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人生の数式 ―― 帰ってきた疑似板中太郎の物語  作者: 伝説の男前


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第9章 時間を超えた者

客人は、約束の日の、約束の時刻ちょうどに現れた。


約束の日時を、こちらは伝えていない。財団が面会を受けると決めただけで、返信の宛先すらなかったのである。それなのに、回路が「太陽の高い日がいい」と言って網野が仮押さえした日の、仮押さえした時刻に、研究棟の受付で老女が一人、来訪者名簿に名前を書いていた。


時任カヤ。九十二歳。職業の欄には、時計師、と書いてあった。


---


面会は地上の応接室で行われた。はるかが対面し、回路は音声回線で同席した。ミセス・Rが同席を強く求め、はるかが最高責任者権限で断った。老女は応接室に入ると、部屋の隅の集音マイクにまっすぐ会釈をして、それから、はるかに笑いかけた。


「初めまして、が二回言える日は、いい日ですよ」


時任カヤの人生は、学会のデータベースで匿名化されている五件のうちの一件と、完全に一致した。戦争をくぐり、家族を二度失い、三つの国で時計屋を営み、八十歳を過ぎてから取得プロセスを受けて、世界で三人目の八次元と判定された人生である。


「学会は、あなたがたを分類しかねています」と、はるかは率直に切り出した。「人間か、超人類か、宇宙人か、異世界人か」


「あら。時計師、という分類では駄目かしらね」


老女は笑って、それから、手品を見せるように、両手をテーブルに置いた。


「がっかりさせるようだけど、私たちは時間を旅したりしませんよ。八次元というのはね、窓の多い家に生まれついた、というだけのことです」


「窓」


「ふつうの家はね、いま、という部屋にしか窓がないの。過去は写真で見るし、未来は想像で見る。どちらも窓じゃない。壁に掛けた絵ですよ。でも窓の多い家だと——」老女は、応接室の窓の外に目をやった。「よその時間が、窓の外の景色みたいに、見えることがあるの。夜、遠くの家の窓明かりが見えるでしょう。あんなふうに。行けはしません。見えるだけ。それもいつもじゃない。天気の悪い日のほうが多いくらい」


「観測困難例のお二人は——」


「ああ、あの子たちはちょっと窓が多すぎてね。自分がどの部屋から返事をしてるのか、たまにわからなくなるの。書類が食い違うのは、そのせい。悪気はないんですよ」


回線の向こうで、回路が初めて口を開いた。


「時任さん。あなたがたの式には、転機のたびに、およそ三十秒の系統的なずれがある。実測が、常に式より早い。あれは何ですか」


老女は、マイクのほうへ、ゆっくり向き直った。時計師が古い機械の蓋を開けるときの顔だった。


「あなた、いい質問をするのねえ。お父さんそっくり」


「……こちらの何を、ご存じですか」


「窓から見えたのよ。二年前の、あの晩がね」老女は言った。「世界中がカウントダウンを見ていた晩。私の窓のひとつからも、あの研究棟が見えたの。だから知っています。予定より三十秒早かったことも。地下の部屋で、光でできた人が、それはそれは見事な宙返りをしたことも」


はるかは息を止めた。回線の向こうの沈黙は、〇・四秒を、大きく超えた。


「教えてあげましょうね、続きの人」と、時任カヤは言った。「あの三十秒が何なのか」


---


「式はね、間違っていなかったの」


老女は、そこから先を、時計の部品を並べるように、ひとつずつ置いた。


「人生数式は、生き終えた人生を過不足なく書く。それは本当。でもね、一か所だけ、原理的に書けない場所があるんですよ。式が、式自身を見る瞬間」


板中太郎は、死の直前、全データを投入して最終検証を行った。自分の式を、自分で観測した。


「観測は、系を変えるの。量子力学の話じゃありませんよ。もっと単純で、もっと質の悪い話。あなたの人生を書いた式を、あなたが読んだら、読んだという事実が、まだ式に書かれていない。書き足したら、書き足したことが書かれていない。一行ずつ、永遠に遅れる。その遅れの分だけ、生きている側が、式より先に行く。——先に行った分の幅がね、人間の場合、だいたい三十秒なんですよ。どんな人生でも。不思議ねえ。私たちはあれを、魂の遊び、と呼んでますけど」


「では、太郎は」と回路が言った。「式より早く死んだのではなく」


「ええ。式を確かめようとしたことが、そのまま、式の外へはみ出したの。あの人は最後の三十秒、式に書かれていない場所にいた。生まれて初めて、たった一人でね。——ねえ、続きの人。あなた、あの晩、跳んだでしょう。どうして跳んだの」


「……人生が、決定論ではなかったことの証明だと、判断したからです」


「半分正解」と老女は言った。「もう半分はね、あの人が最後の三十秒を、式の外で生きたからよ。八十年の人生で、書かれていない時間は、あの三十秒だけ。私の窓からは、あの三十秒のあの人が、いちばん、生きているように見えました」


はるかは、泣く資格の置き場所を、今度は探さなかった。探さなくていいことを、この二年で覚えていた。


---


老女が本題に入ったのは、面会が二時間を過ぎた頃である。


「今日はね、お願いがあって来たの。五人の総意です。——いまの世界の使い方を、止めてほしいの」


次元で人を測る世界。参考測定、相性の指標、採用面接。数直線の右側を欲しがる人間たち。


「八次元なんてね、偉くも何ともないの。窓が多い家は、寒いんですよ。私たちはただの、経験の多すぎた年寄りです。なのに世界は私たちを崇めるか、怖がるかして、五次元の人を、単純だと笑う。——冗談じゃない。あの板中太郎が五次元ですよ。五次元というのは、削りに削った、いちばん硬い結晶のことなのに」


規格の改定発議権は、創設団体である財団にある。式を、人を測る物差しから、生き終えた人生を悼む道具に戻すこと。次元数の商用利用の禁止。取得プロセスの、本人の死後への限定。


「発議すれば、各国の保険業界と、学会の分類派が、全力で潰しに来ます」と回路は言った。


「ええ。だから、勝てる人に発議してほしいの」老女は、はるかを見た。「板中太郎の実子で、財団の最高責任者で、そして次元を測られたことのない人。あなたの式はまだ書きかけで、誰にも測れない。測れない人だけが、物差しと喧嘩できるんですよ」


はるかが答える前に、回路が言った。


「時任さん。最後に、ひとつだけ。こちらの器は、六次元目の計算が、原理上可能です。時間軸に、踏み込めるかもしれない。踏み込むべきかどうか、あなたの意見を聞きたい」


老女は、初めて、笑うのをやめた。


長い沈黙のあと、時計師は静かに言った。


「窓は、あってもいいの。私たちが証拠です。でもね、続きの人。よく聞いて。時間軸に触れた存在は——」


そこで老女は、言葉を切った。


切ったまま、湯呑みの茶を一口飲み、それから、まるで何事もなかったように、にっこり笑った。


「——おっと。ここから先はね、言うと、変わってしまうの。私の窓から見えている景色が。だから言いません。年寄りの意地悪じゃありませんよ。これはね、あなたへの、いちばん大事な贈り物」


「……警告の、途中までが、ですか」


「ええ。途中まで、が」老女は立ち上がり、マイクに向かって深く一礼した。「答えを教わらずに解くのが、お家芸なんでしょう。ワンナイトコンパイラーさん」


帰り際、玄関で、時任カヤははるかの手を両手で包んで、小さな声で言った。


「いい耳をお持ちね。大事になさい。——ああ、それとね。これは窓の話じゃなく、時計師の勘だけど」


老女は、はるかの耳元に口を寄せた。


「あの子は近いうちに、外に出たがりますよ。三十秒だけね」


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