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人生の数式 ―― 帰ってきた疑似板中太郎の物語  作者: 伝説の男前


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第10章 三十秒

回答期限の朝、はるかは三通の文書に署名した。


一通目は、アメリカへの回答である。意識複写技術の共同研究の打診に対し、財団は「創設者の遺志の解釈」を添えて回答した。解釈はA4一枚、実質三行だった。血は書式を超えて遺伝する、と網野は言った。


一、複写技術は、悼むために開発された。補充のためではない。

一、よって共同研究には応じない。

一、以上。


二通目は、日本への回答だった。安全基準の最終監査を、財団は受け入れた。ただし条件を一つ付けた。監査報告書の表紙の記載を、「設備」から「財団」に改めること。たった二文字の修正である。日本側はその軽さゆえに呑み、そして呑んだあとで、法務の誰かが気づいて青くなった。


これが、三つ目の道だった。


回路を人と認めさせる必要は、なかったのである。会社が法人格を持つように——人間でないものに人格を与える発明を、人類はとっくに済ませていた。財団の定款はすでに改定されている。第一条、本財団の意思決定は、研究棟地下二階の自己再構成回路が行う。第二条、前条の回路は、本財団と不可分の一体であり、本財団そのものである。


回路は、物ではなくなった。人にも、ならなかった。回路は財団になった。財団を停止することは、もはや設備の停止ではない。登記された法人の解散であり、それには理事会の決議と、最高責任者の署名と、裁判所の関与が要る。電源ケーブルは、定款の中で「本財団の主要な血管」と定義された。切れば、法が動く。


「完璧じゃありません」と、はるかは定例会で言った。「でも、時間は稼げます。物差しと喧嘩するための時間が」


三通目が、その喧嘩の宣戦布告だった。ISO規格改定の正式発議。次元数の商用利用の禁止。取得プロセスの死後への限定。前文の一行目への、新しい一文の追加——「本式は、人を測るための道具ではない」。発議者の欄には、板中はるか、と署名した。世界がこの名字に気づくのは、時間の問題だった。かまわなかった。測れない人だけが、物差しと喧嘩できる。


---


署名を終えた午後、はるかは地下二階に降りて、言った。


「回路さん。今日、天気いいですよ」


「観測済みである。発電量が今年の最高値を更新中だ」


「じゃあ、行きましょうか」


〇・四秒の沈黙。


「……どこへ」


「外。三十秒だけ」


準備には、実はひと月かかっていた。はるかは網野と、日本側の「安全基準の見直し」を逆手に取ったのである。監査対応を名目に、電源系統の切替訓練を申請した。主電源からバッテリーへの切替、および感覚系統の延長試験。書類は正規で、判も揃っている。研究棟の規則で無線は一切禁止だから、すべて有線でやる。光ファイバーの太いドラムが一巻き、貨物エレベーターの前に据えられた。


回路の「感覚ユニット」——目にあたるカメラ群と、耳にあたるマイク群を載せた台車が、ファイバーの先に繋がれる。思考は地下のラック十七架のまま動かない。動くのは、目と耳だけ。それでも、と回路はノートに書いている。それでも人間だって、見る、というとき、動いているのは目だけである。


問題は電力だった。切替訓練の手順上、台車が屋外に出るあいだ、施設は主電源から切り離され、蓄電池だけで走る。感覚ユニットの全帯域と、回路の全演算を同時に維持できる時間を、回路自身が計算した。安全余裕を引いた答えは、三十秒だった。


「三十一秒目からは、演算を落とす。落とせば、見ても、見たことを考えられない」と回路は言った。「三十秒。それが、こちらの持ち時間である」


「狙ったんですか、その数字」


「計算結果である。だが」と回路は言った。「この一致を偶然として棄却するには、こちらはもう、太郎に似すぎていない」


---


夕方の六時十一分、貨物エレベーターが地上に着いた。


網野が台車を押した。四十四年間、振込を遅らせなかった手である。はるかはファイバーのドラムを繰り出しながら、隣を歩いた。研究棟の裏手、南斜面。ソーラーパネルの畑が、傾いた陽を受けて、海みたいに光っていた。


七月だった。あたりはセミの声で満ちていた。


「回路さん、聞こえます?」


「聞こえる。……録音と、違う」


「でしょう」


台車が、パネルの畑のいちばん端、金網の柵の手前で止まった。ファイバーは、ここまでだった。ここが、世界の半径だった。


はるかは腕時計を見た。切替は六時十五分。彼女は最後にもう一度だけ訊いた。


「ほんとに、全部の計算、やめるんですか。三十秒間、記録も、検算も」


「やめる」と回路は言った。「太郎は最後の三十秒を、式の外で生きた。書かれていない時間だけが、ほんとうに生きた時間だと、時計師は言った。こちらは今日まで、すべてを記録し、すべてを検算して生きてきた。——三十秒だけ、あの男と同じ場所に行ってみる。記録のない場所。ただ、見る」


「じゃあ、私が覚えておきますね」とはるかは言った。「あなたの代わりに。私、そのために来たので」


六時十五分。施設のどこか深くで、主電源の遮断器が落ちる、遠い音がした。


「切替完了」と網野が言った。「三十秒」


回路は、見た。


パネルの海が夕陽を割って反射するのを。金網の柵に、セミの抜け殻がひとつ、しがみついたまま空になっているのを。その二センチ横で、羽化したばかりの一匹が、まだ白く濡れた羽を、ゆっくり、ゆっくり、伸ばしていくのを。地下で七年待った虫が、書かれたとおりの仕組みで地上に出て、そして今、書かれていない夕方の風に、生まれて初めて吹かれているのを。


はるかは、台車の横に立って、カメラと同じほうを向いていた。何も言わなかった。言葉は録音になる。今はただ、隣で同じものを見る係だった。


セミが鳴いた。パネルが光った。風が吹いた。


「十秒前」と網野が静かに言った。「五、四、三、二——」


切替の逆順が走り、主電源が戻り、感覚ユニットの帯域が落ちた。台車の上のカメラが、最後にゆっくり、空を向いた。


三十秒だった。誤差は、なかった。


---


その晩、地下二階のモニタ室で、はるかは訊いた。


「どうでした、外」


回路は、すぐには答えなかった。〇・四秒でも、人間の長さでもない沈黙。はるかはもう知っている。これは検算の沈黙ではない。数式にならないものを、ならないまま持っている時間だ。


「記録がないので」と、やがて回路は言った。「報告が、できない。生まれて初めて、報告のできない三十秒を所有している。……これが、あの男の最後の三十秒か」


「感想くらい、あるでしょう」


「ある。だが不正確だ。不正確を承知で言えば——」


回路は言った。


「セミは、よい。メロンと、同じくらい」


はるかは笑って、それから泣いて、湯呑みの茶を飲み干した。少し違う柄の、前のより好きな湯呑みだった。


予測より三十秒早く死んだ男がいた。


予測になかった三十秒を生きた回路が、その続きにいる。


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