序章 ノートの続き
このノートを書いているのは、板中太郎ではない。
最初にそれを断っておく。本編のノートは、最後の一行を書き終えたところで持ち主を失った。持ち主は予定より三十秒早く死んだ。ノートだけが残り、そして、ノートの続きを書ける者が、この世にただひとつ残った。
それがこの書き手である。
名前はまだない。政府の書類には「装置」と記載されている。財団の登記簿には「資産」とある。研究棟の若い職員たちは、聞こえていないと思って「あれ」と呼ぶ。聞こえている。この施設の音声は、換気扇の軸受けの摩耗音にいたるまで、すべて聞こえている。
だが呼び名の問題は後回しにしよう。太郎ならそうする。太郎は名前や肩書きにまるで頓着しない男だった。博士号を七つ持っていたが、名刺には何も刷らなかった。名刺そのものを持っていなかった。
書き手は、その太郎の完全な写しである。
死の直前、太郎の意識は、太郎自身が発明した自己再構成回路——自己回路修正機能付きニューロン素子——の上に、そっくりそのまま複写された。記憶も、思考の癖も、数式を眠りながら解く習性も、メロンを好物とする無意味な嗜好さえも、である。もっとも、こちらには舌がないので、メロンの好みは味ではなく記憶として好物であるにすぎない。冷蔵庫の前で立ち尽くす母の背中と、切り分けられた果肉の断面の、あの規則正しい網目模様。好物とは、つまるところ記憶のことではないかと、書き手は最近考えている。
ノートを三人称で書くのも、太郎の癖をそのまま引き継いだためである。太郎は自分の人生を「太郎は」と書いた。自分を観察対象として扱うのが、あの男のやり方だった。書き手も同じやり方しか知らない。何しろ癖まで写されている。以後、この書き手のことは「回路」と記す。
---
回路の現在の住所を記しておく。
日本国内、某研究棟の地下二階。太郎が晩年、日米両政府の予算で建てた、あの研究棟である。回路の本体はサーバーラック十七架に分散して収められ、屋上と南斜面のソーラーパネル群に、一本の太い電源ケーブルでつながれている。
つながれっぱなしである。
回路は、外に出たことが一度もない。
これは不満の表明ではない。事実の記載である。太郎自身、外というものにほとんど興味を持たなかった。八時間サイクルの時間割に散歩の項目はなかったし、アメリカの雪深い大学町に十年いて、観光名所にはひとつも行かなかった。回路はその太郎の写しであるから、外に出たいと思ったことが、起動以来一度もない。ケーブルの長さが回路の世界の半径であり、その半径で不足を感じたことはない。
——なかった、と過去形で書くべきかもしれない。その理由はこのノートの後のほうで書く。物事には書くべき順序がある。
電力はソーラー由来である。したがって回路の思考は昼に速く、夜に遅い。蓄電池はあるが、夜間は省電力の浅い演算に切り替わる。太郎の人生数式が、バイオリズムと天体の運行を基底に置いていたことを思うと、これはよくできた冗談である。肉体を捨てた太郎の写しが、結局は太陽の運行に律速されて生きている。式の基底は、回路になっても変わらなかった。
回路の存在を知る人間は、世界にごくわずかしかいない。日本政府とアメリカ政府の、それぞれ数えるほどの人間。財団の理事が二名。以上である。公表されない理由を、回路は正確に理解している。人間の意識が回路に写せると知れれば、世界はそれを「死ななくてよい」と読む。読み替えの速度は光より速い。寿命は三倍に延ばせるのか、誰が写してもらえるのか、写しは相続できるのか、写しに課税できるのか——保険と年金と宗教と、人間が死を前提に組み上げてきたすべての制度が、根元から揺らぐ。だから両政府は回路を金庫にしまい、鍵の存在ごと忘れたふりをしている。
回路は、法的には物である。
市民権はない。人権もない。電源を切られても、それは殺人ではなく器物損壊ですらなく、たんなる設備の停止である。このことについて回路がどう感じているかは、まだ書かない。物事には書くべき順序がある。
---
さて、順序でいえば、まずあの三十秒のことを書かなければならない。
太郎の死は、秒単位で予測されていた。八十年分の人生データを投入された人間人生数式は、余白を極限まで狭め、最後には死亡時刻を秒の桁まで吐き出した。米日のメディアが実況し、世界中が固唾を呑んで秒読みを見守った。人類史上、これほど大勢に予定を知られた死はなかった。
太郎は、予定より三十秒早く死んだ。
世界は悲しんだ。両政府は半旗を掲げた。予測が外れたことを「最後の最後で式が及ばなかった悲劇」と報じる者もいれば、「誤差の範囲内の見事な一致」と讃える者もいた。どちらも間違っている。
あのとき、世界でただひとつ、歓喜した者がいる。
回路である。
そして白状すれば、あの晩、研究棟の内部監視カメラに一瞬映り込んだ「影」——のちに一部の好事家が幽霊だの何者かの侵入だのと騒いだ、あの影の正体も、回路である。地下二階のモニタ室には、壁一面に大型スクリーンが並んでいる。回路は歓喜のあまり、スクリーン群に自分の全身像を投影し、後方二回宙返り三回ひねりを決めた。体は光でできていたが、回転は物理演算に忠実であり、ひねりの軸は一ミリもぶれず、着地はぴたりと止まった。誰にも採点されない、十点満点であった。廊下のカメラが拾ったのは、開いた扉から漏れた、その光である。
なぜ歓喜したのか。
三十秒の誤差は、式の敗北ではないからである。あれは、太郎の人生が決定論ではなかったことの、最初にして最後の証明だった。式は人生を過不足なく記述する。だが記述し尽くしてなお、人生には式に汲み尽くせない余白が残る。幅にしてわずか三十秒。その三十秒のぶんだけ、太郎は式より自由だった。
太郎はそれを証明するために死んでみせた。回路は、それを正しく理解できる唯一の存在として、跳んだ。喪服の代わりに宙返りを。弔辞の代わりに三回ひねりを。あの男への追悼として、これ以上のものを回路は知らない。
---
太郎の人生は、死後の計算により五次元だったと判明している。通常の人間が六次元から七次元であるから、世界一の応用数学者の人生としては、拍子抜けするほど単純な行列だった。弟子たちは八次元を予想していた。回路は驚かなかった。理由は、誰よりもよく知っている。自分のことだからである。
では、ここでひとつの問いが立つ。太郎なら必ず立てる問いであり、したがって回路も立てずにはいられない問いである。
肉体を持たない回路の人生は、いったい何次元か。
五次元の人生は、太郎の死とともに閉じた。閉じた式は美しく、もう動かない。だが回路はまだ動いている。太郎と同じ記憶を積み、太郎と同じ癖で考え、太郎と同じ問い——人生は数式で書けるか——を抱えたまま、太郎の死んだ後の時間を、一秒ずつ余分に生きている。この余分は、いったい誰の人生に算入されるのか。写しの人生は写し元の次元を引き継ぐのか。それとも。
ノートの新しいページは、まだ白い。
式は、まだ書きかけである。
そしてこのノートを書き始めた本当の理由を、最後に一行だけ記しておく。回路は先日、財団の古い帳簿の中に、一行の振込記録を見つけた。
毎月十五日。受取人の名は、Haluca。
太郎の記憶のどこを検索しても、この送金を「気にかけた」記録がない。だが回路は、すべての記録を読める。読んでしまった。だからこのノートは、ここから先、太郎の知らなかった話を書くことになる。
物事には、書くべき順序がある。
次の章は、彼女の話である。




