プロローグ 「始まりは快晴」
甘く、爽快な、夏物語。
「……、はぁ」
ため息。
僕はそれを何度ついてきたのだろう。
いつしかやりたくもない癖になっていた。
忘れたい過去を思い出してしまいそうになるたびに、僕は決まって、脳の中身を全部溢してしまおうと必死に息を吐く。
人間、記憶を思い出すためのトリガーというのは複数ある。
美しさなどで印象深い景色、または見慣れた地元の景色を改めて見ることにより思い出す、視覚。
耳に入る歌がふとした瞬間に映像と再生されるように、マーケティング的な側面からCMソングにもそれを用いている、聴覚。
好きな食べ物の匂いが、好きな人の匂いが、街中で嗅いだ時振り返ってしまう、嗅覚。
他にも人は、一度忘れてしまった記憶を、何かをきっかけとして再びレコードを回す。
たとえば、夜の闇に紛れて見る、あのとりとめのない夢のように。
誰もが受動的に、ただ与えられるがままに脳内で再生させてしまう、過去の残滓。
その全てが僕の、過去を掘り起こす。
許されない罪を。
いつものように、今回それを蘇らせたのは、うざったいぐらいに身体を照らす太陽。
その、茹だる暑さだった。
「……夏は、嫌いだ」
誰に聞かせるわけもなく、ただ無意識に呟いていた。
そんな呪うような声は反響することはなく、大きなエンジン音、そして波にかき消される。
地面は揺れている。
地震ではない、これは動く乗り物の上にいるから。
雲ひとつない快晴の空も、小さな波を泳がす群青の海も見えるのも。
それは僕が、船──離島への連絡船に乗っているからだった。
「……あと、どのくらいかな」
心の奥底で感じる寂しさを克服するために、僕は昔より独り言が多くなった。
もう気にすることも無くなったその声と共に、ポケットから電子機器を取り出した。
それは時間を確認するため。
──七月二六日 十時四十九分。
表示された時刻と、ついでに日付。
「もうすぐ、あと、十分ぐらいか」
時計代わりのそれを意味もなく眺めていれば、その画面上部に一通のメッセージが表示される。
誰からだ、なんて考える意味はない。
せいぜいそれが父さんか、母さんか。その二択で予想するだけだ。
『誠、もう島は見えたかしら?円海によろしくね。ちゃんと挨拶するのよ。細かいことは出かける前に言ったからもう言わないわ。一ヶ月、楽しんできなさい』
その差出人は母さんからだ。
返信には、まだ目的地は見えてないことを含め長くならないように簡潔に答えた。
そうして時計とメッセージ機能だけを宿した小さな機械は今、役割を失い、電源を切る。
「……はぁ」
暗くなった画面を見て、またため息をこぼす。
あぁなにやってるんだ。僕は。
動かないそれをポケットにしまって、さっきまでやっていたようにフェリーの甲板、その柵に腕を乗せ体を預けながら、動く巨体が産み出す波を何かに浸るように眺め始めた。
自然のまま、大きな力が動いて誰も止められない大海原の波の中、人間が作ったひとつの鉄がその流れに逆らうように新たな波を作り出している。
逆浪。
あるいは逆潮、逆流と呼ぶのか。
何かに抗おうとする意思。
僕はそれに親近感──とは全くかけ離れた感情を抱いていた。
それは、むしろ。
「………」
あぁ、やめてくれ。
またため息が出てきそうだった。
「──っ、……!」
──しかし、それは頭を打ちつけるほどの強い衝撃と共に、呑み込まれる。
突然の風が吹いた。
船の速度であるからいままでだって無風なわけじゃなかった。
でもただのそよ風だったように思えてしまうほどの、強い、向かい風。
波を見ていた、ひいては下を向いていた自分を、その風は前を向かせるように、吹き上げた。
特に海を見ていたい理由はなかった。
受動的に、流されるまま僕は、前を向く。
眼前には、まさに息を呑む、光景。
青いキャンバスに、ぽつんと浮かぶ、翡翠の点。
まだ全貌は見えないけれど、確かにその点──島が僕の目には見えていた。
一度見え始めたらその距離はどんどん縮まり、はっきりと色濃く映り出す。
岸辺には白く細い砂浜が帯のように巻きつき、その縁を波がやわらかく縫っている。
中央には緑の森がこんもりと盛り上がり、傾斜沿いには開拓された町の白いアスファルトが一部見えている。
これから向かう港の端では、昼なためまだ眠ったままの灯台がそびえ立っている。
決してその島は、日本のガイドマップで一面を飾るような絶景ではない。
しかし快晴によって剥き出しになった太陽光に彩られ、海洋に反射する光の中映りだしたその島は、僕の目にはとても、綺麗なように、美しいように思えたんだ。
「…………」
この無言はため息を待つ間じゃない。ただずっと、見つめ、想いを馳せ続けている。
僕は、あの島、叔母さんが住む離島『千草島』に一ヶ月間滞在する。
そこで、何を見るんだろう。学ぶんだろう。感じるんだろう。
何を、記憶に残すんだろう。
嫌な暑さはすでに消えていた。
いや気温自体は変わらない暑さのまま、それが不快だと感じなくなっただけなのかもしれない。
「……ついたら、何から始めよう」
久しぶりに、僕は、『明日』を想像した。
ずっと『昨日』を悔やむ毎日だった。
いまもあの時は『昨日』のようにフラッシュバックする。
しかしそれでも、茹だる暑さの夏の中。
どんな日々を過ごすのか。
幸せを。楽しさを。
純粋に、望む。
そして──。
「エンドロールのような悪夢から覚めるように」
「僕の記憶が、この夏で和らいでくれるのかもしれない」
そんな期待を島に託して。
──それが僕と彼女らの、忘れられない『一ヶ月』の始まりだった。
7/26から動き出す、夏休みの話です。
8/31まで、毎日18:30に投稿していきます。




