八月七日(前)「手紙を届けよう」
暑くも、寒くもない、過ごしやすいちょうどいい温度。
アルコールの匂い、雑音もきこえない。
ここは朧げな、夢の中の“病院”だ。
『──。ようやくお前と二人っきりになれたな』
“僕”の名前を呼んだ、かつて大きかったけど、今はこんなに小さくなってしまったあなた。
持ち前の豪快さなんてどこかに消え失せたみたいに、でも声の優しさだけは残ってるみたいに、知ってる笑顔であなたは言った。
『ワシはもう、長くない』
『……いや、いやだよ、あたし、じいじがいなくなるなんて!そんなことっ、いわないで!』
“僕”はみっともなく叫んでる。心がどうしようもなく、締め付けられるようで、苦しくて痛かった。言葉を吐き出してもそれは変わらなかった。
『ガハハッ、それぐらいお前はワシを思ってくれとったんか、嬉しいなあ』
『あたり、まえだよ!だって、じいじはあたしのおじいちゃんで、そして……』
どこまで喚いても、その病床で横たわるその人は穏やかな顔をしていて、そして“僕”の言葉の続きを遮った。
『もう、いうな。言わなくても伝わっとる。お前はワシのたったひとりの最愛の孫なんだから』
“最愛の”なんて言葉にどうしようもなく嬉しく思えてしまって、小さくなるその人の声を静かに聞くことにした。
『……なぁ、仕事は好きか?』
『……うん、だいすき。とうさんの付き添いは大変だけど、楽しい』
『ハッハッハ、それならいい。ワシもあの仕事が好きなんだ』
『……でも、もう、できないよ、あたし』
“僕”はどこまでも深いところまで沈んでいく気分だった。
『だって、あたし、ひとりだから。まだ高校生じゃないし、買ってもらった、あの原付にも乗れない』
『ほう?そんなの乗れなくたって仕事はできるだろう。お前の父さんもついてる。それに、お前はずっとワシと一緒に働いたんだ。いまさら年齢なんて関係ない、ひとりでできるではないか』
最愛の人が、そんなことを言った。“僕”はそれが、なんだか苦しくて、怒りを覚えてきて、こんなこと言うはずなかったのに、つい口から大きな声が出てしまう。
『……ない、……きない。できないよっ!あたしひとりじゃっ、なんにも……ッ!』
いかないでほしかった、それだけだった。
そんな“僕”をみても、まだあなたは笑っていた。
『……ハハ、お前はまだまだ子供だなぁ』
『そう、だよ!あたしはまだ子供だよ!だから……だからぁ……っ』
『──。こっちへこい』
感情がおかしくなって、頭が痛い“僕”を優しく手招いた。それに従うまま近づけば、あなたは僕の頭を抱きしめて、言葉を残して落ち着かせた。
『約束しただろう、お前が“大人”になるまで、ワシがそばにいると。それは嘘だと思うか?』
数年前、かつて憧れたその背中にそう言われて、“僕”は舞い上がるほど嬉しかったんだ。
『……ううん』
『そうだろう?お前のじいじは嘘をつかん。お前が“大人”になるまでそばにいる、だがそれは肉体じゃない、魂だ』
『……?たましい?』
もうほとんど体を動かせないあなたは、力を振り絞って、近くの棚に置かれていた一枚の封筒を手繰り寄せた。
そして、それを抱きしめ続ける“僕”と共に力を込めて目を瞑る。
『……さあ、これでワシの魂はその“手紙”に入った。これは、お前のもんだ。どうやってもいい。だが、約束してくれ。これを開くのは、お前が“大人”になった時だと』
“僕”はその封筒を見つめる。とても綺麗で純白な新品。渡ったそれを、体温があるそれを、あなたからもらった手紙バッグの底に大事に大事に仕舞う。
まるで、共に仕事ができるように、お守りとして。
『強く、なれ。強くなれ、──。お前はお前らしく生きるんだ。そして、お前が、ワシの“魂”を受け取った時、ワシにお前自身の“魂”を運んでくれ。なるべく、いろんなものを見てきた魂の方がいい。なるべく、いろんな感情を抱えてきた魂の方がいい。なぁ、“大人”になったお前なら、できるだろう?』
“僕”はそこまで賢くないから、いつも難しい話はできない、けど、今だけはよくその言葉が聞こえた、理解できた。“僕”はこのとき“使命”をもらったんだと、理解した。
『……できる、あたしは、一人前の、大人になる』
『ハッハッハ!そうだ、お前はできる、できるんだ』
『でも、魂なんて、どこに返せばいいの……』
『それは、自分の頭で考えないとな。ひとりじゃなくても、誰かと共に考えたっていい。だってなあ、……お前、ワシらの仕事の信条は言えるか?』
手紙を運ぶ“僕ら”のモットー、それは何度聞いたかわからないし、何度できるわけがないと思った。でもその度にあなたは、本当に成し遂げられるようにおまじないのようにそらんじてきた。
声が、重なった。
『『“どんな場所にも想いを届ける”』』
どんな場所でも。それは海の中でも空の上でも。
そして、死んでしまったあなたがいる、その世界にも。
……どんどん、視界が色褪せていく。
これは夢か。なんだか、不思議な気分だった。
苦しくて、胸が痛かった。
でもこれは塞ぎたくなる“暗闇”の嫌な夢じゃなくて、忘れてはいけない希望への夢だった。
覚めていく。
これもきっと僕は忘れてしまう。
それでもずっと覚えていよう。
他ならぬ僕が手にした感情を。
『約束』を叶えたいと、叶えさせてあげたいと、願った想いを。
◇
午前四時半、いつもの縁側。
僕はそこに一刻前からひとりで座っていた。
隣にペンと消しゴムが放り出されていて、そして僕の手の中には一枚の、文字がびっしりと詰まった紙が握られている。
「……完成、した」
僕の声。僕は書き切ったんだ。あなた宛の文章を。
どうして今更そんなことをしたの、なんて聞かれてもわからない。
ただ昨日の彼女の話を聞いて、そうしなければいけないと思ったから。
もう忘れてしまった夢が、そうしろ、って背中を押したように思えたから。
「……んー、……っえ、あ、あれ?まこと……!?」
達成感を覚えながらその手紙を封に詰めていたら、彼女は起きてきていた。
「おはよう、風香」
「お、おはよう!今日ははやいね……?」
「うん円海さんにもいわれたよ。やることがあったから」
風香より起きるのが早かったのは初めてかもしれない。
もうすっかり頭が覚醒している僕に対して、彼女は寝ぼけたようなままで、ぼやっとした表情で僕の隣に座り始めた。
「やることー……?」
「うん。風香、僕が昨日頼んだことは考えてくれた?」
昨夜、帰ってから僕が彼女だけに頼んだこと。
僕自身、どうすれば形になるのかさえ分からない、突拍子もないお願いだった。だけど、風香の誰よりも自由で優しい感性なら、僕の想像を遥かに超える答えを引っ張ってきてくれるんじゃないかって、信じていた。風香はそれを思い出して、親指を立てる。
「もっちろん!面白そうなアイディアが思いついたよ!作るのは大変そうだけどっ……!」
彼女は企んでいることが実現できたらとても面白そうにくふふと笑って同じ朝焼けを目にした。
「でも、どうしてそんなこといきなり頼んだのー?」
「ふふ、それはまだ秘密。ありがとう風香。……ね、それは置いといてさ、今日はどんな夢みたの?」
感謝を伝えて、僕はまた追って彼女に話そうと、話を変えるため、夢日記を毎日つけるというそれについて尋ねることにした。
「夢……、んー、今日はなんだか悲しい夢、だった、かな。苦しくて、辛かった」
風香は目線を逸らし、とてもわかりやすい顔で落ち込んだ表情を作る。
僕はそんな顔をしてほしくないし、そんな夢を見ていてほしくない。彼女に似合うのは幸せな夢だけ、と彼女に左手に触れて言った。
今日は朝から忙しくなる。
「そっか。……さぁ、準備はいい?」
「??準備ー?」
彼女は困惑してるけれど、それでも僕の言葉で目が醒めるようにこれからの“遊び”に目をキラキラと輝かせた。
「──運び人のお仕事を手伝うんだよ、皆で」
無線機のボタンに手をかけて、そして僕は自警団員を招集する。
◇
「ほう!貴様ら、よくぞこんな早朝に集まってくれたッ!フルメンバーとは、俺も鼻が高い!」
「ううう、朝からその大きな声は頭に響くぅ……」
「ははッ、筋肉には朝焼けがよく似合うな!」
「ルーク……灯台から走ってきて元気満々だね……」
「テイラーは元気ないねえ?あーっ、もしかして昨日もゲームで夜更かししてたでしょ〜?」
「ん、絶対そう。テイラー先輩ずっとオンラインなってた」
まだ一般人は起き始めずに、鳥だけがぴよぴよと囀る時間、僕ら九人は街中、ある建物の前に集合していた。
全員が指示通り、動きやすい服装に着替えている。
これは昨夜、決めたこと。
知らないのはフウカと、そしてもうひとり。
「な、なんでみんな、ここにいるんっすか!?」
車庫からバイク──クモちゃんを取り出して、その荷台の箱いっぱいに物を詰めたレインだ。
「なんでって、なぁ、ライト」
「うん、僕らでレインの仕事を手伝うために来たに決まってる」
「え、えええ!?なんすかそれ!決まってないっすよ!だいたいいつ決めたんすか!そんなことしていいんすか!そもそもうちの父さんが……」
自信満々に言い退けた僕にまだ変わらず、レインは困惑していた。
無理はないけど、もう決めたこと。
昨夜、僕はどうしても“やりたいこと”があったから、ジンに電話で相談していた。
彼は全てを見透かしているかのように、僕の言葉に全く疑問を思わず、ただ背中を押してくれた。そんなジンが僕の話を聞いて提案したのが、この早朝のイベント。
他のメンバーが午後のバイトに行ってしまう前に、メンバー全員でその“やりたいこと”を叶えるために時間を作る。
それなら朝に頑張る働き者の少女の仕事を手伝ってあげればいいと、ジンは単純明快に言った。
「案ずるな。貴様の親父さんには既に伝えている」
「えええ!?用意周到!?そういえば出かける前にニヤッと笑われたっす!?」
「そ〜そ〜!だから観念するのだあ」
「ほらレインちゃん。私たちに荷物分けてください」
ルークが一番に行動して、有無を言わせず、彼女のバイクから荷物を丁寧に取り上げた。
誰も彼も、邪魔したいわけじゃない。どこまでも真剣に手伝いたいと思っていて、無礼を働くことなんてしない。
そうレインは知っていたから、もう抵抗することはなかった。
「……いいんすか?こんなこと」
「うん。良いんだよ、レイン」
「ライトくん……、でも、いきなりどうして?」
騒がしくなってくる、彼らに紛れて、僕らは二人っきりで話をした。
理由を聞かれたら答えないわけにはいかないな。
「僕が君にお願いしたい依頼があるから、かな」
頭の中はハテナでいっぱいだろう。
彼女に届けて欲しい手紙がある。だから時間を作ったんだ。
「さぁ、レインッ!貴様はいつも何時間で配達を終えている!」
「うぇ、えっと……五時から始めて八時前には終わるっす!」
突然のリーダーからの言葉に、彼女は反射で答えた。
そして彼は豪快に宣言する。
「ほう、ならば今日は三十分で終わらせるぞ!」
「さんじゅ……!?それは無理っすよ!島の反対側まで行かなきゃなんすから……」
「いいや、可能だッ!レイン!」
「ルークのその根拠はどこから………ってえええ!?なにクラウチングスタートの構えしてんすか!?」
「走るからに決まっている!自警団最速は今はレインの座だが、オレは虎視眈々とそれを狙い続けているからな!」
「……ルーク……、もう、いつも通りっすね」
心配事は全部筋肉が解決すると信じてやまないバディに、彼女の表情は綻んでいた。
僕らならできる。仲間がこんなにいるのだから、仕事なんてすぐに終わる。そして、僕らの司令塔が指示を出す。
「宅配場所の最速ルートをそれぞれの端末に送った。各自それを確認しろ」
「い、いつのまに作ったんっすか!?」
「……おお、ありがと、ジン。私の荷物は近いね」
「ん、わたしもすぐそこ」
「ボクはあの奥の港あたりか。ジンくんに自転車持ってくるように言われてよかったよ」
彼は今日運ぶ荷物を予め全て確認した上で、それぞれのメンバーの体力と保持している移動手段、荷物の重さまで考慮して緻密に計画を組み立てていた。
「ふふふっ、じゃあ今日の予定は決まりだねっ!」
皆がそれぞれの道に分かれる手前。操舵手は大きな声で場をまとめあげた。
「──荷物を運ぶぞー!」
◇
「ほ、ほんとに、おわっちゃったっす……」
三十分後、彼女は千草急便の本部前で、バイクから降りて立ち尽くしていた。
先ほどその中に入って配達記録を示す紙が、今日の配達リストの人数分ぴったりと徴収されていることを確認した。
「な。言っただろうッ、出来ると!」
その彼女の背後から声をかけたのは、ルークだった。彼はこの助っ人のうちの誰よりも体力があって、人一倍多いタスクを完璧にこなし、最も早くこの場所に到着してバディを待っていた。
「フッ、我の予言通りだ。時刻は言霊に従う」
「いやぁ、さすがに疲れたね……。大丈夫?レインちゃん」
そしてこの場にはテイラーとジンの男たちがいた。
女性陣はレインを除き、もう先に別の場所に行かせて、準備をしてもらっている。
僕はじっと空を見ている彼女に近づいて、僕のカバンから水筒を取り出して受け取らせた。
「はい、水飲んで。レイン」
「……ふはっ、へへ、あざっす、ありがたく飲ませてもらうっす」
素直な彼女はやはり良い笑顔で笑う。
僕らもそれを見て笑って、彼女を巻き込んでハイタッチを交わし仕事の達成を喧しく祝ったんだ。
「さ。行こうか」
「……?行くって、どこにっすか?」
仕事は終えた。だから、僕たちはいつもの場所にいつもより早く集まる。
「我らがエデンだ。なんだ、そんな驚いた顔をするな」
「そうそう。結局アジトに行くからメアリちゃんたちはそこで待ってるんだよ」
「あぁッ!早く行くぞ!もう昼になってしまう!」
「いやまだ朝にもなってない時間だよ……」
ジンとルークはストレッチをして全力疾走の構え。テイラーは自転車に跨って暇そうにペダルを逆回転させている。
「ふははッ、ボス!オレと勝負だ!どっちが速く天文台に辿り着けるかッ!!」
「いいだろうルーク。……ククク、貴様と再び走力で競うのは何年振りか!昔日より幾分か鍛錬されたその実力をせいぜい我に魅せつけてみろ!」
「もっと簡単な言葉で話してくれ!」
もっと頑張ってくれ。
「俺が勝つ!貴様が負ける!」
「うおおおそんなことさせえええんッ!」
気合いが入る二人。その外輪から目を輝かせてテイラーが解説を入れてくれる。
「うわあ!すごい!ルークとジンくんが戦うの二年ぶりじゃない!?テンション上がってきた!ドリームマッチを見てるみたいだ!」
テイラーって案外子供っぽい?
「千草島四周タイマンフルマラソンでジンくんが勝ったのが懐かしいよ!」
42.195キロを一対一で?
「あれからオレは敗北の悔しさを胸に刻み、クランチ、スロースクワット、腕立て伏せに励んだんだッ!」
全部足に効いてなくない?
「フッ、勝敗は決まっている、といいたいところだが、瞬発力勝負ならわからんな」
「あー……持久力っていうかルークはペース配分とか少しでも頭使う要素になると激弱になるからね」
「知恵熱のせいだな」
知恵熱ってそんなやつじゃないよ。乳幼児がかかるやつだよ。
「テイラー、お前は俺とルークの勝負の審判だ。自転車で先導しろ」
「うんっ!二人に追いつかれないようにボクもがんばるよ!」
「ハハッ!もし追いつかれても気負うな!オレが抱えてゴールまで必ず連れて行ってやる!」
「おおっと!ルークが頼もしいポイント先制獲得だ!」
なんだそれ。
「くそッ、それなら俺はテイラーを試合開始から最後まで両腕で抱き抱えて貴様に勝とう!」
なんだよそれ。
「嬉しいけど、負けたらボクのせいにされたくないからそれはダメ!二人の真剣勝負、ボクが見届けるよ!」
「はッ、フラれたなボス」
「くそおおおおおテイラァァァ!」
「そんなに泣き叫んでくれるのジンくん……!?」
とんとん拍子に進んで、もうすぐ試合開始とまでの雰囲気になっている中、隣のレインは未だ何も言わずに、その様子を見て静かだった。
それは、こんなに可笑しいのを目の当たりにして、無表情なわけなくて。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、笑いを堪えるような、喜びの顔だった。
「なぁ、レインも来るか?オレたちの勝負に」
どこまでもいつもと変わらぬバカさの末に、彼女のバディは寄り添っていた。
何かある、っていうのはルークは気づいていないかもしれないけど、それでもそのアホの代名詞がそばにいるのは彼女が笑い続けられる理由だと思う。
「……んー!走るのも悪くないっすけど……、ライトくんはどうするっすか?」
こちらを振り向いて、僕の目を見つめた。
「え、僕?まぁちょっと疲れちゃったし、乗り物もないから歩こうかなって思ってたけど……」
「それならあたしも歩くっす!ルーク、一緒に走るのはまた今度!先いっててください!」
僕の言葉を聞いてすぐに彼女は反応して、騒がしい男たちを見送る判断をする。
彼らはそれにただ親指のジェスチャーで返して、テイラーの号令と共に颯爽と走り去ってしまった。
「……わぁ、早いね二人とも」
「へへ、ふたりともいつも体力勝負には全力っすからねぇ」
もう見えなくなるまで飛ばした彼らを、僕らは止まったまま感想を溢した。
実を言うと、レインが走らないのは意外だった。
エデンのルームランナーは彼女が提案して購入したものであるぐらい走るのは好きだし、彼女は自警団最速。走りでも原付でも、あの二人を追い抜くぐらいはしそうだった。
でも、僕は彼女に話したいことがあったから、隣を歩いてくれるのは都合が良かったんだ。
それはおそらく、彼女も僕に話したいことがあったのかもしれないけど。
「……さ、歩き出そう。昼にならないうちに」
「ふははっ、まだ、朝にもなってないっすよ」
さっき聞いたようなことを言って、僕らはゆっくりと、僕らの楽園へと向かう。
◇
「それで、ライトくん。あたしに依頼、ってなんなんすか?」
今日の配達のことだとか、雨が上がってまた快晴になった天気のことだとか、軽く世間話をしてから彼女は僕に本題を切り出した。
「そうだね。……もう言ってもいいんだけどさ、その前にレイン。先に聞きたいことがあるんだ」
依頼をすることはもう変わらない。けれど、僕は彼女の心の奥底をやっぱり知りたいと思った。
「死んだ人はどこにいると思う?」
哲学的な問い。それに答えはないし、僕だって、誰かの意見でコロコロ変わってしまうほど、確固たるものはない。だが、一つ決まっているのはある。
「……そんなの、わかんないっすよ。天国かもしれないし、まだあたしの知らないこの世界のどこかにいるかもしれない」
「そうだね。僕もわからないや」
「ええ?なんすかライトくん?」
「──でもさ、“どこか”には絶対いるよね」
もうその人には僕は会えない。
けど、その人はいなくなったわけじゃない。
僕が知覚できない世界に行ってしまっただけ。
そう僕が、大切なものを失った僕らが、そんな幻想を信じてしまうのは、あれだけ頑張った“死者”がどの世界にも居場所をなくしてしまうのがあまりに報われないと思うから。
「……はいっす。そう、っす。“どこか”には絶対います」
彼女も同じことを信じてくれた。
僕は、それが聞きたかった。
「よし、それじゃあ、依頼だよ、レイン」
携帯していたバッグから、今朝書き上げたばかりの、誰にも見せていない一通の封筒を取り出した。そして、立ち止まって、そのまま彼女の両手にそれを渡す。
彼女はいろんなことが言いたいような表情だったけれど、強引な僕に、抵抗することもなくただ手紙──ソウルを受け取ってくれた。
「これは僕の魂。それを届けてくれないかな」
誰宛かは言わなくてもわかるだろう。その人について、話せることは昨日言った。だからレインは僕のその行動について驚くほどに目を見開いた。
「ぇ、だ、だって、ライトくんは、らいとくんの親友は」
彼女は僕が書き終えた手紙と、僕の顔を交互に見比べて、震えている。
僕は今こそ、何か言うべき時だと思った。
「いないよ」
「……っ!そんな、それ、なのに、どうして」
昨日、一晩考えて。今朝一時間、想いを綴った。それだから言えることがあった。散々悩んだから書けることがあった。僕は他ならぬ君にそのことを伝えたかった。
「手紙を書くのは、読むのは嫌いだった。もう二度と帰ってこないから」
「そうっ、すよね、前も言ってたっす」
「嫌い“だった”んだ」
彼女は僕の言葉に耳だけでなく、心全ても傾けるように、真剣に聞いている。
「その人からもらった手紙の内容は全部覚えていたんだ。随分前にもなるけれど、僕は忘れられなかった。当然、辛かった。でも、ほんの少しだけ、嬉しかった。もう僕は愛される資格はないけれど、あの時はあんな言葉をかけられていたんだって、それだけは真実なんだって、気付けたから」
まずは読むこと。誰かの『魂』を受け止めること。その文字には何一つ嘘なんてないと信じること。
僕を想って書かれたそれを読むのは、嫌いになんてなれるわけがないと伝えた。
彼女は黙って、僕の瞳を見続けている。
「そして書いたんだ。お返しの言葉を。ずっと、死ぬまで、僕は、生きていた君に伝えたかった言葉を抱えていくと思ってた。そもそも、言語化なんてできやしないと、逃げ続けていくのかと、信じてた」
本当に不思議だった。自分がおかしいのだと思った。
「でも、一度その名前を書いたら、おどろくほど、すらすら出てきたんだ。いろんな、言葉が。溜め込んできた言葉たちが」
後悔や謝罪、そして背負っていく覚悟、贖罪。
人に語るにはあまりにもつまらない。
だけど確かな僕の“全て”が、一度も止まることなく、滝のように、決壊したダムのように流れ出していく。
出し切ったその時、僕はその行為をやってよかったと思ったんだ。
「……これは自己満だよ。絶対。僕が楽になるため書いただけ」
ひとのためを想って書いたものじゃない。全部自分のため、君へ持つ言葉を吐き出すために文字にした。
でもそれは紛れもなく『魂』だから、手紙だった。
「……自…満、……か、じゃ、ないっす」
「……レイン?」
彼女の震えはいよいよ我慢ができなくなって、僕へと近づいて、そしてこの胸ぐらを、やさしくつかんで、体温を分け与えた。
「それは自己満、なんかじゃっ!……ないっ……すよ」
「……そうかな、だって、死者に手紙は──」
僕は意地悪なことを言った。
そんなこともう思いたくないのに。
レインの気持ちを揺さぶるためだけに、いつか彼女自身が言ったそんなことをなぞった。
そして。
僕がゆっくりと、諦めるように吐いた言葉を、彼女自身が否定する。
「──届くっ!死んだ人にも、手紙は届くんっすよ、ライトくんっ!」
それが聞けて、嬉しかった。彼女はもう止まらない。
「ぜったいに届く!……せない、させないっ、あたしが、ほかならぬあたしが、誇りを継いだ、一人前の運び人のあたしがっ、この手紙をライトくんの自己満になんてさせないっ!」
彼女は今、変わった。なにかが変わった。想いを全面に受けて捲し立てられている僕は、それだけがわかった。
「レインが、これを、届けてくれるの?」
「はいっ!その依頼引き受けますっ!絶対に、何があっても、届けます!だって、あたしたち千草急便の信条は──“どんな場所にも想いを届ける”ことなんすから!」
初めて聞いたはずなのに、彼女のお仕事のモットーは僕にも既視感があった。その口から改めて聞けて、随分と懐かしい気持ちにもなった。
もう、彼女は大丈夫。
そして僕も大丈夫。
だから、ふたりっきりのこの時。最後のひと押しのための最初の一歩を、僕が踏み込ませる。
「じゃあ、レイン。君も、書ける?」
昨日、君に伝えた。
──ねぇ、書くよ。僕は。
──君も、書いてよ。
その意味はもう伝わったかな。
彼女は動揺しても震えても、それでも手紙バッグを前に出して、ずっと彼女が抱えてかくしたままの“手紙”を取り出した。
「それを、読める?」
本当にただのおせっかい。人の問題に口を挟んで許される理由はない。それでも、かつての僕のように、最愛の人から贈られた“お守り”を封じたままなのはきっと辛いから。
彼女が動けるようになるのを、僕は優しく見つめていた。
「……ライトくん、きいてください」
「うん。なんでも聞く。ゆっくりでいいから」
「あはは、ありがとっす。……あたし、ほんとうに、子どもなんすよ」
その否定の言葉はまだかけないでおいた。長い話を僕は聞き続ける。
「ちいさな頃からじいじの背中をずっとみてきて、この仕事に憧れてきて、あたしはその真似事を続けてました」
「……うん」
「あたしは、ひとりでなーんにもできない未熟な半人前。もちろん、そんなのいやっすよ。だれにもいわれたくないっす。……でも、そうなんすよ。水分補給もまともにできなくてライトくんに心配されるし、涙だって流しちゃうし、今日だって、みんなが手伝ってくれて、いかにあたしの配達が遅いかわかったっす」
今すぐ否定の言葉を言いたかった。彼女のそれは全部自分がそう思い込んでるだけで、誰も君を半人前と思っていないって。だけど、それは後で言おう。今はまだ聞いていよう。
「ある時、じいじは言いました。『一人前のワシが、蒼華が“大人”になるまでそばにいる』って」
一呼吸。
「それは、この中に魂として眠っているって。これを“大人”になるまで開けるなって」
彼女は自分宛の手紙を改めて、キツく、強く抱きしめた。
おじいさんが死んだのは一年前。
おそらくずっと、彼女はその“お守り”を手紙バッグの底にしまい込んでいた。
なんでそうしていたかは最早語らなくていい。
その手紙さえあれば、“魂”が封じられたそれさえあれば、死んだはずの、あなたが、ずっとそばにいてくれているように、思えてしまうから。
「……ライトくん、あたしはバカな子どもだから、思っちゃったんすよ」
聞かなくてもわかる、けど、言わないと君自身の想いは晴れない。だから僕は真剣に彼女の美しい瞳を見つめ返す。
「──こんなの、一生開かなければいいって」
彼女の想いを抑える蓋はもうなくなった。
「だって、約束したっす、あたしが“大人”になるまでそばにいる、それはっ、大人にならなかったら、ずっとそばにいてくれるってことじゃないすかっ、だいすきなじいじは、死んだまま、あたしをみてくれるじゃないっすかっ……ッ!」
もう、限界だ。
涙がこぼれだす。
全ての想いを吐露する彼女も、それを真っ向に受ける僕も。
君は挟まれていた。二つの相反する思考に、願いに。
早く“大人”になりたいと思うのは当然のこと。親に心配をかけたくない、自由になりたい、誇れる自分になりたい。
でも“子ども”でいたいと思う、そんな傷を自分自身でつけてしまったのが彼女。“子ども”でいる限り大切な人がいなくならないと、死の喪失を誤魔化すために、心の安寧を守るためにわがままな選択をしてしまった。
なにも、わるくない。
君は何も悪くない。
だけど。だから。
「決めるのは、レインだよ」
僕は卑怯だから強引に答えを持っていかない。
昨日そうしてあげたように、そばにいる。
君は強い、すぐに答えを出すことができた。
「──開けるっす。もう、逃げない、あの日の悲しみからあたしは逃げない」
なんていい顔をする。泣いている、けど君は笑ってる。
よかった。僕は、君を前に向かせることができた。
彼女は静かにその人からの封を切って、そして、山折りされた手紙を開く。
愛する孫宛。死の間際。びっしりと文字で埋め尽くすほど書かれてもおかしくないはずなのに、彼女のおじいさんは、潔くカッコよく、短文で締める。
──『大人になれたか。蒼華。
乗り越えろ、どこまでも遠くに行け。
そして、その果てに、ワシに魂を見せてくれ』
荒々しく、豪快で達筆なその手紙。部外者の僕にはその全てのコンテクストを理解できない。けれど目の前のレインはその全てを理解して、そして、また笑った。
「……はい、見せるっすよ、あたしの、ソウルを」
もう、僕から一方的に贈れる言葉は彼女にない。それほどまでに強くなった。
あとは僕らは探すだけ。その人たちの居場所を。
「改めて、いいかな。僕のそのソウル。あの人に届けてくれる?」
「当然っすよ!死んだ人にも、この手紙は絶対に届かせる!」
取り戻した圧倒的な元気を見ているだけで、こっちも笑えてくる。それでも、考えてすぐ問題に思い至ったのか、彼女は「あ」と固まって困ってしまった。
「でも、具体的にどうやって、やればいいんっすかね……!?あたしひとりじゃなんも考えつかないっすよ」
「僕も、なにもわからない。だからレインに依頼したんだ」
「うえええ、そ、それなのにあたし全然頼りにならないっすね!?」
僕は彼女を責めるわけじゃない。住所がない手紙を届けるなんて、ただの一般人と運び人の知恵じゃ思いつかない。でも、方法はあるから彼女に依頼した。
「ううん、たったひとりで、たったふたりで考えなくてもいいってこと。だって僕らには──仲間がいるでしょ」
彼女は僕の言葉に何かを重ねて、思い出すようだった。一人で考える必要なんてない。それは子ども特有の弱さでも、大人になって捨てる考えなんかでもない。
君はムードメーカー。人に笑顔を届けられる君なら、いつだって誰かの知恵を借りられる。
「……ふはっ、……はは、あははっ!そうっすね!あたしたちには、いつだって予想もつかない遊びを考える仲間たちがいるっす!」
吹っ切れた彼女に、最後、僕が根回ししていた計画を伝えよう。昨晩考えた。どうすれば納得できるように手紙を贈れるか。結局わからなかった。でも、誰に頼ればいいかは、わかったんだ。
「行こう、エデンに。彼女たちが待っている」
僕が全幅の信頼を置いている彼女。
突拍子もない提案を、自由気ままに駆け巡る、太陽のような彼女なら。
絶対に、面白い方法を考えつく。
「──フウカはすでに、企んでいる」
ジンのおかげで予算無制限。
きっと、今日の午前はとんでもないことが待っていると、差し出した僕の手を握って、走り出して、そしていつの間にか僕を追い抜いて、引っ張って、先導して、満開の笑顔で、君は叫んだ。
「あたしたちの想い、ぜったいに、届けるっすからねーっ!」
これ以上ないほど高揚して、清々しい気分。悲しいことはもういらない。希望だけを胸に、言葉はカタチに。贈り届けよう。
ライトは人のために動ける子です。
そして動いたことで、自分もいつか救われる。
そんな話を書きたいのです。




