DAY5 浮上
その夜、僕は酷く嫌な予感を覚えながら眠りについた。それは例えるならば、ギリギリで課題を終えた夏休みの最終日のような。嵐の前触れと呼ぶには静かで、その代わりに緊張感はたっぷりと孕んだそれ。
或いは、取り返しのつかない何かが始まってしまう予感。
それでも睡魔には抗えず、意識はゆっくり沈んでゆく。
深く。
暗く。
海の底へと落ちるように。
♪ ♪ ♪
――目を覚ます。
最初に感じたのは、風だった。
「……え?」
教室じゃない。
潮の臭いもしない。
代わりに頬を撫でるのは、夜風。
ひどく冷たい風だった。キューティクルに自信はないが、抜け落ちないと密かな自慢の剛毛がザワザワと流れる。
気付けば僕は、学校の屋上に立っていた。
「どういう……」
視線を上げる。
そして。
「――っ」
息を呑む。
空だ。
空が、おかしい。
夜空を埋め尽くす星々。
それだけならまだ良い。
問題は、その“密度”だった。
星が、近過ぎる。
手を伸ばせば届きそうなほど低く。
まるで空そのものが落ちてきているみたいに。
無数の星々が、ぎらぎらと。
容赦なく。
学舎を照らしている。
それは綺麗とか、幻想的とか。
そういうレベルの話ではなかった。
――怖い。
本能がそう叫ぶ。
人間は、本来見てはいけないものを見た時、理性より先に恐怖を感じるのだと。
そんな事を、何故か理解した。
星空なのに。
ただの夜空の筈なのに。
どうしてこんなにも悍ましい。
「……起きたかい」
背後から聞こえる声に即座に振り向く。
屋上のフェンス際。
月明かりの中に、渡乃原舟は立っていた。
黒い冬用セーラー服。
夜風に揺れる長い黒髪。
その姿だけ見れば、ただの綺麗な女子生徒なのに。
今夜の彼女は、昼間の彼女とは何処か決定的に違って見えた。
「先輩……」
「見てごらん、海斗」
彼女は夜空を仰ぐ。
「星辰が、揃った」
その瞬間だった。
――ゴウッ。
耳鳴りみたいな音が、空から響いた。
否。これは音ではない。
もっと別の。
人間の脳が“音”として誤認しているだけの何か。
頭蓋の奥を直接掻き回されるような感覚。
吐き気。
眩暈。
視界の歪み。
星々が蠢いている。
空が、生きている。
「ぁ……ぐ……」
膝が笑う。
立っていられない。
視界の端で、校舎が軋む。
コンクリートが悲鳴を上げている。
なのに周囲は静かだった。
余りにも、静か過ぎる。
まるで世界中の音が死んでしまったみたいに。
「……ぁ」
その時。
一際明るい星が、空に浮かんでいるのが見えた。
フォマルハウト。
魚の口。
それが南の空で、異様なほど赤く輝いている。
そして。
その光を見た瞬間。
僕の脳裏に、“理解”が流れ込んできた。
海。
深海。
沈没都市。
眠る巨影。
巨大な石造建築。
人智を超えた幾何学。
粘つく海水。
空を覆う異形の月。
――ルルイエ。
「ッ、がぁ……!!」
頭を抱える。
脳が理解を拒絶している。
なのに、“向こう側”は容赦なく流し込んでくる。
知識を。
映像を。
狂気を。
「海斗!!」
気付けば、舟先輩が目の前にいた。
彼女の両手が、僕の頬を掴む。
「私を見ろ!!」
その声で、僅かに意識が戻る。
黒い瞳。
その奥に、焦りが見えた。
初めてだった。
彼女がこんな表情を浮かべるのは。
「しっかりしろ。まだ完全には始まっていない!!」
「せ、先輩……これ……」
「最悪のタイミングだ。星辰の収束が早過ぎる……!!」
彼女は舌打ちした。
初めて見る、余裕のない顔だった。
「本来なら、まだ猶予があった。君に選択させる時間も。だが――」
そこでーー空が、軋んだ。
ミシ、と。
まるで世界そのものに亀裂が入ったような音。
瞬間。
夜空の一点が、ひび割れた。
「――は?」
星空が、割れている。
ガラスみたいに。
その裂け目の向こう側に見えたのは。
海だった。
どこまでも暗い。
底のない深海。
そして、その奥。
何か巨大なものが、ゆっくりと――
「見るな!!」
バチン!!
舟先輩の手が、僕の視界を塞ぐ。
直後。
頭の中で何かが絶叫した。
耳ではなく、脳が悲鳴を聞く。
言語にならない咆哮。
理解不能な情報の奔流。
それだけで、視界が赤黒く染まりかける。
「ぐ、ぁ……!!」
「駄目だ、まだ見るな……!! 今の君では、認識するだけで壊れる!!」
彼女の腕が震えている。
いや。
違う。
世界そのものが震えているのだ。
屋上のフェンスが軋み。
校舎が揺れ。
空間そのものが悲鳴を上げている。
そして。
空の裂け目は、ゆっくりと広がり続けていた。
「海斗」
舟先輩が、低く言う。
その声は、今まで聞いたどんな時より真剣だった。
「――時間切れだ」
その瞬間。
彼女の黒髪が、ふわりと浮かぶ。
海中みたいに。
その瞳の奥で、青白い光が揺らめいた。
「今夜、ルルイエが浮上する」




