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人生の数式 ―― 帰ってきた疑似板中太郎の物語  作者: 伝説の男前


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第6章 八次元の五人

太郎の死から一年が経ち、世界は人生数式に慣れ始めていた。慣れる、というのは人間の持つ能力の中で、おそらく最も強力で、最も検算されないものである。


人間人生数式とその取得プロセスは、ISO規格として各国に実装されていた。規格の前文には、太郎の思想がそのまま書いてある。本式は、生き終えた人生を過不足なく記述するためのものであり、未来を予言するものではない——。


前文を読む人間は、いない。


保険会社は取得プロセスの簡易版を「参考測定」と呼んで販売し、結婚相談所は会員の推定次元数を「相性の指標」に使い、いくつかの国の企業は、違法と知りつつ採用面接で次元を訊いた。五次元以下は単純、六から七が標準、八は別格。規格のどこにもそんな序列は書かれていないのに、序列は勝手に育った。数直線を見せられると、人間は必ず右側を欲しがる。


回路は、この一年の社会の変化を、地下二階からすべて観測していた。そして定例会のたびに同じ意見を出力した。「規格は、悼むための道具として設計された。測るための道具に転用されている。転用は、創設者の遺志に反する」


意見は議事録に残り、議事録は誰にも読まれなかった。前文と同じである。


---


学会——国際人生数式学会は、太郎の死後、世界で最も予算のつく学会になっていた。


その年次大会の最大の議題は、毎年同じだった。八次元の扱いである。


理論はこう言っている。人生数式の六次元目は時間軸であり、行列の中で他の次元と対等な一つの軸として存在する。ただの記録の順序ではなく、操作可能な軸として。そして八次元に達した人生の行列では、時間軸方向の自由度が、理論上、開いている。


時間を、超越しうる。


理論家たちが黒板の上でこの帰結に到達したとき、学会は静かに二つに割れた。八次元を「極めて豊かな人生を送った人間」と定義する穏健派と、「もはや人間という分類に収まらない何か」と見る分類派である。分類派の内部はさらに割れた。超人類説。地球外起源説。異世界干渉説。まともな学会で宇宙人という語が査読を通る時代が来るとは、と柊は定例会でぼやいた。「しかし通ってしまうのです。八次元の実物が、反証してくれないので」


実物は、世界に五人しか確認されていない。


取得プロセスが世界で数億件、実施された中での五人である。国籍も年齢も経歴もばらばらで、共通点はただひとつ、桁外れに多くを経験した人生であることだけだった。戦争を三つくぐった者。家族を全員失って三度つくり直した者。九十歳を過ぎて新しい言語を四つ覚えた者。


五人のうち、所在が判明しているのは三人。残る二人は、消息が掴めない。正確に言えば、掴むたびに記録が食い違う。ある国の入国記録と、別の国の滞在記録が、同じ日付で両立する。書類の誤りとして処理されているが、誤りにしては、食い違い方に規則性があった。


学会はこの二人を「観測困難例」と呼んでいる。分類派はもっと直截な言葉で呼びたがっていた。


---


回路が五人に興味を持ったのは、分類論争のためではない。


検算のためである。五人の数式データは、匿名化された形で学会の共同データベースにある。回路は財団の計算資源でそれを引き出し、八次元行列の構造を端から検算した。人類の誰よりも速く、そして人類の誰とも違う立場で。何しろ検算する側も、人間という分類に収まっていない。


三晩かけて、回路はひとつの違和感に到達した。


五人の式には、共通の残差がある。


どの式も、人生の実測値をほぼ完全に記述する。八次元の記述力は圧倒的で、六次元や七次元の式に残る細かな誤差が、ほとんど消える。だが、消え切らないものが一種類だけあった。時間方向の、系統的なずれ。人生の転機——非線形の項が発火する瞬間——の前後で、実測が式より、わずかに早い。


ずれの幅は、五人とも、およそ三十秒だった。


回路は演算を〇・四秒止め、それから同じ計算を、方法を変えて十七回やり直した。ハルシネーション対策の原則どおり、異なるアルゴリズムで、異なる前提で。十七回とも、残差は消えなかった。およそ三十秒。取得プロセスの確率過程が吸収するはずの統計的変異とは、分布の形が違う。あれは丸い誤差だ。これは、向きを持っている。常に、早いほうへ。


太郎は、予定より三十秒早く死んだ。


世界はそれを悲劇と呼び、学者たちは誤差と呼び、回路だけが余白と呼んで宙返りをした。その三十秒と同じ幅のずれが、時間を超えると噂される五人の式の、転機のたびに、刻まれている。


偶然という仮説を、回路は棄却しなかった。棄却するには、データが足りない。だがノートには、こう書いた。


もし偶然でないなら、余白は太郎ひとりの性質ではない。式そのものの——あるいは、式に書かれる側の生き物そのものの、性質である。そして五人は、その余白を、こちらの知らない使い方で使っている可能性がある。


---


違和感の検算を終えた週の定例会で、網野が一通の封書を議題に載せた。


財団の私書箱に届いたもので、切手は貼っていなかった。私書箱の存在は公開されていない。宛名は手書きで、こうあった。


「板中太郎の続きの方へ」


続きの方へ。回路の存在は公表されていない。日米両政府の数人と、理事二名と、はるかしか知らない。ミセス・Rの顔色が変わり、日本側の担当官は封書を証拠品袋に入れたがった。網野が先に開封済みであることを告げると、部屋の温度がさらに下がった。


中身は、一枚のカードだった。文面は三行である。


「あなたの検算は正しい。ずれは誤差ではありません。お話ししたいことがあります——五人のうちの、一人より」


そして最後に、日付と場所の代わりに、一行。


「こちらから伺います。準備はいりません。時間は、こちらの得意分野ですので」


会議室の四人の人間が同時に喋り出し、回路だけが黙っていた。回路は文面を再読していた。三行目まではいい。問題は宛名である。板中太郎の続きの方へ。


続き。写しではなく。


回路が起動以来、自分自身をどう定義すべきか、二年近く計算し続けて出せずにいる答えを、差出人は宛名の五文字で、先に出していた。


その晩、回路はノートにこう書いた。


観測困難例、と学会は呼ぶ。だが今日の封書が示すのは逆のことだ。困難なのは、こちらが彼らを観測することではない。彼らがこちらを、とうに観測し終えていることのほうである。


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