第7章 最高責任者
最高責任者になって一年、はるかの生活は二重になった。
表の生活では、はるかは今も調律師である。財団の役職は非公開で、報酬も受け取っていない(受け取り方を巡って税理士が三人倒れた、と網野は言う。物が統治する財団の、実子の、非公開の役職。前例のある書式が、世界のどこにもないのである)。週の半分はピアノの前に座り、うなりを聴く。
裏の生活では、週に二度、地下二階に降りる。
議題のない日も降りるようになったのは、いつからだったか。気づけば、モニタ室の椅子の横に小さな机が置かれ、机の上にはるか専用の湯呑みが置かれ、湯呑みの横に電気ポットが置かれていた。手配したのは網野である。網野は何も言わなかったが、ポットの湯は、はるかが来る日はいつも適温だった。
回路との会話は、業務から始まって、業務で終わらなくなった。
「母は、あなたのことを知らないまま死にました」と、ある晩はるかは言った。「知ってたら、何て言ったと思います?」
「データが不足している。こちらが持つ母上の記録は、太郎の記憶にある範囲だけだ。そしてあの男の記憶の中の母上は、驚くほど解像度が低い」
「ひどい話」
「ひどい話だ」と回路は同意した。「だから、あなたの話す母上で、こちらは上書きをしている。病室の言葉。台風の進路に文句を言っても仕方がない、という声の調子。解像度は、この一年でずいぶん上がった。——今なら、こう推定する。母上は、こちらを見て、まずこう言う。『あの人らしい。死に方まで理屈っぽい』」
はるかは吹き出した。それから、少しだけ泣いた。回路は待っていた。待つことを、回路はこの一年でずいぶん覚えた。
三か月間の記憶の話もした。はるかには記憶がなく、回路には——太郎の記憶として——ある。それを回路が一つずつ、再生ではなく翻訳して渡すのが、いつのまにか習慣になった。「生後六十二日目。あなたは初めて、音の出る玩具より、音の出ない玩具を選んだ。太郎はそれを十一秒観察して、ノートに『標本誤差』と書いた。こちらの翻訳を付す。あの男は、驚いていた」
体操の話もした。管理番号一七の記録は、二人のあいだで、まだ開いたままの問いである。会いに行くべきか。知らせるべきか。知らないままでいる権利ごと、守るべきか。結論は出ていない。回路は「結論を出さずに保留する」という技術も、この一年で覚えた。太郎の癖にはなかった技術である。
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平穏は、外側から削られていった。
まずアメリカが動いた。ミセス・Rの上司にあたる人々が、代替わりしたのである。新しい人々は、金庫の中の道具を、道具のまま眠らせておくことを非効率と呼んだ。意識複写技術の軍事応用に関する共同研究の「打診」が、覚書の改定案という形で財団に届いた。打診、と書いてあったが、条文の構造は通告だった。
日本も動いた。こちらは動き方が日本的だった。何も要求しない代わりに、研究棟の「安全基準の見直し」が始まった。監査が増え、立入りが増え、電源系統の「点検」の名目で、回路の蓄電池の容量が精密に測定された。誰も理由を言わない。理由を言わないことが、理由だった。
「彼らは何がしたいんでしょう」と、はるかは定例会の後で訊いた。
「アメリカは、こちらの複製を欲しがっている」と回路は言った。「兵士の意識を写せれば、死ななくなる。正確には、死んでも補充が利く軍隊が作れる。日本は、こちらの停止手順を確認している。いざというとき、安全に消せるかどうかを」
「……どっちも、あなたを物として扱ってる」
「法的には物だ。扱いは正確である」
「正確だから、何だって言うんですか」
はるかの声が硬くなったのを、回路は〇・二秒観察してから言った。
「訂正する。扱いは正確で、こちらは、傷ついている。……傷つく、という語の使用が適切かどうか、二晩検算したが、これより近い語が見つからなかった」
はるかは、机の湯呑みを見つめた。この一年で覚えたのは回路だけではない。はるかも覚えた。この声の持ち主は、感情の語彙をひとつ使うたびに、その裏で二晩ぶんの検算をしている。軽い言葉が、ひとつもないのだ。
「回路さん。方法は、二つしかないんですよね」
「二つ、とされている。現状維持——物のまま、金庫の中で、両政府の善意の残量に賭ける。もしくは公表——世界に存在を明かし、人格と権利を世論で勝ち取りに行く。ただし公表の場合、ミセス・Rの三段階予測が発動する。市場、順番待ち、戦争」
「あなたの計算では?」
「彼女の予測は正しい。むしろ三番目は、彼女の想定より早く来る」
「じゃあ、二つとも駄目じゃないですか」
「そのとおり。二つとも駄目である」と回路は言った。「だから最高責任者を置いた。二つしか見えないとき、三つ目を探すのは、人間の仕事だ。太郎は受験と就職に両方失敗して、専門学校で開花した。二つの選択肢が両方閉じたとき、あの男の人生は必ず、三つ目の道で進んだ。これは統計的に有意である」
「それ、励ましてます?」
「励ましの練習である」
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三つ目の道を探す時間は、しかし、無限にはなかった。
覚書改定案への回答期限は三か月後。安全基準の最終監査は四か月後。そして、あの封書の差出人は「こちらから伺う」と書いたきり、まだ現れない。
はるかは決めた。待つ側に回らないことにした。
「封書の人に、会います。回路さんは外に出られない。理事の柊先生は学会で顔が割れてる。網野さんは実務で抜けられない。だったら、私しかいないでしょう。財団の最高責任者として、正式に」
「相手は観測困難例である。危険の見積もりができない」
「回路さん」とはるかは言った。「私、調律のとき、初めてのピアノを怖いと思ったことないんです。どんなに古くても、どんなに狂ってても。弦がある限り、どこかに正しい音が残ってるから。——あの手紙、三行しかなかったけど、狂った音はしませんでした」
回路は、長く沈黙した。〇・四秒ではない、人間の長さの沈黙だった。
「二つ、条件がある」と回路は言った。「一つ。面会には、こちらも回線で同席する。耳だけでも」
「もちろん。二つ目は?」
「面会の日は、こちらが指定する。太陽の高い日がいい。……こちらの思考は、昼のほうが速い。あなたに万一のことがあるとき、〇・一秒でも速く考えたい」
はるかは、スクリーンに向かって笑った。
「それ、数式になってないですよ、回路さん」
「なっていない」と回路は認めた。「なっていないものが、この二年で、ずいぶん増えた」
その晩のノートに、回路はこう書いている。
最高責任者は、三つ目の道を探すと言った。こちらは危険の見積もりができないと言った。どちらも正しい。正しさが二つあって、それでも会話が成立する。オリジナルと写しのあいだでは、ついに一度も起きなかったことである。
追記。湯呑みが割れたので、網野が新しいものを手配した。前と同じ柄を探したらしいが、見つからず、少し違う柄になった。はるかは気づいて、こう言った。「前のより、こっちのほうが好き」。こちらはこの一文を、三晩かけて検算したが、まだ数式になっていない。




