箱の底に残ったもの
「不思議に思っていたんです。
あの男はあなたを玄関から押し出して、ベランダから逃げたと言うのにあなたはちゃんと奴が逃げた先に辿り着いた。
ベランダから逃げた事すら知りようがなかったはずです。廊下にいたんだから。
あの男に発信機をつけたんですね?」
私の言葉に上野さんがすんと鼻を鳴らして子供のようにこくりと頷く。
通された部屋は整頓されていて所々可愛い小物が飾られて、何だかいい匂いがする。
清潔感のある部屋の様子に、同じ間取りであっても住む人によって雰囲気ががらりと変わるものだな、と改めて思った。(この右隣りの部屋、504号室に関してはハナから頭に入れていない。アレは雰囲気とかそう言うレベルの問題じゃない。どんぐりの中にエントが混じっているようなものだ)
「冬樹に使っていた奴を持っていたの。
あいつがトイレに行っている間に上着から回収しておいた奴。
だってもう別れるんだから赤の他人なんだからしちゃいけないでしょ
それから同じように盗聴器もつけたわ、発信機だけじゃ不安だったから」
こっちも許可なしかぁ、、、報連相ってホント大事。
赤の他人じゃなくてもやっちゃいけない行為だけど、今は倫理を説いている場合じゃないし、そもそもそれは私の役目でもない。
「、、、なんでまたそんな事を」
「私がそういう女だから。
冬樹の靴を新木場さんの玄関で見つけた時、この男があいつを攫ったに違いないって思ったの。で、冬樹に繋がる唯一の手掛かりだったから絶対に見失っちゃいけないって思って。
でも、実際そのおかげで新木場さんが逃げた先があなたのおうちだって分かったの。発信機の動きから左に移動しているのは分かったし、新木場さんが誰かに助けを求めている事、がらがらとベランダの戸が開かれる音から、きっと仲間がそこにいるんだって思って」
「正確には、兄の家ですね。
私は両親と街道沿いで暮らしていますから」
「そうだったのね」
「もちろんばれないようにやったんでしょうけど、あの男は不審に思わなかったんですか?」
「私もびっくりするぐらいスムーズにいったわ。「背中に虫がついてますよ」って失言したんだけどまるで気づかなかった。「え、僕は虫が大の苦手でして!とってくれませんか!!」だって。まだ一度も背中を見せていないのにどうやって私は虫に気付いたのかしらって言い訳を考えていたから、気が抜けちゃった。
あんまりにも隙があるから、この人が凶悪犯っていうのは私の勘違いなんじゃないかとまで一瞬思ったわ」
「迂闊さが売りの男らしいですから」
「それって売りになるのかしら」
「なりません」
「ふふふ、あなたと話していると何だか楽だわ。
頭が空っぽになれて」
上野さんが本当に嬉しそうに笑う。
細められた目元は真っ赤に染まり、あげられた口角はそれでも痛みに耐える様にフルフルと揺れている。
玄関扉を開けた彼女は少し前に別れたはずなのにまるで別人のようで私はぎょっとした。
それでも上野さんは本当に嬉しそうに笑っている。
心の底から私との会話に慰めを、そして逃避を見出しているのだ。
「全部、聞いたんですね?」
彼女は何も答えなかった。ただにこにこと笑みを返す。
その笑みは何て痛々しいんだろう。
責任はないと知りながらも、あの男を責め立てる気持ちがむくむくと沸きあがってきた。
あんな事を言うなんて、、、しかも、それを聞かれていたなんて、、、いや、責任はある。
「上野さん、私がここに来たのはお願いがあるんです」
「いいわよ、何でも聞いてあげる」
まるで絵画の女神のような微笑みが私に向けられる。
思わず顔が赤らむような気がしてぐっとこらえた。本当に美しさって性別の垣根を超えてしまうのだ__え、赤面を堪える方法?あの男の非常識な行為の数々を思い出せば、一発よ。
__まだ顔も知らない浅草さん、
浅草さんはなんで他の人の所へ行くんだろう?こんなに美しい人が傍にいるのに、、、うん、そうだな、発信機と盗聴器つけてくるからか。
「あの男がさっき、家を出ました。
人目を気にしているようで、わざわざ非常階段を使う徹底ぶりです」
しかも、唐草模様の頬かむりまでしていたがシリアスムードの今、口にするのはやめよう。
「これから奴の跡を追います。
それには私だけでは難しい。上野さんの力が必要なんです」
「新木場さんを?なんで?」
「あの男は何かを隠しています
それを知りたい」
私の言葉に上野さんは疲れた様に首をだらだらと横に振った。
「これ以上、知る必要のある事は無いわ。
いや、確かに知らない方が良かったのかもしれない。
ずるい女だわ、そうすれば辛い思いをしなくて済んだって本気で思っている。
新木場さんは優しい人ね、こうなる事が分かっていたんだわ」
「もう何もない」上野さんの虚ろな目の先には何もない。ただ、白い壁と壁が交差している。
「私達に未来はないの」
私が呼び掛けた時、彼女はもう遠い国に行ってしまったようでまるで反応しなかった。
でも__
「いいえ、上野さん
浅草さんが崖から飛び降りたなんて言うのはあり得ないんです」
肩がぴくりと揺れる。
「私はそれをちゃんと証明することができます」
ゆっくりと顔が持ち上げられた。その目に薄っすらと光が灯る。
論理的な思考なんてものは正直なところ今の彼女には関係ないのだろう。
時としてそれは0%の中にも生まれるもの__それに彼女はすがりついたのだ。
「ねぇ上野さん、
まだ、昨日が残っていますよ」
次回更新5月29日月曜予定




