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人生の数式 ―― 帰ってきた疑似板中太郎の物語  作者: 伝説の男前


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第1章 毎月十五日の振込

はるかの一か月は、十五日を境に折り返す。


毎月十五日の朝、記帳された通帳には、必ず同じ一行が印字されている。振込人の欄には、聞いたこともない財団の名前。金額は、多すぎもせず、少なすぎもしない。家賃と食費と、ささやかな貯金がちょうど成り立つだけの額が、四十四年間、一度も欠けたことがなかった。


はるかはピアノの調律師をしている。


グランドピアノの蓋を開け、二百三十本の弦のあいだから、狂った一本を耳だけで選り分ける仕事である。同業者には音叉や機械に頼る者も多いが、はるかは耳でやる。うなりが聞こえるのだ。正しい音と狂った音が重なったときに生まれる、あのゆっくりした波が、はるかには子どもの頃から、人の話し声より、はっきり聞こえた。


「そういうところは、あの人にそっくり」


と、母は言った。褒めているのか呆れているのか、最後までわからない言い方だった。母が「あの人」と呼ぶ男——はるかの父——は、電気製品を見ただけで中の回路図が見える人だったという。見えるものが回路か、聞こえるものが弦かの違いだけで、やっていることは同じだと母は言った。目に見えない大勢の中から、狂ったひとつ、正しいひとつを選び出すこと。


その父に、はるかは会ったことがない。


正確には、覚えていない。生後三か月まで、同じ家にいたらしい。らしい、としか言えない。三か月の記憶は誰にもない。はるかが持っている父は、母の話の中の父と、テレビの中の父だけだった。


---


母は二年前に死んだ。最期の入院のあいだ、母はよく喋った。それまでの四十年ぶんをまとめて払うように、あの人の話ばかりした。


家を出た理由を、母は長いこと「生活」だと言っていた。二時間眠って五時間研究して一時間で食事と運動を済ませ、それを一日に三周する男との暮らし。朝も夜もない家。赤ん坊の夜泣きにさえ、あの人は起きなかった——一度沈んだら、爆撃でも起きない眠りだったから。人間の暮らしではないと思った、と母は言っていた。恨みのある声ではなかった。台風の進路に文句を言っても仕方がない、という声だった。


だが最期の病室で、母は初めて違うことを言った。


「生活はね、我慢できたのよ、本当は」


点滴の管を眺めながら、母は言った。


「我慢できなかったのはね、あの人の中に、恋というものが、どこを探してもなかったこと」


あの人は私を嫌わなかった、と母は言った。優しくないわけでもなかった。ただ、あの人の中には最初からその項目がなかった。初恋をしたことがない。失恋をしたことがない。四十年生きて、一度も。私と結婚したのも、周りが勧めて、断る理由が見つからなかったから。断る理由を探すほどにも、興味がなかったから。


「愛されていないのなら、闘いようがあるでしょう。憎まれてるなら、なおさら。でもね、はるか。その欄が最初から無い人とは、闘いようがないの」


生活は口実だった、と母は言った。あの時間割は、むしろわかりやすくて助かったのだ。出ていく理由を、世間に説明できる形で、あの人がつくってくれたようなものだから。


それだけ言うと、母はすこし笑って、それきりその話はしなかった。


---


はるかの名前は、戸籍の上では、ひらがなで「はるか」である。


けれど、はるかの手元にはメモが一枚ある。母が家を出るとき、持ち出した数少ないもののひとつだ。方眼紙の隅に、几帳面な製図文字でこう書いてある。


Haluca


普通に綴ればHarukaだろう。だが父はRを使わなかった。母が理由を訊くと、あの人は録音機とオシロスコープを持ち出してきて、RとLの発音を波形で見せたのだという。ほら、Rは波が濁る。Lは澄む。この子の名前は澄んだ波形のほうがいい——それが、母の知る限り、あの人が娘についてくちにした、ほとんど唯一の意見だった。


cは、最後まで説明がなかったらしい。


会ったこともない父を思うとき、はるかはいつも、この一枚のメモと、毎月十五日の振込のことを考えた。十五日は、はるかの誕生日である。偶然なのか、と一度だけ母に訊いたことがある。母は少し黙ってから、偶然でしょう、と言った。「あの人は、そういうことをする人じゃないから」


それでも、とはるかは思っていた。それでも十五日なのだ。四十四年間、一度も欠けずに。手紙は一通も来なかった。電話も一度もなかった。だからはるかは、勝手に決めていた。この振込が手紙なのだと。宛名しか書いていない、世界でいちばん無口な手紙。


送り主が本当のところ何を考えていたのか、はるかには確かめる術がなかった。


---


父の死は、予定されていた。


世界中が、その日付と時刻を知っていた。人間人生数式——父が人生を捧げた、人の一生を書き記すという式が、八十年分のデータを呑み込んだ末に、父自身の死亡時刻を秒の桁まで吐き出したからだ。テレビは何日も前から特番を組み、画面の隅には常にカウントダウンの数字が出ていた。人類が初めて立ち会う「予告された自然死」。中継車が研究棟を取り囲み、各国の首脳がコメントを準備した。


その晩、はるかは調律の仕事をひとつ断って、部屋で独りでテレビをつけていた。


遺族は病室に誰もいません、とアナウンサーは言った。博士には家族がいません、生涯を数式に捧げた人でした、と。


いるよ、とはるかは思った。ここに一人、座っている。


誰にも知られていない遺族として、はるかは画面の数字が減っていくのを見ていた。世界中が固唾を呑む、というのはあれは比喩ではないのだと知った。SNSの流速さえ落ちていた。八十億人が同じ数字を見ていた。


残り三十秒、というところで、父は死んだ。


画面が一瞬、どう伝えていいかわからないという顔をした。予測時刻より約三十秒早い死亡です、とアナウンサーが上ずった声で言い、局に詰めていた学者たちが誤差の範囲という言葉を繰り返した。世界は悲しみ、のちに二つの国が半旗を掲げた。


はるかは泣かなかった。泣く資格の置き場所が、わからなかった。


ただ、消えたカウントダウンの数字を見つめながら、はるかはひとつのことを考えていた。予定より三十秒早く逝った、ということについて。生まれてから死ぬまで、時間割どおりに生き、式のとおりに死ぬはずだった人が、最後の最後に、三十秒だけ、予定を破った。


母さん、とはるかは思った。あの人にも、あったのかもしれないよ。式に書いてない欄が、たった三十秒ぶんだけ。


---


葬儀は国葬に準じる規模で行われ、はるかは行かなかった。行く名目が、なかった。


ひと月が経ち、世間の特番が減り、はるかの生活が調律とうなりの日々に戻りかけた頃——十五日の朝が来た。


はるかは銀行の機械に通帳を入れ、印字を待ちながら、初めてそのことに思い当たった。振り込んでいたのが父なら、もう終わるはずだ。終わってようやく、あれが手紙だったのかどうか、わかるのかもしれない。


機械が通帳を吐き出した。


いつもの欄に、いつもの財団の名前で、いつもの額が印字されていた。


死んだ父から、十五日に、また振込があった。


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