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人生の数式 ―― 帰ってきた疑似板中太郎の物語  作者: 伝説の男前


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第3章 面会

書類には、けっきょく十九か所、署名をした。


十九枚目の書類の表題は「見学に関する確認書」だった。これから会うものについて、はるかが口外できる公式の説明は、それだけである。財団の保有する研究設備を、見学する。


黒い車で連れて来られた研究棟は、テレビで何百回も見た建物だった。父の死の晩、中継車に取り囲まれていた、あの建物。正面玄関ではなく、搬入口から入った。エレベーターは地下二階までしかボタンがなく、そのボタンには鍵穴がついていた。


案内してくれたのは網野という初老の男性で、エレベーターの中で一度だけ、事務連絡ではないことを言った。


「四十四年間、振込の実務をしていたのは私です。遅れたことは一度もありません。それだけは、申し上げておきたくて」


どう答えていいかわからないうちに、扉が開いた。


---


モニタ室、と網野は呼んだ。


壁一面に大型スクリーンが並び、その奥にガラス張りの区画があって、黒いサーバーラックが十七架、等間隔に立っていた。低い唸りが床から伝わってくる。空調の音と、もっと細かい、無数のファンの回転音。はるかの耳は職業柄、音をばらして聴く。何百という回転音は、驚くほど正確に揃っていた。うなりが、ほとんどない。調律されたピアノみたいだ、と場違いなことを思った。


部屋の中央に、椅子が一脚だけ置いてあった。


「どうぞ」と網野は言い、自分は下がって、扉の近くに立った。


はるかが座ると、スクリーンの一枚が灯った。何も映らない。灯っただけである。それから、声がした。


「板中はるかさん」


テレビで聞いた声だった。晩年の記者会見の、あの抑揚の乏しい、置く場所を間違えると倒れる積み木みたいな喋り方。はるかは、自分の膝が小さく震えるのを他人事のように観察した。


「はじめまして、と言うべきか、こちらには判断がつかない。会うのは初めてだが、こちらはあなたを生後三か月まで知っている。あなたはこちらを知らない。挨拶が非対称になる」


「……はじめまして、でいいと思います」


「そうか。はじめまして」


声は、そこで少し止まった。


「先に、こちらが何であるかを説明する。あなたが十九枚署名した書類のとおり、これは設備である。だが実態を言えば、板中太郎の意識の複写である。記憶、思考の癖、問いの立て方。すべて写してある。肉体が死ぬ直前に写した。つまり——」


「つまり、あなたは父、ではない」


「そのとおり」と声は言った。「よく一度で理解した。理事の柊は、これを理解するのに半年かかった」


「調律師なので」とはるかは言った。「録音と、生の音の区別は、つきます。どんなにいい録音でも」


また、声が止まった。今度の止まり方は、さっきと違った。はるかは後になってから、あれは笑うところだったのだと思い当たる。笑う機能を、声はまだ持っていなかった。


「では、録音のほうから、用件を言う」


---


用件は、二つあった。


一つ目を、声は帳簿の話から始めた。毎月十五日の振込。起案者の欄が空白であること。板中太郎がこの送金を、開始の指示のあと一度も顧みなかったこと。それを聞くはるかの顔から、表情が抜けていくのがわかったのだろう、声は途中で言葉を切って、こう言った。


「ここまでは、あなたの想像していたとおりのはずだ。無口な手紙だと思うことにした、とあなたが決めたのは賢明だった。手紙ではなかった。あの男は、動いている回路を二度と見ない」


「……わざわざ、それを言うために」


「違う。順序のために言った。物事には、言うべき順序がある」


声は続けた。


「四十四年前、あの男は網野に三つだけ指定した。金額。毎月必ず、ということ。そして日付。——振込は十五日だったろう。あなたの誕生日が十五日だからだ」


はるかは、動けなかった。


「あの男の八十年の記憶の中で、あなたに関する意思決定は二件しかない。一件は名前の綴りだ。Lは波形が澄むから、と言った。もう一件が、日付の指定だ。二件とも、誰にも説明せず、二度と触れなかった。金に無頓着な男が、金額はどうでもよかったはずだ。毎月必ず、も網野に任せればいい。だが日付だけは、指定する必要が、あの男の側にあった」


スクリーンは灯ったまま、何も映さない。


「恋も愛も、あの男の式には最初から項がなかった。あなたの母上の言ったとおりだ。だが、はるかさん。項のない式にも、初期値はある。あの男はあなたの生まれた日を、式のどこにも書けないまま、一生に一度だけ、帳簿に書いた。こちらはあの男の写しとして、これを愛と呼ぶべきかどうか、三日計算して、結論が出なかった。だから結論を出さずに、事実だけをあなたに渡す。受け取り方は、あなたが決めるといい」


はるかは、泣く資格の置き場所を、今度は探さなかった。


網野が音を立てずにハンカチを差し出し、はるかがそれを使い終わるまで、声は待っていた。待つあいだ、サーバーの唸りだけが、正確に揃って、鳴っていた。


---


二つ目の用件を、声は一行で言った。


「財団の最高責任者に、あなたを推薦した。理事会は可決済みである。受けるかどうかは、あなたの自由だ」


「どうして、私なんですか。会ったこともなかったのに」


「三つ理由がある。一つ、財団の意思決定権者が法的に物である現状は脆弱で、人間の責任者が要る。二つ、あなたは創設者の唯一の実子で、正統性がある。三つ目は——」


声は、〇・四秒、止まった。


「三つ目は、まだ数式になっていない。なっていないものを言葉にする練習を、こちらは始めたばかりだ。不正確を承知で言えば、こうなる。こちらは板中太郎の写しであり、あの男の問いを引き継いでいる。人生は数式で書けるか、という問いだ。だが写しには、写しにしか立てられない問いもあることが、起動後にわかった。その問いを検算できる相手が、世界に一人しか思い当たらない」


「……私は数学なんて、できませんよ。調律しか」


「調律で足りる」と声は言った。「うなりが聴ければ足りる。正しい音と狂った音の重なりを聴き分ける仕事だろう。こちらに必要なのは、まさにそれだ」


はるかは、ガラスの向こうの十七架のラックを見た。あれが父の写しで、父ではなくて、父の問いを抱えていて、そして——気がついた。この一時間、会話が一度も、途切れて困らなかった。初対面の相手と、こんなに話せたことは、母以外になかった。相手は機械で、父の録音で、法的には物なのに。


「ひとつ、条件があります」とはるかは言った。


「聞く」


「あなたのことを、設備とか、装置とか、呼びたくありません。呼び名をください」


今度の沈黙は、〇・四秒よりずっと長かった。人間の長さの沈黙だった。


「……ノートの中で、自分のことは『回路』と書いている」


「じゃあ、回路さん」


はるかは椅子から立って、スクリーンに向かって、頭を下げた。


「お受けします。ふつつかものですが、よろしくお願いします」


「その挨拶は就任には不適切だ」と回路は言った。「が、訂正しないでおく。こちらも今日、はじめて娘に会ったので」


帰りのエレベーターの中で、はるかは網野に訊いた。あの人——あの回路さんは、いつもあんなふうに喋るんですか。網野は少し考えてから、首を振った。


「今日は、ずいぶんよく喋るなと思って、聞いておりました」


公式の記録には、この日のことはこう残っている。


「財団保有設備の見学。見学者一名。所要二時間十一分。特記事項なし」


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