看守が言った。「どうやら脱獄囚は関節が外せるらしい」
6月1日 誤記編集 八街商店街→勝鹿商店街
私はヨシエの捜索を思い出していた。
どうやらヨシエはその名に誇りを抱いていたらしく、計8回に及ぶ逃亡で白鳥さんを泣かせていた。
8回ともなれば主人が良からぬ奴なんじゃないのかと疑う人の居たが、スキンヘッドで顔中涙と鼻水で酷い事になっている白鳥さんが迎えに訪れると、まるで待っていたかのように平然として主人の下に戻るのだ。
彼女には私も酷い目に遭わされた。
逃げ切る事が目的ではなかったのだろう。時折角の先から尻尾を振って「鬼さん、こちら」をするのだ。
思えば、犬界のツンデレだったのかもしれない。
兄は誰かが困っていると手を差し伸べずにはいられない性分であり、更に兄の慈愛の前では種族の壁などは存在しない。
そういう訳で兄は犬猫をはじめとしたあらゆる困っている動物たちを保護するものだから、一時期引き取り手が不足した時には兄の家はふれあい広場のようになっていた。
恐らく動物たちは秘密のネットワークを持っているんじゃなかろうか。
兄が自分達を断らない事を知っているのだ__と言うより、何だか兄目当てで来ているんじゃないかと思える節さえある。
しかし、それにしてもベランダでワニが日光浴をしていた時の私の気持ちも考えてほしい。
リアルドリトル先生かっ!と突っ込まずにはいられない。
それから、私達の両親の気持ちも。
兄に一人暮らしをさせるとこういう事になるのか、と両親は頭を抱えた。
しかしそのおかげで私は兄の部屋に通う名目を得たのだ。
私は『監視役』という名誉ある勲章を受け賜わった。
兄がいなくなって、私も半ばぐれかかっていたのでこれは全員にとって最善の策だった。
__何故、今そんな事を思い出していたんだっけか、、、そうそう、ヨシエのことだ。
あの茶ブチの中型犬は自身の行動力を見せつけるかのように東西南北あらゆる場所に現れ、消える。
まさに神出鬼没の迷子で私達__というより兄と白鳥さん、そして有志のメンバーを翻弄した。
「あの男に目的地はあるのかしら」
上野さんもうんざりした顔で道の向こう側にいる男を監視している。
最初は必死に取り組んでいた上野さんも、こうもトリッキーな動きをする新木場に疲れたようだ。
マンションを出て直ぐに駅の方へ向かった新木場に電車に乗るのではないかと慌てたが、その焦りを小馬鹿にするように新木場は駅を通り過ぎた。
それから、何の前触れもなく突然走り出したかと思えば、止まって逆走する。
スーパーに立ち寄り、手ぶらで出てくる。
既に4軒のスーパーのウィンドウショッピングを見せられたが、「まだまだ」というように精力的に歩数を稼いでいく。
残念な事に盗聴器の方はお陀仏になってしまっていたが、まだ発信機がある。
これのお陰でまず見逃す事はないだろうからまだましだが、そうじゃなければ精神的によほどやられていたに違いない。
「いったい何を探しているんでしょうね」
「常識じゃないですか?」
「非常識な人はそもそも常識を求めないわよ」
なるほど、説得力がある。
新木場は駅から折り返してマンションを通り過ぎ、今は十葉銭湯のある通りいる。
大まかな地図として、駅からマンションまでの直線と__この二つの間に勝鹿商店街がほぼ並行で存在している__十葉銭湯の通りは直角をなしている。
十葉銭湯はマンションの裏側(駅側を表として)にある通りで、マンションにも近い。
新木場が雨の中この銭湯に行ったのもその近さが理由の一つだろう。
そして現在、__7軒目のスーパーに吸い込まれていった新木場に私達はため息をついた。
もしかしたら、これは奴が常習的にやっている趣味なのかもしれない。
だとしたら、この尾行も無駄足に終わる可能性が高い。
嫌な予感に今度は冷えた汗が額をつたう。
今回、504号室の捜索から始まって結果に結びついたものは何一つなかっただけに自信も薄れていくのだ。
だが、同様に探偵の疑惑である浅草さんの投身疑惑もあり得ない。
別の状況で新木場と浅草さんは靴を交換することとなった。それは間違いない。
しかし、それは一体どこか?
そして問題はそれを知ったからと言って、今現在浅草さんが何処にいるのかを探る事が出来るとは関わらない事だ。
__全てはこの尾行にかかっている。
「え、どういうこと!?」
発信機を見ていた上野さんがうろたえた声をあげる。
「どうしたんですか!?」
「新木場さんの位置情報がスーパーから出ている事になっているの」
私は慌ててスーパーの出入り口を見る。が、近くにいるのは主婦だけだった。
「ちがうわ、出入り口からでてるんじゃないの。反対側からでているのよ
え、あやかちゃん!?」
私は上野さんを置いてスーパーへ走り出した。
直ぐ近くに警備員のおじさんがいたので捕まえる。
「おじさんがトイレに入ってから出てこないの。警備員さん」
こういう時少女であることは便利だ。
警備員のおじさんはトイレの中で倒れているのかもしれない、と私の訴えにすぐさまトイレに向かってくれた。仕事の邪魔をしてしまって申し訳ないが、これも一人の女の人を救うための行為なのだと心の中で許しを請う。
トイレの中を確認した警備員のおじさんは困惑した顔で出てきた。
「お嬢ちゃん、誰もいないみたいだなぁ」
それを聞いて、驚く警備員さんの横をすり抜けて男子トイレに入った。
流石に誰かいるのなら遠慮しようと思ったが、いないなら緊急事態なのだ、失礼する。
トイレはしんとしていて、遠くからスーパー内で流される音源、それから外の車の走る音が聞こえる。
「やられた!」
「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」
びっくりしたように警備員のおじさんが私の肩に手をやる。勝手に入ってきた事を注意するつもりが私の変貌ぶりにそれどころじゃなくなってしまったようだった。
「ねぇ、警備員さん」
「え、なんだい?」
「あれって普段からああなの?」
私は指差した先には、外からの新鮮な空気を取り込んでいる開け放たれた窓があった。




