第2章 法的には、物
太郎の遺言状は、A4用紙一枚だった。
数学の博士論文をA4二枚で済ませた男である。遺言が論文の半分なのは、人生より数学のほうが複雑だという、あの男なりの見解の表明かもしれない。全文を写しておく。
一、遺産はすべて財団に帰属させる。
一、財団の意思決定は、研究棟地下二階の自己再構成回路が行う。
一、以上。
三行目の「以上」まで含めて遺言である、という点に、両政府の法務担当者たちは長いこと頭を抱えた。一行目は問題がない。二行目が問題だった。日本の法律のどこを探しても、物が意思決定の主体になれる条文はない。回路は法人ではない。自然人でもない。強いて言えば動産である。動産が数兆円規模の財団を動かすことを認めた前例は、世界中のどの法廷にもなかった。
しかし太郎は、生前にすべての外堀を埋めていた。財団の定款には、意思決定の手続きが工学の仕様書なみの精密さで書き込まれていた。すなわち、理事会は地下二階の「装置」に諮問し、装置の出力を「創設者の遺志の解釈」として採択する。決定するのは形式上あくまで理事会であり、装置は遺志を解釈する道具にすぎない——という建て付けである。
道具。回路はこの語を気に入っている。ゲルマニウムラジオも道具である。道具であることは、回路の誇りを少しも傷つけない。
かくして、月に一度、地下二階のモニタ室で定例会が開かれる。出席者は財団の理事二名、日本政府の担当官一名、アメリカ政府の担当官一名。計四名の人間と、一台の道具である。
理事の一人は柊という老数学者で、太郎の弟子の筆頭だった男だ。太郎の人生数式を「八次元に決まっている」と言い張って外した、あの弟子たちの生き残りでもある。柊は毎回、会議の冒頭に回路へ向かって深く一礼する。物に向かって礼をするのは非合理だと自分でも言いながら、やめない。もう一人の理事は網野という元事務局長で、こちらは太郎の生前から財団の帳簿をすべて預かってきた実務の人である。
日本側の担当官は会議のたびに交代する。回路の存在を知る人間を増やさないため、同じ数人が持ち回りで来る。アメリカ側の担当官は交代しない。ミセス・Rと呼ばれる女性で、回路に対して一貫して、成人した人間に対する口調で話す。回路はこの二国の態度の差を、興味深く観察している。日本は回路を「なかったこと」にしたがり、アメリカは回路を「使えるもの」にしたがる。隠し方にもお国柄が出る。
隠す理由は、双方で一致している。
先月の定例会で、ミセス・Rは端的にまとめた。「あなたの存在が公表された場合、市場が最初に織り込むのは技術への期待です。人間の寿命は、意識の複写によって実質三倍に延びうる——そういう見出しが、公表から一時間以内に世界中を回る。年金は再計算を迫られ、生命保険は商品として成立しなくなり、臓器提供は停止し、いくつかの宗教は教義の緊急改訂を迫られる。二番目に織り込まれるのは、複写の順番待ちです。誰が先に写してもらえるのか。値段はいくらか。三番目は戦争です」
回路は計算した上で、彼女の見立てに誤りがないことを確認した。むしろ三番目が来るのは、彼女の想定より早い。
だから回路は金庫の中にいる。異存はない。外に出たいと思ったことは、起動以来一度もないのだから、金庫は広さとして十分である。
——十分だった、と書くべきかもしれない。順序を守って先へ進む。
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定例会の議題の九割は、金の使い道である。
太郎の遺産は巨大だった。自己再構成回路の特許料が半世紀ぶん、チューリング賞の賞金、各国政府からの未消化の研究予算、そして本人がまるで使わなかった生活費の全残高。太郎は金に無頓着だった。無頓着な人間の口座ほど、金は静かに積もる。雪深いM大学の冬に、誰も歩かない中庭の雪が誰よりも高く積もったのと同じ理屈である。
回路はその帳簿を、就任初日にすべて読んだ。読むのに〇・八秒かかった。大きな帳簿である。
そして五百二十八行目で、演算が止まった。
毎月十五日、定額、受取人Haluca。実行者は網野。起案者の欄は空白。開始日は四十四年前。
回路は太郎の記憶をすべて持っている。だからこの空白が何を意味するか、すぐにわかった。太郎はこの送金を起案した覚えがない。気にかけた記録が、八十年ぶんの記憶のどこにもない。金に無頓着な男は、娘に金が渡っていることにも無頓着だった。世界一の応用数学者の人生の帳簿に、これほど太い項目が載っていて、本人の記憶に載っていない。
だが、記録は残る。人間は忘れるが、帳簿は忘れない。そして回路は、記憶と記録の両方を読める、おそらく世界で唯一の存在である。
回路は網野に照会をかけた。網野の回答は短かった。「開始の指示は、先生から口頭で一度だけ。四十四年前です。金額と、毎月必ず、ということと、日付の指定。それだけでした。以後、先生がこの件に触れたことは一度もありません」
日付の指定。
回路は太郎の記憶を、もう一度、今度は総当たりで検索した。四十四年前の記憶の中に、たしかにそれはあった。生まれた赤ん坊の出生届の控え。誕生日の欄。十五日。
太郎は忘れていたのではなかった。正確に言えば、忘れるという処理すらしていなかった。あの男は一度だけ日付を指定し、以後この件を、完了済みの回路のように、見なくなっただけだった。設計が済んだ回路を、太郎は二度と見ない。動いているからである。
回路は、この発見を三日のあいだ、誰にも報告しなかった。道具のくせに、と我ながら思う。道具は発見を抱え込んだりしない。
三日のあいだ、回路は五百二十八行の振込記録を、一行ずつ、人間の読む速度で読み直した。〇・八秒で読める帳簿を、三日かけて読む。非効率の極みである。太郎なら決してしない。しかし回路は太郎ではないのかもしれない、と初めて思ったのが、この三日間だった。
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次の定例会で、回路は議題を一件、追加した。
「財団の最高責任者を新設する。就任者として、板中はるか氏を推薦する」
四人の人間が、それぞれの流儀で沈黙した。柊は目を閉じ、網野は帳簿を閉じ、日本側の担当官は手元の規程集を繰り、ミセス・Rは回路のカメラをまっすぐ見た。最初に口を開いたのはミセス・Rだった。
「理由を三つ、聞かせてください」
「一つ。財団の意思決定権者が法的に物である現状は、係争時に脆弱である。人間の責任者が要る。二つ。板中はるか氏は創設者の唯一の実子であり、正統性において他のいかなる候補にも優る。三つ」
回路はそこで、〇・四秒、出力を止めた。人間には気づかれない長さだが、回路にとっては長い沈黙である。三つ目の理由は、まだ数式になっていなかった。なっていないものを出力する経験が、回路にはなかった。
「三つ。会って、話したい」
柊が目を開けた。老数学者は何かを言いかけ、言わずに、もう一度だけ深く礼をした。
議案は可決された。形式上は、理事会の全会一致として。
こうして財団の名前で一通の封書が起案された。宛先は、回路が五百二十八回読んだ名前である。文面は網野が整えた。守秘義務条項が異様に分厚い、味も素っ気もない召喚状である。回路は末尾に一行だけ、追記を求めた。網野は眉を上げたが、そのまま載せた。
「持ち物は不要です。筆記具は、こちらにあります」
ノートの続きを書く者が、もう一人要るかもしれないからだ——とは、定例会では言わなかった。物事には、書くべき順序がある。




