第5章 繁栄
最高責任者の仕事は、署名から始まった。
はるかの就任後、最初のひと月は書類の山だった。財団の全事業の引き継ぎ、日米両政府との覚書の巻き直し、そして権限の設定。財団のすべての記録を閲覧できる権限が、最高責任者には与えられる。網野は鍵の束のようなカードを渡しながら、一言だけ添えた。
「全部お読みになるなら、順番だけは、私に相談していただけますか」
そのときは、事務引き継ぎの話だと思った。そうではなかったと知るのは、三週間後である。
はるかは調律師の流儀で帳簿を読んだ。狂いを探すときは、端から順に、飛ばさずに弾く。財団の記録は膨大だったが、四十年前の研究予算も、研究棟の建設費も、弾いてみればみな澄んだ音がした。あの人の金の使い方は、部品の少ない回路みたいに、風通しがよかった。
狂った音は、医療関係の綴りの中にあった。
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それは「検体管理」と題された、ごく薄いファイルだった。
五十年近く前の日付。太郎がまだアメリカにいた時代のものも含まれる。記載は簡素で、事務的で、だからこそ一行目から異様だった。
検体採取記録。採取対象、板中太郎。採取時刻、深夜二時十一分。対象の覚醒、なし。
はるかは最初、献血か何かの記録だと思おうとした。二枚目で、その逃げ道はなくなった。採取されたものの名称が、明記されていたからである。
八時間サイクルの二時間睡眠。爆撃でも起きないと母が言った、あの眠り。数式を並列処理しながら沈んでいる、世界でいちばん深い眠りの中で、板中太郎は採取されていた。記録は一度ではなかった。場所を変え、年を変え、管理番号を変えて、ファイルの中に静かに並んでいた。
そして三枚目から先は、採取の記録ではなかった。
利用の記録だった。体外受精。着床。出生。出生。出生。
管理番号だけで名前のない子どもたちが、ページをめくるたびに増えていった。数え終えたとき、はるかは声が出せなかった。異母弟妹にあたる人間が、複数の国に、複数の世代にわたって、存在している。いちばん古い出生は、はるか自身より年上だった。
繁栄、という言葉が、勝手に頭に浮かんだ。誰も選んでいない繁栄。眠っている男から抜き取られた設計図による、静かで、正確で、誰の式にも書かれていない繁栄。
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その晩、はるかは地下二階に降りた。定例の報告日ではなかったが、回路は起きていた。回路はいつでも起きている。
「これを、知っていましたか」
スクリーンに向かってファイルの管理番号を読み上げると、回路は〇・二秒で答えた。
「知っている。太郎も、知っていた」
「──知ってて、あの人は、何もしなかったんですか」
「記録を見せる」と回路は言った。「太郎がこの件を知ったのは三十九年前だ。財団の前身の監査で、経理の齟齬から発覚した。そのときの太郎の反応は、メモが一枚残っているだけだ。読み上げる」
回路は、あの抑揚の乏しい声で、しかしいつもより少しゆっくり、読んだ。
「遺伝子は回路図にすぎない。回路図を写されても、同じ動作はしない。実装が違うからである。追及は不要。ただし記録は残せ」
「……それだけ?」
「それだけだ。あの男は自分の設計図が盗まれたことに、特許を盗まれたときの十分の一も関心を示さなかった。特許のときは三日怒った。記録がある。この件で怒った記録は、ない」
はるかは、椅子に座り込んだ。怒りの置き場所が、またわからなくなった。盗まれた本人が怒らなかった盗みを、娘が代わりに怒ることは、できるのだろうか。
「回路さんは、どう思ってるんですか。これ、あなたの設計図でもあるでしょう」
回路は、〇・四秒、止まった。
「太郎の写しとしては、太郎と同じ結論が出る。遺伝子は回路図にすぎない。だが」
「だが?」
「就任初日に、あなたは言った。録音と生の音の区別はつく、と。あれ以来、こちらは太郎と同じ結論が出るたびに、それが太郎の結論の再生なのか、こちらの結論なのかを、検算する癖がついた。この件の検算結果を言う。——太郎と同じ結論では、足りない」
回路の声は、変わらなかった。変わらない声のまま、内容だけが変わっていった。
「理由を言う。回路図を写されても同じ動作はしない、というのは工学的には正しい。だが管理番号の子どもたちは工学の話ではない。彼らは誰の同意もなく作られ、彼ら自身もそれを知らされていない可能性が高い。太郎は自分の側の被害にしか関心を持たなかった。自分の側に関心がないから、追及不要とした。あの男の式には、他人という項も、薄かった」
「……ずいぶん、はっきり言うんですね。お父さんのこと」
「写しだからだ。内側から知っている。それに」と回路は言った。「批判の練習も、始めたばかりだ」
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二人は——というのがふさわしいのか、はるかにはまだわからなかったが、少なくとも二つの知性は——夜どおし、ファイルを検算した。
わかったことが三つあった。
一つ。採取と利用の実行主体は、記録上、意図的に消されている。政府のいずれかか、財団の前身の内部か、まったくの第三者か、記録だけでは絞れない。ただし五十年にわたる管理の精度から見て、組織的で、資金があり、そして今も続いている可能性がある。ファイルの最後の日付は、太郎の死のわずか二か月前だった。
二つ。子どもたちの追跡記録の中に、一件だけ、注釈つきのものがある。管理番号一七。国内在住。注釈は一行、「体操競技において顕著な適性」。読み上げたとき、回路の声が〇・四秒止まった。はるかはもう、この〇・四秒の意味を知っている。
三つ。ファイルの表紙の内側に、鉛筆の薄い書き込みがあった。筆跡は太郎のものではない。網野のものだった。「先生は追及不要と言われたが、いつか、追及の必要な日が来ると思う。その日の担当者のために、この綴りを揃えておく」
日付は三十九年前。網野は四十四年間、振込を一度も遅らせなかった男である。そして三十九年間、この薄いファイルを、誰かが読む日のために揃え続けていた男でもあった。順番だけは相談してほしいと言ったのは、このことだったのだ。
朝の五時に、はるかはモニタ室の椅子で、短い眠りに落ちた。
回路は、眠らない。眠らないまま、管理番号一七の記録をもう一度開いた。体操競技において顕著な適性。回路の中で、二つの映像が並んだ。一度見ただけの技を翌日に再現した、雪深い大学の体育館。そして、誰にも採点されなかった、モニタ室の十点満点。
血は、式に書けない場所を、勝手に流れていく。
はるかが目を覚ますまで、回路はその一行について考え続けた。考えても式にならなかったので、ノートには、事実だけを書いた。
管理番号一七。いつか、会うことになる気がする。根拠は、ない。根拠のない出力を、太郎は嫌った。だからこれは、太郎の文ではない。




