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七月二十六日 「太陽と出会った」

 ──七月二六日。


 『まもなく〜千草島〜千草島〜。お降りの際は忘れ物にご注意ください』


 乗務員の放送アナウンスが船内に響き渡り、帰省かそれとも観光か、それほど多くはない客たちがまばらに降りていく。


 僕はずっと甲板で島を見ていたため、船に残る客としては最後になっていた。

 

 船と、陸地をつなぐ連絡橋を渡る。


 不安定な床と別れるように、ついに固くしっかりとした地面、港に足がついた。


 「…………暑い」


 まさか島に入っての第一声がそれだとは自分も思っていなかった。

 だが無意識に出てしまうものなのだから仕方がない。

 蒸せ返るような空気。

 落ちる汗。

 地元じゃすっかり珍しいものとなってしまった蝉時雨。

 

 その全てが、夏という言葉を想起させる。


 先に降り立った人たちが帽子や日傘で太陽光を遮っているのをみて、羨ましいとも、またそれも一層夏らしいとも思ってしまう。


 同じく港にいる人、しかし観光客には見えないゴム手袋、エプロンのような作業着、長靴を履いたおじさんが目に入る。

 あの人はきっと漁師だ。

 世間は夏休み、でもこの島に住む大人は変わらず生活を営んでいる。


 夏だからこそ獲れる魚もあるのだろう。

 

 そう、変わらない生活を送る中でも、“夏だからこそ”、きっと得られるものもある。


 僕の人生、夏にいい思い出なんてない。だからたかが四季のうち一つをポジディブな意味で使うことなんてない。

 だけど、きっと、もしいつか、この不快な暑ささえも前向きに捉えることができたのなら、夏という季節を愛せたのなら、どれだけ幸せな生き方なんだろうか。

 

 ……あぁ、僕はまた何を浸ってる。


 でも、いいだろう。夢見るぐらいは。

 僕は照りつける太陽から目を逸らして、小さく自嘲気味に微笑んで、潮の香りが漂う一本道を歩いていた。


 「よお、そこの若い坊っちゃん!千草島へよくきたな!ここへは観光か?」


 港から出る時、受付の声がよく通るおじさんに話しかけられる。

 嘘をつく理由はないし正直に話そう。


 「観光……というより、夏の間、この島で過ごすためにやってきました」


 自分の場合、目的があって訪れる観光とも、自分のルーツに訪れる帰省とも少し違う。

 本当に夏の間、日々を過ごすだけなのだ。


 「おおそうか!泊まる先は……決まってそうだな。……よい、しょっと、これを持ってけ!地図だ。暇があったらいろんなとこに顔出してみろよー!」


 どうやらフェリーへの受付兼観光案内業をしているらしく、親切に手渡されたのはこの千草島のパンフレット。

 それには島のカタチだけを載せているのではなく、この場所のここが夕方になると綺麗だとか、ここの飲食店は美味しいだとか、この森には夜近づくと危ないだとかそんな情報が丁寧に記されている。


 それはちょうど求めているものであり、島を歩くために必須のものであったからお礼をして、深々と頭を下げおじさんと別れた。


 一ヶ月もあれば、島のいろんな人と知り合いになれるかもしれない。あの人が会話をした第一島人であるが、明るい性格で、島全体がそのような感じであったら過ごしやすいと思う。


 「……で、円海さんの家はどこかな」


 萩原 円海。

 それは僕の叔母さんであり、この離島の中で暮らす女性の名前だ。

 一人旅にももちろん泊まる先は必要であり、ホテルや旅館で一ヶ月も外泊できるお金はすぐには用意できない。

 そこで、使われなくなった部屋を円海さんが貸してくれるそうで、こんな人が少ない島で全ての日を捧げるという無茶苦茶な夏休みの経験ができているのだ。

 

 なぜここに招待されたのか。


 教えてもらった家の場所と、先ほど貰った地図を照らし合わせ、重たいスーツケースを引っ張りながら坂道を登り、振り返る。


 ……思い出さないように、地元の景色すらも見ないように、ここ半年は一切外に出ていなかった。

 きっとそんな僕を両親は心配したのだろう。

 再び前を向けるように。

 何かを思い出させないように一緒についていきたかったはずの自分たちも子供から距離を置いて。


 全部、気づいている。

 親の想いも、僕自身が解決するべき問題も。

 

 だから、変わらないと。


 

     ◇


 

 「──?もっと奥……?」


 汗で視界が潤み、朦朧とし始める意識の中で決意を固めながら歩いていれば思ったより時間が経つのは早かった。


 たどり着いたのは坂に沿って建てられるように並ぶ、アスファルトで道が舗装された住宅街。

 港から街までは一つの道しかなかったが、まっすぐな一本線とはいかず、森や畑の中を曲がりくねって進んでいたため突如開けた景色には、人の話し声、通過する自転車、扉が開いている八百屋や駄菓子屋、その人間の営みを感じ、心地の良いものだった。


 建築物は綺麗とも、今っぽいとも言えない、和風建築の年季の入ったものばかりだ。

 しかしそれが、この心地よさを演出しているのだと、初めて訪れるはずなのに懐かしい気持ちにさせる。


 しかし僕を驚かせたのは、その町並みではなく、ここ以外に人が住むところがなさそうな島の中、円海さんの家はさらに坂道を登った奥にあるということだ。


 そんな僻地にあるのか、円海さんの家。


 ふっ、とため息とは違う息を入れて、再びスーツケースの車輪を回して、足を前へと進める。


 円海さんとは幼い頃にあったことがある……らしい。

 らしいというのは出発する前にお母さんから聞かされたからだ。

 5歳の頃、こちらから島の方にいくのではなく、向こうが我が家に来たことがあるのだという。

 

 正直顔も声も覚えていないのだが、優しかった、という幼少期特有の薄っぺらい感想を抱いていたことと、安心するような温和な雰囲気だったことだけはなんとなく覚えている。


 どんな、人なのだろう。

 お母さんが毎回年賀状を送っているらしく向こうからこっちの顔はわかると思うのだが、少し、不安だ。

 知らない場所で、知らない人と暮らすというのは、それだけで怖くなる。

 留学や修学旅行でホームステイ、民泊が嫌だと感じる人と同じ理由かもしれない。


 ……留めさせてもらう身なのだから、性格はどうだって構わないか。優しい人ならばプラスだとそう考えることにすればいい。


 「……いい景色だ」


 そうして、僕は坂道の町のてっぺんにたどり着いた。

 これ以上登ることはないと、安堵して休憩がてら、立ち止まって今までの道を振り返る。

 目下に広がるのは扇状に広がった素朴な町並みと、どこまでも続くと錯覚させる大海原だった。

 地平線の先を見つめようとしても、物体も何も捉えられない。

 それどころかじっと見ていた海の青は、いつの間にか空の青に変わっていた。

 

 海と空の区別がつかなくなるような、果てなく続く光景。


 またもしばらくの間浸って、上がった息も戻ってきたときに、最後の道、円海さんの家へと向かい出す。

 もうきつい坂はない。あとは少し降って町の離れの方の海側に行くだけだ。

 何度も地図を確認したため、方角も合っている。


 もう少し、あと一踏ん張りがんばろう。

 ……町の方に用がある時は、自転車でも借りようかな。

 

 

     ◇



 「……ここ、だよね?」


 町を一望した高所から歩き出して数分が立った。

 逸る気持ちと下り坂の重力のおかげで、想定よりも幾分か早く、円海さんの家にたどり着いた。


 萩原という名前が筆で書かれた表札が石の柵に取り付けられた広大な建造物。

 その外観は、まさに和風建築、そのものといって過言ではないだろう。

 都心の縦に積まれるような、土地を意識した洋風建築とは違う。

 有り余るほどの土地を存分に使い、素朴ゆえの豪華さを感じさせる重厚な瓦と、ベースとなるのは時代を示す木の柱。

 石の柵で覆われた庭には、丁寧に手入れをしているのであろう美しい植物が埋められている。

 そして庭と家を繋ぐ、縁側。その屋根には風鈴が吊り下げられていて、その近くには氷水の入ったタライの中にスイカが置かれていた。横には乾かすように麦わら帽子が太陽の光を浴びて放置されている。


 間違いない。

 ここには必ず、人が住んでいる。


 そして僕は表札をもう一度確認して萩原という名前を見た後、意を決して話しかけようとした時に、来客を告げる手段がないことがわかってしまった。


 「……ええ、インターフォンがない……?」


 聞いたことがある。村社会、いや島社会か、閉ざされたネットワークでは近隣住民とのコミュニーケーションや人の目があるため家に鍵を閉めないことが普通の地域もあるのだとか。

 今の時代に、随分と不用心だと思う部分もある反面、その信頼というか繋がりが美しいものだと感じる自分もいる。


 まぁ、そのベルがないならないで、大声で名前を呼べばいいか。

 きっとそれが当たり前だ。


 鍵すらもついていない石の柵の扉を開いて、玄関へと入り込む。

 そして大きなドアを押した。

 

 ……扉は開かなかった。


 あれ、鍵がかかってる?

 なんて向こうでは当たり前のことを変に再確認した僕が一瞬固まっていれば、すぐにドアノブの形が目に入る。というかそれはドアのノブではない。一部分だけ木が四角く盛り上がっているだけ。

 もしかして、と押すのではなく横にスライドする。動いた。


 ……引き戸だった。

 やっぱり鍵がかかってないのが当たり前でよかったのかと、変な安堵と少し恥ずかしい気持ちを抱えたが、気を取り直して息を吸い込んだ。


 「すみませーん!甥の誠でーす!円海さんいますかー?」

 

 寝ていたらどうしようかと、そこまででかい音量で叫んでいたわけではないが、この大声は家の中を一通り奥まで通過して、そして反響し、この耳の元まで帰ってくるのみだった。


 反応ナシ、か。

 念のためもう一度声をあげてみても、結果は変わらない。


 「……しかたない。入りますよー?お邪魔しまーす!」


 僕の住んでいる地域ならば、というかふつうなら許可なく人の家に入れば即逮捕だが、表札も地図も何度も確認したのだ。この島の空気なら許されるのかもしれないと、意を決して入ることにする。


 「誰かー、いますかー……?一ヶ月お世話になります誠ですー!」


 コソコソしているならともかく名前を言って大胆に正面から入る泥棒はいない。

 それだけを頼りに、自分の存在をなるべく大きくアピールして土間を踏んだ。

 そして廊下へと上がるためには当然靴を脱ぐ。

 失礼のないように靴の向きを正しくするのは無意識の所作だった。そして、その無意識があったからこそ、僕はその存在に気づいた。


 白くて汚れのひとつない新品の如き運動靴。それも女性サイズのものが土間に鎮座している。

 使われていない靴は靴箱にしまっているようだし、これはたぶん今も使われているのだ。

 つまり、それは『今この家には誰かいる』と僕が信じられる要素だった。


 特に家のどこを目指していたわけでもないが、いつの間にか、外から見た縁側へとたどり着いていた。

 風鈴、タライに入ったスイカ、放置されたままの麦わら帽子、穏やかな風、照らされる植物。


 その全てが、夏を示しているように思えた。


 なんとはなしに、僕はスイカに手を伸ばしていた。

 別に食べようだとか、そんな気はない。

 珍しい物だから、だろう。


 ついに触れそうになったその瞬間。

 誰かの声が僕の耳を貫いたんだ。



 「誠くん。一人で食べたらいけないよ〜」



 「──ッ!?」


 不意の声に、思わず心臓が跳ねるほどに驚いてしまう。これは比喩ではなく、実際体はビクッと飛び上がってしまった。


 誰……!?

 なんて言葉が声に出せないほど動揺している。

 普通、家の持ち主ではない自分がここにいることに驚かれる側であるはずなのに。

 そもそも、それが誰かなんてわかってこの家に入っているんだろう。

 この人は円海さんのはずだ。


 落ち着きを取り戻して、話しかけてきた人の顔をよく見ることにする。


 それは女性。

 白い、ワンピースを着ていた。

 透き通るような日焼けを知らない肌。

 腰あたりまで長く伸びて、何も縛られない艶のある紺色がかった黒い髪。

 鮮やかで少し青みを帯びた紫、桔梗色の瞳。

 僕のあまりにもおおげさなリアクションをみて笑う、あどけない表情。


 「……」


 僕の心は一瞬で乱されていた。

 なんだ、この感情は。

 彼女を見て素直に可愛いとも、美しいとも、いえないような感情を、抱いている。いままで味わったことのないような。


 だって、だって彼女は。

 どうみたってお母さんと同じ年齢の叔母さんだとは思えない。それほどに若く、綺麗だった。


 また別の困惑に襲われる僕を面白そうにみて、彼女は僕がいる縁側のもとへ一歩を踏み出し始める。

 

 そうだ。うちの祖父母に紫の瞳なんていなかったはずだ。全員茶色。

 お母さんと同じ血が通っていないというのなら、この目の前の人物は円海さんではない。


 じゃあこの子はいったい……?

 円海さんの娘、なのか?

 

 いや、円海さんには娘も夫も……。


 「一人で食べたらいけない、けど〜、二人なら!食べていいかな〜。ほら、座って座って!誠くん!」


 まだ動けないでいる僕に対して、彼女は近寄って座り出し、そしてその横に置いた座布団をぽんぽんと叩く。

 これは座れと促しているのか。

 正直何が起こっているか彼女が誰なのか、あと別にどうしてもスイカが食べたいわけではないが、とりあえず流されるがまま座り出す。


 彼女はすぐ近くの机に置いてあったナイフを手に取り、慣れたようにスイカを切り出した。

 普通こんなところに、ナイフは置かない。だからきっとさっきまで縁側で座っていて、僕が見た時はそのスイカを切るためのナイフを取るために席を外したんだろう。

 

 彼女のことについて話しかけようとするが、それはなかなか言い出せなくて、スイカを切っていた彼女が僕より先に喋り始めた。


 「いやぁ外は暑いね〜。こんな日にはスイカだよ!ウォーターメロンだからね。水分も糖分も同時に取れちゃう!それに、美味しいし」

 

 穏やかな、話し方。優しい声色。

 喋る顔にはどこか微笑みがあって、明るい。


 とりあえず僕は「ええそうですね」、と動揺しながら相槌を打っていた。


 「もうすぐ切り終わるよ──って!誠くんすごい汗じゃん!そっか、ここちょっと歩くもんね。水飲んだ?」


 ちらっとスイカから目を離してこちらを見つめて目が合った拍子、僕の心がドキッと跳ねたことを見透したのか、滴る汗をみて心配している。

 ここでようやく自分自身も気づいた。

 四十度に届くのではないかという炎天下の中、重たいスーツケース片手にずっと歩き続けていた僕は、ようやく立ち止まり、家の中だというのにエアコンも存在しない場所で座って仕舞えば汗が噴き出さないわけがない。


 それと船に乗る前に飲み干したペットボトルを最後に、水を摂っていない。


 「飲んで、ない、です……」


 情けないことにそのことに自覚してから、すこし、いや、かなり体調が悪くなり始めている。

 視界が、ぐらつく。

 いまにも倒れそうだった。


 「ええ本当!?スイカ如きの水分じゃなくてちゃんと水を飲まないと!熱中症も脱水も命に関わるよ!私、すぐにもってくる!えーっと……はい!とりあえずスイカ吸って!」


 そういって僕の手に優しく触れ、手を開かせ、切ったばかりのスイカの一欠片を置いた。

 鮮やかな赤色。そしてかなり瑞々しい。赤く滲んだ水が手からこぼれ落ち始める。べたべたもするが、美味しそうという感想が第一に来た。


 彼女の言葉通り、僕はスイカを吸うことにした。


 言葉にしたら水を啜る音というのは品がないように思えてしまうが、限界状態の自分にとってはそんなことを気にしないほどに切羽詰まった物であった。


 その分、それは記憶に残り続けるほどの、美味しさをしていた。


 地元じゃ食べたことのない甘さ。

 スイカバーなどの模造したアイスとは違う、本物のスイカ。

 

 冷たくて、美味しくて、優しい。

 スイカの水分にも脱水に効果はあるそうで、次第に思考能力も平常に戻ってくる。


 …………、スイカ如きとかいっちゃうんだ。あとスイカ吸うってなんだ。

 

 「はい!麦茶!こっちのほうが先に見つかった!」

 

 水ではなかったのかと彼女の奔放さに思わずツッコんでしまいそうになるが、麦茶も効果は変わらず、感謝する理由はあれど断る意味はどこにもないため、余計なことを言わずに手渡されたコップに入った冷たい麦茶を一気に飲み干した。

 それでも足りないまだ足りないと喉がいっている気がする。


 自分でもびっくりだ。

 こんなに喉が渇いていたなんて。


 「だいじょうぶ。ゆっくり飲んでね。おかわりはあるから」


 僕のあまりの飲みっぷりに驚いたのか、コップに麦茶を入れるのを手伝ってくれながら彼女は優しく励ました。

 

 四杯。それが一気に連続して麦茶が飲める最高記録だった。


 「どう?落ち着いた?」


 僕の顔色を見るように、覗き込んで、心配そうにこちらの様子を伺う。


 体調が悪いのは先の一瞬だけだったようで、もう視界の揺れも、思考がおぼつかなくなることも治っている。だがまた別のことが思考を支配しようとしていた。

 

 顔が、近い。彼女の瞳がよく見える。

 照れくさいのか自分でもわからないが、どこか恥ずかしくて、目を逸らしてしまった。


 「は、はい。落ち着きました」


 変に顔を向けた先は縁側の向こう、外の風景。

 ここまで歩いてきた道を思い返せば、アスファルトの地面に陽炎が見えていた。さすがにこの中を水無しで長時間歩きっぱなしには無理があった。


 「……うん。確かに大丈夫そうだね。よかったよかったぁ。熱中症って本当に大変だからね〜。……あとそれと、」

 

 汗がもう吹き出ていないことや顔色を確認したことで、自分の言葉がその場限りの嘘でないことを信じた彼女は心からの安堵の声を発していた。

 そして未だに敷かれた座布団に座る僕より先に立ち上がる。

 彼女は僕が顔を逸らした先、縁側のほうに外への視界を封じるように動いていた。


 白いワンピースが、風で揺れる。


 「敬語禁止!なんかむずむずしちゃうから!」


 えぇ……?と僕は口に出していたかもしれない。それほど前後の文脈が関係ないような、その関係性に至れるほど名前も状況もわからないというか、とにかく、困惑していた。


 でも、びしっと指を刺して僕をまっすぐに見つめるその瞳。

 明るく、屈託のなく、満開に咲く笑顔。

 縁側の向こう。太陽が家に光を届けていた。

 しかし、僕には庭ごとその太陽は見えず、覆い隠されている。

 でも、太陽の光が辺りを照らしていることだけはわかる。


 だから、僕にとっては、目の前の人に太陽の後光がさしているのだ。

 薄明光線、光芒とも呼ばれる光の一本線。

 間違いなく彼女から発せられているとそう錯覚する。


 彼女は、太陽みたいな女の子だった。


 僕はそれが綺麗で、可笑しくて、いつのまにか、笑っていた。


 「……ふふっ、はははっ!……うん。わかった敬語はやめておくよ」


 笑った自分でも変だなと思う。理由なんてわからない。まだスイカを食べて、お茶を飲ませてもらっただけの仲なのに。

 でも彼女は笑って敬語を外した自分に対して、納得のいく答えだったのか、彼女も声を出して笑い始めた。


 「いいね、いいね!誠くん。……ねぇ君の名前を、教えてよ」


 訳もわからず二人は笑いあっていた。

 彼女は僕の名前を呼んだ後、改まって僕の名前を聞いた。

 なぜかはわからないが、君は既に知っているんじゃないの?と当然頭に言葉が浮かんだ。

 しかし、それは無粋なことだと、直感でそう理解した。


 名前を名乗って欲しい。それは単なるコミュニケーションであるし、人が他人と仲良くなり、友達となるまでの最初の一歩。


 遠く離れた叔母さんの家で、名前も知らない少女と出会い、笑っている。

 まったく、不可解な状況だ。

 でも、不思議と悪い心地はしなかった。

 

 僕は立ち上がって、少しだけ背の低い彼女と正面から向き合った。


 「僕は、誠。葛城誠」


 ただそう、十六年間ずっと付き合い続けてきた、これから先も変えられない言葉を発する。


 自分の名前を、堂々と誰かに紹介するのなんて、いつぶりだろう。

 あの日から僕は誰かと関わることをやめた。


 生まれてきてからほとんどの人間が変えることのない、名前。


 親は大好きだった。

 でも親がつけてくれたこの“誠”という名前は、嫌いだった。

 期待が重すぎた。名前の通りに生きれない、僕は卑怯者だ。

 

 何かを思い出してため息が出そうになる。

 けれど、そんな僕の、名前を。


 君は。


 「──誠。……うん、葛城誠。素敵な名前だね」


 そう、言ったんだ。

 悔やんでいた何かが、認められたようなそんな気がした。


 「……!」


 彼女の言葉がお世辞ではないように聞こえたのは、僕の願望か。誠、誠。と彼女は僕の名前の響きを確かめるように何度もそう呟いている。

 

 このまま続けさせていると、恥ずかしくて僕はきっと彼女の顔を向くことができないと思った。


 だから自分がされたように、彼女の名前を尋ねよう。

 彼女はおそらく円海さんではない。それならば。


 「ねぇ。君の名前は?」


 最初の頃の緊張感はすでになかった。

 ただ僕は、彼女の名前を知りたかった。


 「私の名前は、風香。桔梗風香!さんづけもなし!風香、ってよんで!私も誠、って呼ぶから!」


 桔梗、風香。

 風に香る。いい名前だと素直にそう思った。

 彼女がそうしたように、それを口に出して、語感を確かめ、忘れないように刻む。


 「風香、風香……。うん。よろしくね風香。……そういえばなんで僕の名前が誠だって最初から知っていたの?」


 誠くんと彼女が呼んでいた理由。

 それは案外単純なものだった。


 「名前は知ってたよ。だって誠、玄関のドアが開かないってがちゃがちゃしてから『誠でーす』って自分で叫んでたもん」


 ……そういえばそうだった。というか聞こえていたのか。ドア間違えてたの。普通に恥ずかしい。


 「あとはまあ、誠が来るって聞かされてたしね〜。……あ、そうそう萩原でもない桔梗の私がなんで円海さんのお家にいるかなんだけど──」


 それは普通に気になっていた。


 そして彼女の言葉の続きを待っていたとき、ガラガラッ、と家の中に音が響く。


 「あ!帰ってきた!」

 

 帰ってきた?

 あぁそうか、いままでドアを開く音といえばガチャリとバタンしか聞いてこなかった自分だ。引き戸の音はこんな音がしたのか。

 家の中にいた風香が来客に気づける十分な大きさだ。


 「……あれ?円海さんと一緒にここにきたんじゃないの?」


 そう風香はこちらを向いて、首を傾げて尋ねる。

 もちろんそんなことはない。確かに一人で坂道を登って降った。


 「いやまだ会ってないけど……」


 言って一つの憶測が浮かんだ。

 風香の発言、そしていまちょうど円海さんが帰ってきたこと。

 ひょっとして、僕のことを港で待ってくれていたのか……?


 「ただいまー!あら丁寧に靴を揃えてるわ。誠くん先に到着してたのねぇ」


 まだ姿は現れないが、土間の方から元気の良い声が聞こえる。お母さんとそっくりの声質だ。

 習慣のため特に意識はしていなかったが、そうプラスに評価されるのなら靴を揃えていてよかった。


 風香が「おかえりー!」と言うのを横で見て、遠慮がちにだが「おかえりなさい」と釣られて言った。


 スタスタと地面を歩く音が聞こえる。

 

 そして、ついに円海さんと対面した。


 「はーいこんにちわー!……あらあらあらぁ!幼い頃から変わってないわね誠くん!」


 そう話しかけたのは、もちろん女性。

 黒く、小さく一つにまとめた髪型。

 落ち着いた服装。

 年齢は……二十代後半から三十代前半程度のように見える。幼すぎることはない。が、しかし、自分の母の年齢を考えればそれでもかなり若く見積もっているように思えた。


 「えっと、勝手にお邪魔しちゃってすみません。これから一ヶ月間、よろしくおねがいします。円海さん」


 ここに来るまでに、円海さんと出会ったら何から話そうか決めていたはずなのに予想外の出会い方で少々テンパっている。

 でも最低限の礼儀は言えたはずだし、たぶん、大丈夫だろう。


 ……あと幼い頃から変わってないって、さすがに5歳から15歳までの間の成長でそれはないんじゃないか……?


 「こちらこそ、よろしくね〜!ここってちょっと遠いし本当は港まで車で迎えに行こうとしてたんだけど、色々あって遅れちゃって……。港で受付してる省吾さんにきいたら、夏の間島で暮らすって言った男の子が来たって!」


 円海さんはゆっくり荷物を片付けながら、そう話し続けていた。


 省吾さんというのは、多分僕にこの島の地図を渡してくれたおじさんのことであろう。狭い島。きっと顔見知りでない人の方が少ないかもしれない。

 田舎ならではのネットワークというやつか。

 地元では近所に住んでいても名前も知らない人もいた。その環境が新鮮で、少し羨ましい。


 「迎えにきてくれてたんですね。ごめんなさい知りませんでした」


 遥々歩いてきたが、車前提の距離だと伝えられて安心した。町からこの家までは下り坂だが、町へ用事があるとなれば上り坂が避けられないことはかなり大変だ。


 「いやいやいいのよ!謝らなくて!姉さんに伝えるの遅くなっちゃった私も悪いし。……あぁ、でも連絡はできておいた方がいいわね。ケータイ、持ってる?連絡先交換しましょうか」


 夏の間では、円海さんが保護者代わりだ。安全のために連絡手段はあって損はない。

 両親しか存在していなかったメッセージアプリに、萩原円海という名前とこの島から撮ったであろう海のアイコンが追加される。


 綺麗な景色だ。


 画面を見つめてそう思う僕を、横からじーっと見つめる人がいた。

 風香だ。

 その眼は悲しそうに潤み、羨ましいと思っているようななんとも言えない表情が僕の電子機器を捉えていた。


 「………いいなぁ」


 やっぱり羨ましかったのか。僕がそれに反応するよりも前にすぐ近くにいた円海さんが答えた。


 「あらそういえば風香ちゃんは持ってなかったわね。今度買いに行きましょうか。電気屋さんはこの島にないから……島の外まで一緒にお出かけ!」

 「……!本当!?ありがとう円海さん!ふっふっふーん!おでかけたのしみ〜!」


 ほぼ使い道のない僕でさえ持っている、現代社会必需品を風香は持っていなかったようだ。

 それを買いに行くと言う約束を目の前で結んだ彼女たちを見て、やはり疑問が思い浮かばずにはいられなかった。


 「……あの、二人はどんな関係なんですか?」


 恐らく当然の疑問だろう。家族の間柄ではないことは二人の苗字からわかるし、親戚に桔梗という苗字を見たことがないからその線も消える。

 お互いを円海さん、風香ちゃんと呼ぶようで、どこか不思議な距離感だ。

 

 「あぁ、そういえば風香ちゃんがいるってことは姉さんに隠してここに来させたんだったわ。ごめんなさい、説明が足りなくてびっくりしたでしょう。……でも随分と打ち解けているようね?」


 姉さん、つまり僕のお母さんに隠して?確かに知らされてはいないし驚きもしたが、わざわざすでにこの家にいた風香の存在を隠してまで僕をここに招待する必要はあったのだろうか。


 「へへへー!名前を教え合った仲だもんねー!」


 風香は円海さんの疑問に僕の肩を組んで、そう眩しいぐらいの笑顔で答えた。

 突然の行動に僕の身体は跳ねて、こわばって緊張してしまう。


 「あらそう!仲が良くて良かったわぁ〜。──この一ヶ月間同じ屋根の下で暮らさなきゃいけないし」


 外の蝉時雨はなかなかやまない。が、それが聞き間違いであることを否定しないように、その瞬間は無音になり、彼女の声だけがよく響いていた。

 

 「…………え?」

 「改めて説明をすると、風香ちゃんは……島外の子供。一ヶ月ぐらい前から私の家で一緒に暮らすようになったの。そうよね?」


 まるで確かめ合うように円海さんは風香の方を向いた。


 「……うん。ちょっといろいろあってね〜。円海さん家でこの夏だけ過ごさせてもらうことにしたんだ。だから、誠と一緒!夏が終わったら元の場所に行ってしまうけど、それまではずっとここにいる」


 なるほど、家族でも親戚でもない二人。

 そこに、僕も加わって、三人。


 「──ねぇ、忘れない夏を作ろうね、誠!」

 

 あぁなんてことだ。

 その笑みはとても綺麗で、その誓いは嫌な気持ちなんてひとつもしない、明日からが楽しみになる魔法の言葉。

 

 僕はそれに、頷いて答えたんだ。


 「……ふふ、姉さんに急にここに来るように言われたでしょ?それはね、私が誘ったからなの。何か悩んでることがあるみたいだから、この島でならきっと立ち向かえる勇気をもらえる。……なぁんて、ただ可愛い甥っ子に会いたかっただけなんだけどね!」


 そうか、円海さんは、僕の絶望を知っていて。

 それでも立ち向かえと、僕自身のためにこの島に招待してくれたのか。

 誤魔化すように他の理由をつけたしたが、きっとその他の理由も、最初に話した理由も嘘なんかではないことがわかった。


 「……ありがとうございます」


 期待を裏切るわけにはいかない。そうして僕はまだ早いお礼の言葉を吐いた。


 「こちらこそありがとう、よ。都会に比べたら娯楽も少ないのどかな島だけど楽しんでもらえたら嬉しいわ!そうそう、風香ちゃんの遊び相手にもなってあげてね」


 「……遊び相手」

 思わず聞き返して、風香の方を見る。


 「一緒に遊ぼう!」

 彼女はその扱いに別に何も気にしないように、それどころかずっと遊ぶ相手が欲しかったように僕の顔をキラキラした瞳で見つめている。

 ……彼女は必需品の電子機器すら持っていなかったようだし、今の時代ネットを使わない遊びなんて考えられない。

 僕はそもそもゲームをやっていなかったし、島に来てまで引きこもるつもりなんてなかった。

 だからだろうか、風香と遊ぶことがとてつもなく楽しみだった。


 「私はこれから夜ご飯を作るわ。ちょっとまだ早いけど、誠くんの歓迎会として精一杯おもてなしするわね」


 そんな、そこまでしてもらわなくても。

 と、謙遜する気持ちは確かにあったし寸前まで言おうとしていた。

 しかし黙って、その優しさを受け入れることもきっと愛で、相手のためになる。

 僕のお母さんが、そんな人だから。きっと円海さんもそうなのだろう。


 「……はい。楽しみにしてます」

 「ええ!楽しみにしてて!まだ時間はかかるだろうし、メニューはサプライズにしておきたいから、風香ちゃんとこの島を歩いてきたらどう?案内、おねがいできる?」


 円海さんは風香にそう話を振って、彼女はビシッと背筋を伸ばして敬礼と共に返事をする。


 「了解されました!誠!私と外に出よう?」


 断るなんて選択肢はもうなかった。

 差し出された細く白い手を、僕は掴む。


 「うん。それじゃあ……いってきます。円海さん」

 

 まだこの家にきて一時間も経っていないのに、「いってきます」なんてまるで我が家のように、またここに戻ることを誓うようなそんな言葉が無意識に出ていた。


 早く行こう早く行こう、と掴んだ手を引っ張って風香は僕を連れて玄関へと向かう。


 「はぁい、いってらっしゃい!風香ちゃん!お姉さんなんだからしっかり誠くんを導いてあげるのよー!」


 もう玄関を潜り抜けようとした時に先ほどの広間から円海さんのそんな声が聞こえた。


 前を歩いて既に家の外に出た風香はその言葉に「わかったよー!」と笑顔で大きく返事をする。

 

 ……、お姉さん?

 「ねぇ、風香。何歳なの?」


 そういえば聞いていなかった。同年代のような風貌だし、むしろそのあどけなさから年下のような気さえしている。


 「……内緒」


 もう二人は家から離れ、行きは降りてきた長い坂道を登っている。

 僕の質問に彼女は振り返って、ドキッとするような、口に人差し指を当てた仕草で笑ってそう隠した。


 「え?なんで」

 それもまた至極真っ当な疑問だろう。

 もしかして女性に年齢を聞くとは、みたいなそんな感じ?それってもうちょいお母さんぐらいの年齢になってからの会話じゃない?


 「ふふふっ嘘嘘!この夏で十七歳から十八歳になるよ」

 ややこしい言い方だが彼女は年齢を明かしてくれる。

 「え!?じゃあ先輩だったの?それも二つ……」


 僕は誕生日はまだ遠く、十五歳だ。世間で言う高校一年生。風香の十七歳から十八歳になる代は高校三年生に当たる。

 まさかこんな幼くみえる女の子が僕より二個も上だったなんて。

 

 「敬語、戻そうか?」

 「いやいや、やめてよ誠。むずむずするっていったでしょ?」


 確かに彼女がそう言っていたから僕は最初から敬語を外すことができていたんだ。


 「それに、私は誠が十五だってこと知ってたよ。先に年齢が上だって知ってたら敬語だって外しにくいし、対等に仲良くなれないでしょ?だから年齢を知られる前に敬語なくさせたんだ。私って策士〜!」


 結構な坂だって言うのに、彼女は目の前をぐんぐんと進んで上機嫌に笑って歩く。つられるようにうしろに歩く僕。


 策士だって彼女は言うけれど、なんで、出会ってすぐの僕と仲良くしたいのか、その心理はよくわからない。けれどやっぱり悪い気はしないし、僕だって彼女と仲良くなりたい。

 対等に笑いたい。


 僕は少し歩くスピードを早め、そして、彼女の隣に並ぶ。


 「そっか。それは策士だね風香。ねえ、この島を案内してよ!」


 元々、案内するために彼女と一緒に外に出てきた。けれど「お願いします」は自分の口から言っていなかった。

 だから、彼女に改めてそう言った。


 風香は、笑って頷いた。

 太陽はまだ僕の頭上にあった。

 

 


     ◇




 「だいぶいろんなとこ見て回ったね〜……」


 三時間は過ぎたか。

 風香と共に歩いて、簡単に町を巡った。

 密度の低い住宅街。駄菓子屋。港。浜辺。田んぼの畦道。


 どれも島の人にとってはありふれた光景なのだろう。けれど僕にとってはその全てが新鮮でとても美しく輝いて見えた。

 風香と共にいたからこそでもあるし、彼女はこの島に馴染んでいるようでどこにいても島の知り合いが彼女に挨拶を交わしていた。

 その流れで僕の名前を紹介することも多かった。

 きっと、明日から彼らともう一度出会った時、風香がそうされていたように僕とも挨拶を交わしてくれるのだろう。

 あぁ温かい島だ。心の奥が揺れて、幸せな気持ちになる。


 「もうすぐ帰る?」


 そう言ったのは僕だ。正直、昼からずっと歩きっぱなしで足が棒のようになっていたが、彼女のペースに当てられて不思議と限界を忘れていた。それでもなれない運動に体は悲鳴をあげているし、なにより、太陽は西に傾いて、青かった空が茜色に変わり始めている。

 

 「いや、最後にもうひとつ、私が大好きな景色を見に行こう!」


 風香は僕の顔を見て笑う。どこだかわからないが、きっとそれについていくしかない。痛みをもう一度忘れ、わかったと頷いた。


 「ふふっ、早く行かないと間に合わないよ!走ろうか!ほら、手を握って!」

 「え、えぇ……?って、わぁ、風香!?」


 僕は歩いてそこへ行こうと思っていたのに、待ちきれないように風香は僕の手を強引に引っ張った。

 白い腕に見合わないパワー。

 ……いや、違うな。僕が彼女に引かれても構わないように、無意識のうちに力を緩めていたんだ。


 僕と彼女はいろんなところを巡って疲れたのは間違いない。というか風香は、しばしば休憩を挟まなければならないほど体力がない少女だった。

 

 でも、今この時だけはその全てを出し切るほどの走りで、僕に何かを見せようとしている。

 それも僕が見たくて、自分の意思で、足を早く、動かし始めた。


 あぁ今日は都会で味わったことのない、太陽が照る暑い日だ。

 そいつがふかす汗が頬を伝う。

 でもやっぱり、悪い気はしなかった。


     ◇


 「ここは………」

 

 彼女の手に引かれてついに辿り着く。

 そこは丘の上。眼前にこれより高いものは存在しない。だから全ての風景をこの場所から一枚に収めることができる。


 花畑。夕焼け空。群青の穏やかな海。


 一要素だけでもお腹いっぱいな『夏』がそこではまとまって共生している。


 フェリーからこの島を見た時に近い感情。息を呑む美しい風景。


 この場所を大好きな景色だと語った、案内人、風香は僕の目線より少し下。咲き乱れる花畑の真ん中に降りて、こちらを向いて笑っていた。


 「──どう?綺麗でしょ」


 島を一緒に歩いているときは年下のように思えた無垢で純粋な風香の笑い声。

 けれどこの時の言葉だけは、自分より年上で不思議に惹かれてしまう何かが籠った、呟きだった。


 彼女に良く似合う、花畑。その花の種類を僕は知っている。


 紫色の星型の花弁。

 夜を彩るにはまだ早いけど、端正な形はとても美しい。

 それはキキョウの花。奇しくも彼女の苗字と同じ花。


 想いのまま、綺麗だと言いたかった。


 だから言った。


 「うん。とても、綺麗だ」

 「………!うんっ、だよねだよね〜!」


 いろんな意味を込めて。

 

 僕は丘の頂上から降って、花畑の中にいる彼女の隣に立つ。

 風香は走った疲れか、ピンク色に頬を染めて僕の方なんか見ずに、ずっと遠くの、空と海が混ざり合うその地平線の先を眺めていた。

 彼女の横顔とその景色。

 見飽きたりなんてしないそれを、僕も並んで眺め続ける。


 「…………そろそろ、帰ろっか」

 

 あまり会話はしなかった。けど気まずさなんてなかった。同じ風景を見て、きっと同じことを思った。それだけで心が通っている気がした。


 太陽はもうすぐ完全に沈もうとしている。

 月が背後から迫っている。


 「うん、帰ろう、風香。円海さんの料理楽しみだね」


 花畑を背にして、「また来ようね」と風香と約束をして、軽い世間話をしながら帰り道を辿る。戻る先は二人の家。

 

 「円海さんの料理すっこぐ美味しいんだよ!あ〜早く食べたいっ!」

 「そうなんだ。今日はいっぱい動いたからお腹すいたね。……風香はご飯作ったりしないの?」

 「んー?そうだなぁ……。全然しないかも。というか一回もやったことないなぁお料理なんて」

 「ええ一回も?」

 「うん恥ずかしいことに一回も……。そういう誠はできるの?」

 「まあお昼はよく一人でご飯作って食べてるからできる方……かな?」

 「そうなの!?……ねぇ、今度、いや明日!お昼ご飯作って作って!」

 「急だけど、いいよ。……それじゃあ、一緒に作ろうよ。そっちの方が遊びみたいで楽しいと思う」

 「──誠!いいの!?私も料理作れるようになりたかったの!ふふふーん、帰ったら円海さんにキッチン使っていいか許可もらわなくちゃ!午前中は、食材を買いに街に出よう。……あぁ明日が楽しみだなぁ。」


 まだ今日は終わっていないのに。

 そうやって会話の中で彼女と約束をして、お互いに明日を望む。

 

 本当に、心地よい瞬間だった。



   ◇

 


 ふぅ、と僕は小さな浴槽の中で一つ息を吐いた。


 全身を包む気持ちよさからか、不安が解消された安堵からか。

 少なくともそれは、もう溜め息ではなかった。


 湯気と共に窓の外の星空を見て、夏休み初日の今日を振り返る。

 

 楽しい島案内を終えた後、二人で家の玄関を開ければ、円海さんはクラッカーと共に僕たちを出迎えてくれた。祝福のクラッカーだそうだけれど、あまりに警戒していなかった僕は耳元の爆音に驚き過ぎて裏返った変な声で叫んでいた。

 風香が息ができなくなるぐらい笑っていた。

 許せない。

 食卓には肉と魚、野菜まで。この島で獲れる食材を使ったとても豪華な料理が覆っていた。

 三人で食べるには少し多いけれど、ゆっくりと、はじめて会った円海さんと風香と家族のような会話を交わせば案外簡単に、楽しく食べ尽くすことができた。

 ちなみに円海さんは酒を飲んでいた。

 酔った姿はなんというか、お母さんそっくりで。

 泣き上戸でも笑い上戸でも怒り上戸でもなく、甘やかせ上戸だった。

 ……言葉の通りだ。すごい、母性を感じた。

 酒を飲めば本心が見えるというが、赤裸々に気持ちを明かしてくれた円海さんは、心の底から居候の身の僕たちを親身に思っていることがわかって、どこか嬉しかったんだ。


 そんな、穏やかで楽しい時間を僕たちは過ごした。


 宴会の後は1日の疲れを癒すお風呂の時間だ。

 浴槽は僕たちが出掛けている間に円海さんが沸かしていてくれていたようで、先に入らせてくれた。

 でも風香と僕はどっちが先に入るかで両者譲ってばっかりだったので、結局じゃんけんで決めた。

 

 結果は僕の勝ち。

 異常な暑さの中、探検をしたため僕らは汗をかいたから、彼女は一刻も早くお風呂に入りたかっただろう。


 だからこうして手に入れた勝者の特権で“一番風呂を譲る選択”をする。

 口でいいよ、と言っても存外彼女は頑固だから無理矢理命令してしまうのが手っ取り早い。

 後から話を聞いてみれば、風香が勝てば僕と同じ行動をしようとしていたようで、彼女は目を丸くして瞳を見つめ、吹き出すように笑い、そして感謝を伝えながらこちらの希望通り風呂に入って行った。

 そんな様子を見て、酔った円海さんが微笑ましく見守っていたっけ。


 それで今は風香があがったあと、僕がこうして二番目の風呂に入っている。


 ………家族ではない、女の人が入った後の風呂。


 なんだかよくない想像をしてしまいそうで、これ以上の入浴は危険だと自己判断。

 振り返りはここまでにしてもうあがろう。


 タオルで体の水滴を拭いて、持ってきた寝巻きに着替えて、髪を乾かして、そして歯を磨く。


 「もう、一日が終わるのか」


 鏡を見ながら間抜けに歯を磨かれる自分を見て呟いた。

 

 今日はとても、楽しかった。

 でも終わってしまう。

 夏休みは長い。

 けどこうやって日々を重ねて、そして、あっという間に、終わる。


 それでなんでもない日常が来て。

 また、あの絶望を、思い出す。


 「……」

 だめだだめだ。まだこんな気持ちにはなるな。

 初日なんだ。だからまだ、変われるんだ。


 口に水を含んで、潰された歯磨き粉を吐き出して汚れた口を拭う。


 僕は、円海さんが僕の入浴中に丁寧に準備してくれたであろう布団が横になっている客間にやってきた。

 どこまでも優しい人だ、と考えて、そしてあまり馴染みの深くない畳を嬉しく思いながら、荷物を整理する。

 

 今日からこの客間が一ヶ月僕の部屋だそうだ。

 掃除は完了しているから好きに使ってくれて構わないと円海さんは教えてくれた。


 ここにきてすぐ街の外に出たため、本来初日にやるはずの荷解きが全然できていない。

 必要なものだけ外に出して、洋服だとか細かいことは明日やろう。

 

 「今日は、疲れたな………」


 欠伸をする。

 眠気が襲ってくる。

 座っている敷布団はふかふかで、もう横になって仕舞えばすぐに寝られる。


 この疲れは久しく味わっていない、爽快感のあるもの。

 明日も楽しむために、今日は早く寝よう。


 そう考えて、吊り下げられた紐を引っ張って電気を消して、僕は布団を被った。

 その時、廊下につながる襖がコンコンと音を立てる。


 「……はい」


 朧げながら音の主に返事をする。

 立ち上がって電気を付け直す。

 僕の了承の声が聞こえたのか、その襖をしずかにそっと開けて部屋の中にだれかが入る。

 

 それは黒く長い髪が、一つに結ばれた少女だった。


 円海さんではなく、それは風香だった。

 昼間のワンピース姿ではなく、風呂上がりの浴衣姿。


 心臓が動く速度が、少し増したような気がした。


 「やっほ。……あれもう寝るところだった?」

 「いや、……まあそうだけど。どうしたの?」


 正直眠いけれど、彼女に夜更かしして話さない?とでも言われたら別に喜んで体を起こすだろう。


 「じゃあ悪いことしちゃったね。私は誠におやすみって言いに来ただけ!やっぱり、この言葉を言わないと落ち着かなくて……」


 風香はそんなことを照れくさそうに可愛らしく笑いながら言った。

 僕もかんだか、照れ恥ずかしくて、嬉しい気持ちになる。

 おやすみ、の一言でなんて単純な僕だろう。

 きっとこれから先毎日重ねていくその言葉を彼女にお返しする。


 「……うん、僕も言いたかった。おやすみ、風香」


 彼女は僕の言葉で、夜だっていうのに、明るく笑った。


 「……!うん!おやすみ、誠!」


 その笑顔を絶やさぬまま、僕の部屋の電気を消して、彼女は襖を完全に閉めた。

 

 もう寝よう。

 体を横になって意識を手放す。


 その寸前まで、僕の瞼に焼きついていた、風香の眩しい笑顔、それをずっと見続けていて。

 

 

 気付けばもう明日になっていた。

主人公  「葛城かつらぎ まこと

ヒロイン 「桔梗ききょう 風香ふうか

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