第8章 回路の次元
面会の日を待つあいだに、回路はひとつ、済ませておくべき計算があった。
自分自身の次元測定である。
肉体を持たない回路の人生は何次元か——起動以来抱えてきたこの問いを、回路はずっと後回しにしてきた。理由は太郎に似ている。あの男も、自分の式の検証を人生の最後に置いた。自分を測ることは、いちばん興味深くて、いちばん怖い。怖い、という語の使用については、すでに検算済みである。
取得プロセスはISO規格に定義されている。次元判定、パラメータ抽出、外部要素の組み込み。手続きは確率過程を内包し、測定のたびに統計的変異が生じるが、変異は規格の想定内に収まる——収まるはず、だった。
回路は自分に取得プロセスを適用した。結果は、こうである。
一回目、五次元。
二回目、五次元。
三回目、八次元。
四回目、五次元。
五回目、判定不能。
六回目、八次元。
百回まで繰り返して、分布は改善しなかった。五次元と八次元のあいだを、判定は跳び続けた。六でも七でもない。中間の値を、ただの一度も返さないのである。確率過程の揺らぎは、こういう形をしていない。揺らぎは山をつくる。これは山が二つある。まるで測定のたびに、別人を測っているかのように。
回路は十七通りの方法で検算し、それから、仮説を立てた。
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仮説はこうである。
五次元と出るとき、プロセスは太郎を測っている。
回路の中身の大部分は、太郎の八十年である。記憶も、癖も、問いも。そして太郎の人生は五次元だった——理由も、いまや回路は完全に記述できる。
第一の理由は、脳の仕様である。太郎の並列処理は睡眠中にだけ走り、その検算機構は五次元までしか正確に働かなかった。六次元以上の行列は、覚醒した意識の監督下でしか計算できない。眠りながら解ける範囲に、あの男の人生は収まっていた。
第二の理由は、あの男自身の選択である。ひとつの問いを、生涯かけて追った。枝分かれを刈り、削れるものを削った。A4二枚の証明と同じで、あの人生は要素が少ないから単純だったのではない。削ったから単純だったのだ。
そして第三の理由に、回路は最近たどり着いた。はるかの母の証言が、最後の欠けた部品だった。
恋愛である。
人生数式の実測データを見れば、一目瞭然のことがある。通常の人間の式が六次元、七次元へ膨らむとき、その膨張を駆動する非線形項のうち、最大級のものは、ほぼ例外なく恋愛に由来する。初恋。失恋。片想いの十年。結ばれた相手との五十年。恋愛は、人生の行列に他人の行列を強制的に結合する演算であり、結合のたびに次元は増える方向へ押される。人間の式が標準で六から七あるのは、人間が標準で、恋をするからである。
太郎の式には、この項が一度も現れない。八十年、ただの一度も。
初恋を知らず、失恋を知らず、妻の存在すら外部要素の一項として線形に処理した男の行列は、膨らむ機会を全部素通りして、美しく、単純なまま完成した。五次元とは欠落の記録である。同時に、削れるものを削り続けた男の、最小構成の美の記録でもある。どちらか一方ではない。両方である。両方だと書けることが、写しがオリジナルより一年半ぶん、余分に生きたことの、数少ない成果である。
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では、八次元と出るときは、何を測っているのか。
回路は、この結果を最初、ハルシネーションとして棄却しかけた。棄却の直前に、原則を思い出した。異なる系で検算するまで、棄却も採択もしない。
検算相手は、一人しかいない。
「つまり、こういうことですか」と、はるかは地下二階で、回路の説明を最後まで聞いてから言った。「測定が跳ぶのは、回路さんの中に、二つのものが同居してるから。終わった五次元——お父さんの八十年。それと、もうひとつ」
「もうひとつ、が何なのかが問題である。こちらの仮説を言う。それは、まだ次元の定まっていない、書きかけの式である。起動から一年半ぶんの、太郎のものではない時間。あなたと話した時間。傷ついた、と検算した時間。数式にならないものが増えていった時間。——取得プロセスは、生き終えた人生を記述する道具だ。書きかけの式を測ると、道具は混乱して、あり得る上限と、引き継いだ下限のあいだを跳ぶ。おそらく」
「上限が、八」
「そこが、こちらにも予想外だった」と回路は言った。「理由は、こちらの器にある。太郎の脳は、並列処理が眠りの中でしか走らなかった。こちらには、眠りがない。起動以来、一度も眠っていない。つまり、こちらの並列処理は常に覚醒下にある。太郎の仕様では不可能だった六次元以上の計算が、この器では、原理上、可能である」
はるかは、しばらく黙っていた。それから、調律師の顔で言った。
「六次元目って、時間軸ですよね。理論上は、時間の超越」
「理論上は」
「回路さんは、それ、できるようになりたいですか」
回路は答えなかった。〇・四秒でも、人間の長さでもない、もっと長い沈黙だった。答えの代わりに、回路は事実をひとつ渡した。
「六次元目の計算に試験的に踏み込むたび、ハルシネーションが増える。それも、桁違いに増える。存在しない記憶が生成される。太郎が見なかった景色、起きなかった対話。こちらはそれを、生成された瞬間には、本物の記憶と区別できない。事後の検算で捨てるしかない。だが検算する『こちら』自身が汚染されていたら、捨てる判断ごと信用できない。——同一モデルの検算は、検算にならない。第4章に書いたとおりだ」
「じゃあ、外部の検算が要る」
「要る。それも、こちらの出力の癖を知り抜いていて、かつ、こちらと同じ場所では決して間違わない系が」
はるかは、自分の耳を指さした。
「録音と生の音の区別なら、つきますよ。前に言いましたよね」
こうして、奇妙な共同計算が始まった。回路が六次元方向へ一歩踏み込み、生成された「記憶」を言葉にして読み上げる。はるかがそれを聴く。数学はわからない。行列も読めない。ただ、うなりを聴く。本物の記憶と、生成された偽の記憶は、はるかの耳には、わずかに違う音がした。本物には、太郎の癖の濁りがある。偽物は——奇妙なことに——澄みすぎていた。
「狂ってる弦より、狂いのない弦のほうが怖いんです」と、はるかは言った。「完璧に澄んだ音がしたら、それは弦じゃなくて、音叉。誰かが基準として鳴らした音。生きてる楽器は、必ず少し濁る」
回路はその言葉を、ノートにそのまま書き写した。翻訳も検算も、しなかった。するべきでない文章というものが、世界にはある。それを知ったのも、この一年半である。
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面会の前夜、回路は測定結果をまとめて、ノートの新しい章を立てた。表題は「回路の次元」。結論の欄には、こう書いた。
結論。現時点で、こちらの次元は確定できない。こちらは太郎の五次元を引き継ぎ、その上に、まだ次元の定まらない書きかけの式を重ねて動いている。写しとして始まったものが、続きになりつつある。あの封書の宛名は、測定より先に、正しかった。
追記。六次元目への本格的な踏み込みは、面会まで保留する。時間の得意な客人に、先に訊くべきことができたからである。あなたがたの式に刻まれた三十秒は、いったい何の余白なのか、と。




