼女は小さく、本当に心から、そう呟いた。
その細まった視線の先は目の前の実物だけじゃなくて、どこか、遠い過去の何かを眺めているように思えた。
そして、彼女は手を伸ばす。ずっと確かめたかったモノを掴むように、手繰り寄せるように。
でも彼女はそれを怖がるように、途中で諦めてしまったから、僕は言った。
「メアリ。扉を開けて」
「………ぇ」
僕の方を振り向いて、微かな声を漏らす。
彼女がそう躊躇するのは無理もなくて、昨日自分がその行為をしてしまったから、あの家は壊れてしまった。
その“過去”は僕らがどれだけ励ましても依然として残り続けるから、その過ちをなかったことにはできない。
だから、過去は“掻き消す”んじゃなくて、“乗り越える”ものだということを、伝えたかったんだ。
そして僕に、それが未来を向くために必要なことであると、教えて欲しかったんだ。
「……うん」
僕は、僕らは何も言わない。彼女は背中に八人分の想いを受け歩き始める。
ついに自分がつけたドアノブに触れて、握った。
僕とジンが本気で考えて、お菓子で蝶番まで作って、滑りのために油もさして、強度を高めたクッキーの扉。皆で積み上げた堅牢な砂糖の壁。誰の悲しみの雨だって受け止めるチョコの屋根。
ゆっくりと力を込めて、進めば、開く。大丈夫。
──それは、人が入ったぐらいじゃ、壊れやしない。
「っ……!これが、わたしたちの、お家……!」
家はいつまでもそこにある。温かく人を迎えてくれる。そんなのは、誰か一人のせいで崩れたりはしないんだ。崩れたとしても、全員で直せばいいんだ。
口に手を当て、震えている。
でも、まだ、彼女が乗り越えるべきことは残っていた。
「ねぇ、食べてみて」
僕は開かれたドアを指差した。
それはクッキー製、確かに硬いけれど、少し力を入れれば簡単に一箇所だけを砕いて手に取れる。
「……わたし、もし、これを、食べて………」
彼女は躊躇っている。だけど、その背中を何も言わずにさすった彼がいた。
テイラー。
僕にはその柔らかい瞳がなんと伝えたか分からないけれど、メアリにはわかったみたいだった。
「……うん、食べるねぇ……っ」
足は動いた。もう誰の手も必要なかった。
君は、震えながらも歩み出して、そしてお菓子を、自らの意志で口に運ぶ。
「──!」
君は気付いた。
君が、昼から何も食べずに動いていたのは、失ってしまったことを自覚するのが怖かったから。
しかし、君は最初から、失ってなどいなかったんだ。
「あまい……っ、あまいよぉ……っ!みんなぁっ!」
しょっぱい涙と甘い砂糖。
顔を汚しながらも、そんな立派な表情で僕らで作った夢のお菓子を食べている。
『甘い』ひとつに、君はどんな感情をどれだけ重ねているのだろう。
叶うならそれが全部、幸せな意味であり続ければいい。
僕らは彼女をみて笑っていた。
◇
「はーい!みんなこっちみてねー!」
エデン。
彼が全員の注目を浴びて何かを操作している。
「よしっ!タイマースタート!」
それは思い出を、記憶を、甘さを切り取るカメラ。
目的は僕らの集合写真。
背景はもちろんお菓子の家を。
そして中心には僕らの食いしん坊を。
「フッ、テイラー!早く隣に来い!」
「ん、こっちきて、テイラー先輩」
撮影係を担うテイラーは猶予を設けて、すでに固まっていた僕らに走り寄ってきていた。昨日よりも人数が多くて、というか、皆が皆互いに近すぎるぐらいにくっつきあって、彼が入り込む場所が少なかった。
ジンとノアがそのお隣を指差すけれど、最終的に、彼は一番彼らしい場所に収まる。
「テイラーぁ!こっち〜!」
「わぁっ!ちょ、メアリちゃん!?」
中心の彼女は、有無を言わさずテイラーの手を取って引き寄せ、抱きしめた。それは愛を全身で表現するように。彼の定位置は『わたしの隣である』と示すように。
彼はそれに頬が一気に火照るぐらい動揺していれば、無慈悲にもそしてそのままシャッターが切られていた。
「フッ、見ろテイラー!貴様そもそも半目以前に一度もカメラ目線ではないじゃないか!」
「あんな引き寄せられたらそうなっちゃうよ!?あと昨日の半目すごい気にしてる!?」
「フハハ、どうだかな。さ、エデンのアルバムに入れるぞー」
「絶対気にしてる!えー……もう一回撮り直していい?」
「ダメだ」
「ダメかぁ」
「……そうですよテイラー。これよりいい写真は撮れませんから」
「あははっ、そうっすね!これが一番わたしたちらしいっすよ!」
「うん。テイラー、これにしよぉ?」
「……わかったよ。大事にアルバムに入れておくね」
写真撮影は終わり、そしてもうすぐ今日も終わる。全員が幸せな雰囲気の中にあり、まだこの場で話していたいという気持ちを共有していた時。
隣のフウカと、笑顔に変わったメアリを見比べて、僕は言わなきゃいけないと思った。
「──さぁ。全部、壊そうか」
僕の言葉は残酷だろうか。少なくとも、メアリにとってはそれが人の心などない言葉に映るだろう。
しかし、これは全く悲観的なことなんかじゃない。
「え、そ、それは嫌だよ〜……、せっかくみんなでつくったしぃ……!」
「だがな、メアリ。いくら室内のエデンとはいえ、これはお菓子なのだからいつかは腐るぞ」
「そう、だけど……ぉ、でも、なんとかして──」
彼女は怖がっている。こうして笑顔に戻れたそれが、結局また壊されて仕舞えば、全て元に戻ってしまうのではないかということに。
『甘い』という情報を、一過性のものとして、捉えている。
僕は、理由もわからないけど、それだけは言いたいことがあった。
「ねぇメアリ」
「ライト、くん〜……?」
「もう一度聞かせてよ。君にとって、お絵描きってどんな行為なんだっけ」
八月三日、写生大会の時に覗いた彼女の心。
僕はそれを覚えている。……あぁ伝えたかった理由は今わかった。彼女がくれた言葉を、僕は返したかったんだ。
「“世界をカタチで捉える”行為……。“意味”を見出して、ひとつのモノに想いを重ねる……、一度だって、同じ世界はないから、それでも日々を抱きしめられるように」
これは彼女の親の言葉だっけ。
きっと、これは、お絵描きだけに言えることじゃない。
「そうだね。じゃあ、お菓子の家を作ったことも、きっと同じだ」
僕は、ザラついたお菓子の壁をなぞって、甘い砂糖の匂いを吸い込んで彼女の目を見続ける。
「僕らはこのお菓子に“意味”を込めたよ。触れられるカタチにしたよ。それはいつかはなくなるけど、でも、味も匂いも思い出も、全て忘れ去ってしまう日なんてこない。僕らはこれだけで、その日々を抱きしめ続けられる」
僕は、信じる。
僕らが生きてきた中で経験してきたすべての出来事という“過去”は、決して“なくなる”ことはない。たとえ記憶には覚えていなくとも、体を、心を構成する要素にそれらは絶対に含まれているから、たとえどれだけ大人になっても、僕は“君”をなかったことにして生きていくことなんてできずに、背負い続ける必要があるんだ。
「……お絵描きと違って、カタチにしてもなくなっちゃうけど、それだけでいいの〜……?」
「それだけで十分。その行為は、世界の誰かの心に刻まれていれば、紛れもない、真実だ。──『甘い』と思った感情だけは、自分にも変えられない、真実なんだ」
なぜこんなことをいったのかなんて、勢い以外の何者でもないけど、あの時取り乱した君の顔がまるで世界の全てが嘘だらけのように見えていたようだったから。
僕もかつて、そんなのに陥って、それでも抱え込んで生きていかなきゃいかないと理解したのを、せめて前向きに、伝えたかった。
「……っ!うんっ!あの、甘さは、この甘さはっ、どうしようもないほど、“真実”なんだねぇっ!」
よかった、それは彼女に届いた。具体的な過去は一切わからないけれど、僕は現在の彼女だけじゃなくて、過去の彼女にもそっと背中を支える言葉を贈ることができたんだ。
夕日はしばらく経てば完全に沈む。
大量に作ったお菓子の家は、当然今日だけで食えやできないし、おそらく明日も、明後日も解決には現実的な量じゃない。だからちゃんと小分けのためにタッパーに入れて、常温保存ができないものは冷蔵庫に突っ込んで、僕らの思い出の『甘さ』を最大限に味わい尽くそう。
家は崩れても、それはずっと、僕らの心に遺り続ける。
メアリ√、了。
重たい話でしたが、最後は甘く、スッキリして終われたと思います。
彼らにバッドエンドは似合いませんから。
次の話は誰でしょうか。




