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継母ですが悪役令嬢扱いされたので、義息子を連れて夜逃げすることにした  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第22話 監査院にて

監査院の廊下は、覚えていたより天井が高かった。


灰色の石壁に等間隔で松明が掛かっている。火は魔力灯だ。揺れない。影も動かない。人間の気配がなければ、石の箱の中に放り込まれたようだろう。


隣でユリウスが私の右手を握っていた。左手はディートリヒの外套の裾を掴んでいる。両手がふさがっている。四歳の足は床の石畳に収まらず、一歩ごとに小さく靴音を鳴らしていた。


廊下の先に、長椅子がひとつ。


マルガレーテが座っていた。


黒い外套。手袋は外してある。膝の上で両手を組んでいる。痩せた、と思った。二月にリンデンバートに来た時よりさらに頬がこけている。顎の線が鋭い。


目は合わなかった。


私たちが近づいても、マルガレーテは顔を上げなかった。膝の上の手を見つめていた。


私たちは反対側の壁沿いに立った。長椅子はひとつしかない。座る場所がないのではなく、座る気がなかった。立っていたかった。足の裏で、この石の床を踏んでいたかった。


半年前。


この廊下を、一度だけ歩いたことがある。十二月、雪が降る前の朝。あのときは一人ではなかった。ゲルハルトが一緒だった。監査院の審理で、ユリウスの後見権移管を申し立てられ、私は三冊のノートとリーフェンタール伯の所見書を持って、ここに来た。


あのとき、この廊下は長かった。


今日は——短く感じた。同じ距離のはずなのに。


隣に立つ人が違うからかもしれない。


「エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルト様、ディートリヒ・フォン・ヴァイスフェルト様、マルガレーテ・フォン・グリューネヴァルト様。入廷してください」


扉が開いた。


審理室は前回と同じ部屋だった。


長机がひとつ。向こう側に監査官が二人座っている。手前に椅子が五脚。証人席はない。今日は証言の場ではなく、結果の通達だ。


中央の監査官が書類を広げた。年配の男性。名前はハインリヒと名乗った。白髪混じりの短い髪に、インク染みのある指先。書類を扱う人間の手だ。ヴェーバーと同じ匂いがする。紙とインクの匂い。


ユリウスを膝の上に座らせた。じっとしていられるか不安だったが、ユリウスは黙って座っていた。部屋の空気を感じ取っているのだろう。子どもは大人が思うより場の気配に敏感だ。


ハインリヒが口を開いた。


「本件は、ヴァイスフェルト公爵家の家計に関する会計監査の最終報告、ならびに付随する後見権に関する裁定の通達です」


声は淡々としていた。感情が載っていない。事実を読む声だ。


「まず、会計監査の結果から申し上げます」


書類のページを繰る音が、石壁に小さく反響した。


「調査対象期間は三年。グリューネヴァルト侯爵家執事フリードリヒ・ベルガーが管理していたヴァイスフェルト公爵家の家計帳簿において、医療費、巡回治療師費、使用人給与、修繕費、交際費の五項目にわたり、実費との乖離が認められました」


ハインリヒが数字を読み上げた。


医療費。侍医への月額報酬は銀貨十二枚。帳簿上の記載は銀貨三十枚以上。半年間の差額、百十二枚。


巡回治療師費。帳簿には「巡回治療師巡回費」として月額銀貨八枚が計上されていたが、北部領地に巡回治療師が派遣された記録は存在しない。三年間の計上額、銀貨二百八十八枚。


使用人給与の水増し。修繕費の架空計上。交際費の不明支出。


それぞれの数字が読み上げられるたびに、部屋の空気が重くなった。


「三年間の不正支出の総額は、銀貨五百四十二枚」


五百四十二枚。


ヘルムートの調査で「五百枚超」とされていた額が、精査を経て確定した。一枚の誤差もなく、帳簿の行を一行ずつ辿った結果だ。


マルガレーテは正面を向いたまま動かなかった。


「フリードリヒ・ベルガーに対しては、横領の罪で罰金銀貨六百枚、ならびに帝国内のすべての貴族家への出仕を永久に禁ずる公職追放の処分を決定しました。なお、当人はすでに王都の拘留施設に収容されており、罰金の納付期限は本日より九十日です」


ハインリヒがページを繰った。


「次に、グリューネヴァルト侯爵夫人マルガレーテ・フォン・グリューネヴァルトに対する措置について」


ここだ。


指先が冷たくなった。ユリウスの体温が膝から伝わっている。温かい。この子の体温を、半年以上毎日測ってきた。三十六度四分。三十六度五分。体温のことを考えると、指先の冷えが少しだけ和らいだ。


「昨年十二月に発令した仮処分——ヴァイスフェルト公爵家の家政への関与禁止——を本日付で正式な処分に移行します。マルガレーテ・フォン・グリューネヴァルトは、今後、ヴァイスフェルト公爵家の家計管理、使用人の任免、および養育方針への介入を禁じられます」


書類の上に、双頭の鷲と天秤の紋章が押されていた。赤い印章。魔力封蝋ではない。監査院の公印だ。


マルガレーテの手が、膝の上で動いた。


組んでいた指を解いて、もう一度組み直した。それだけだった。声は出さなかった。


「最後に、ユリウス・フォン・ヴァイスフェルトの後見権について」


ハインリヒが私を見た。


「昨年十二月の審理においてマルガレーテ・フォン・グリューネヴァルトが申し立てた後見権移管の請求は、本日付で正式に棄却します」


棄却。


言葉が、耳の奥で響いた。


「理由は三点。第一に、養育者エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルトが提出した健康管理記録は、六ヶ月以上にわたる体温、食事、投薬、発達の経過を日単位で記録しており、養育環境の適切さを裏付けるに十分と認められること」


ノート。あの革表紙のノート。毎朝、体温を測って、食事を記録して、夜泣きの回数を書いた。


「第二に、リーフェンタール伯の現地所見書およびヴェーバー調査官の報告書が、養育環境の安全性と医療的妥当性を第三者の立場から裏付けていること」


「第三に、先述の会計監査の結果により、申立人側の家計管理に重大な瑕疵が認められ、申立人が適切な養育環境を提供する能力に疑義が生じたこと」


ハインリヒが書類を閉じた。


「以上をもって、ユリウス・フォン・ヴァイスフェルトの後見権は、引き続きエレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルトに帰属するものと裁定します」


部屋が静かだった。


松明の魔力灯がちりちりと音を立てている。さっきまで聞こえなかった音だ。人が黙ると、建物の音が聞こえる。


膝の上のユリウスが、私の服を掴んだ。


「おかあさま」


小さな声だった。何が起きたか分かっていないだろう。でも、部屋の空気が変わったことは感じている。


「大丈夫だよ」


囁いた。ユリウスの手を握った。


ハインリヒが最後に一枚の書類を差し出した。


「ディートリヒ・フォン・ヴァイスフェルト殿。当主に対する仮処分——領地管理権の一部凍結——は本日付で解除します。書類にご署名を」


ディートリヒが椅子から立ち上がった。


机に歩み寄り、ペンを取り、署名した。迷いのない筆跡だった。靴紐を結ぶのと同じだ。一度決めたら、ためらわない。


ハインリヒがペンを受け取り、頷いた。


「以上で本件の審理は終了です。退廷してください」


立ち上がった。ユリウスを抱き上げた。


マルガレーテが先に立ち上がっていた。背筋は伸びていた。崩れてはいなかった。けれど、椅子の肘掛けを掴む手の甲に、白く力が入っているのが見えた。


部屋を出た。


廊下に出た瞬間、息を吐いた。


吐いたつもりはなかった。体が勝手に吐いた。半年分の——いや、一年分の空気を、いま吐き出したような気がした。


ユリウスが私の首に腕を回している。監査院の廊下は寒い。この子に上着をもう一枚着せるべきだった。


「エレオノーラ」


ディートリヒの声だった。


振り向いた。


ディートリヒが一歩近づいて、私の左肩に手を置いた。


右手。大きな手だ。掌の温度が、外套の布越しに伝わった。


何も言わなかった。


ディートリヒは何も言わなかった。私も何も言わなかった。ユリウスが二人の顔を交互に見ていたが、何も聞かなかった。


ただ、指先が——ディートリヒの指先が、微かに震えていた。


肩に置かれた手が震えている。冷えているからではない。この人の手は、冬のリンデンバートで薪を割っていた手だ。屋根を直した手だ。パンを焼いた手だ。冷えくらいで震える手ではない。


三秒だったか、五秒だったか。


手が離れた。


ディートリヒが前を向いた。


「行くぞ」


短い一語だった。いつもの声だった。けれど、声の輪郭が少しだけ揺れていた。


「はい」


三人で廊下を歩いた。来たときと同じ廊下。同じ灰色の石壁。同じ松明。


でも違う。


来たときは、結果を待つ廊下だった。今は、結果を受け取った後の廊下だ。


足が軽い。石の床を踏む感覚が、来たときと違う。


ユリウスが腕の中で体を動かした。


「おかあさま、おわった?」


「終わったよ」


「かえる?」


「帰るよ」


帰る。その言葉が自然に出た。


どこに帰るのか、ユリウスは聞かなかった。聞く必要がなかったのだろう。帰る場所は一つしかないと、この子は知っている。


監査院の玄関は大きなアーチ門だ。外に出ると、四月の日差しが目に入った。王都の空は——灰色ではなかった。薄い青が広がっている。春の空だ。


石段を下りようとしたとき、気配を感じた。


振り返った。


アーチ門の陰に、マルガレーテが立っていた。


一人だった。従者もいない。黒い外套が春の光に浮いて見える。冬のような装いだった。


マルガレーテが私を見た。


目が合った。


半年前、公爵邸の廊下で「あなたがそばにいるから泣くのです」と言ったときの目とは、違っていた。何が違うのかは分からない。色も形も同じ目だ。でも——奥にあるものが、違う。


マルガレーテの口が動いた。


一言だけ。


風が吹いた。四月の風が、石段の上を横切った。マルガレーテの声は風に混じって、輪郭がぼやけた。


聞こえたような気がした。聞こえなかったような気もした。


ディートリヒが石段の下から振り返った。


「どうした」


「——いえ」


マルガレーテはもう背を向けていた。黒い外套が、監査院の柱の陰に消えていく。


ユリウスが私の首元から顔を出した。


「おばあさま、いた?」


「いたよ」


「なにかいった?」


風の中の一言を思い返した。


「……また、今度ね」


ユリウスが不思議そうな顔をしたが、すぐにディートリヒの方を向いた。


「パパ、おなかすいた」


「昼はまだだ」


「すいた」


「まだだと言った」


「おかあさま、おなかすいた」


ディートリヒの声が通らないと分かると、こちらに来る。半年前からずっと変わらない。この子なりの処世術だ。


「お昼にしましょう。どこか見つけましょうね」


三人で石段を下りた。


王都の通りに、春の光が注いでいた。馬車の音、人の声、市場の喧騒。リンデンバートの静けさとは違う。けれどユリウスは怖がらなかった。右手が私の手を握り、左手がディートリヒの外套を掴んでいる。


鞄の中にノートがある。今朝も体温を測った。三十六度五分。食欲良好。


今日の特記事項は、帰ったら書く。


五百四十二枚銀貨。後見権確定。仮処分解除。


そして——ディートリヒ様の手が、震えていたこと。


それは看護記録には書かない。書かなくていい。


覚えているから。

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