表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
継母ですが悪役令嬢扱いされたので、義息子を連れて夜逃げすることにした  作者: 九葉(くずは)
第3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/23

第23話 母と息子

公爵邸の庭は、記憶より広かった。


半年前、この庭に出たのは一度だけだ。婚姻の翌日、使用人に案内されて形だけの散策をした。三月の終わりだったが、空気は冷たく、花壇はまだ冬枯れの灰色で、私は上着の襟を立てて歩いた。あのときは一人だった。


今は違う。


右手にユリウスの手がある。小さくて温かい。四歳の手は半年で少し大きくなった。指の力も強くなった。私の人差し指と中指を握って、石畳を歩いている。


「まま、ひろい」


「広いね」


「リンデンバートよりひろい」


「そうだね。公爵様のお庭だからね」


「パパの?」


「うん。パパの」


ユリウスが石畳の先を見た。庭園は南向きに開けていて、低い石垣の向こうに植え込みが続いている。四月の日差しが石畳を白く照らしていた。王都の空は今日も灰色ではなかった。薄い青に、高い雲が流れている。


廊下から庭に出るとき、使用人が一人、角に立っていた。


若い女性だった。私の顔を見て、一瞬、目を見開いた。見開いたのは驚きだ。私がここにいることが、まだ屋敷の中に浸透しきっていないのだろう。


けれど、すぐに頭を下げた。


「奥方様。何かご入用でしたら、お申し付けください」


奥方様。


半年前、この廊下を歩いたとき、使用人は誰も目を合わせなかった。マルガレーテの声が廊下に響いて、「あなたがそばにいるから泣くのです」と言われたとき、壁際に立っていた使用人たちの目は、床を見ていた。


今、この人は頭を下げている。


何かが変わったのだ。何が変えたのかは分かっている。裁定書だ。監査院の裁定が出て、後見権が確定し、会計監査の結果が公になった。五百四十二枚銀貨の不正。家令フリードリヒの処分。マルガレーテの家政権剥奪。


数字と書面が、屋敷の空気を変えた。


私が変えたわけではない。記録が変えたのだ。ノートに書いた数字。帳簿の写し。リーフェンタール伯の所見書。ヴェーバーの報告。ゲルハルトの証言。それぞれが積み重なって、昨日の裁定になった。


「ありがとうございます。お庭を少し歩くだけですので」


使用人が微笑んで、道を開けた。


ユリウスの手を引いて、庭園の小道に入った。


植え込みの間を歩く。四月の庭は冬とは別の場所のようだった。低木の先に薄緑の芽が出ている。花壇には小さな花がいくつか——黄色い花と、薄紫の花。名前は分からない。この世界の庭園植物にはまだ詳しくない。


「まま、おはな」


ユリウスが花壇を指差した。リンデンバートの裏手に咲いた白い花を思い出しているのだろう。


「きれいだね」


「とっていい?」


「取っちゃだめだよ。お庭のお花だから」


「……みるだけ」


ユリウスが花壇の前にしゃがみ込んだ。花を見ている。指先が花弁に触れかけて、止まった。「見るだけ」ができるようになったのは、リンデンバートでの五ヶ月で身についたことだ。


花壇のそばに、石のベンチがあった。


座った。ユリウスがベンチによじ登って、隣に座った。足が地面に届かない。ぶらぶらと揺らしている。


庭園の奥に、小さな門が見えた。鉄の格子門で、その向こうに緑が深くなっている。


公爵邸に嫁いだとき、あの門の向こうについては何も聞かされなかった。案内もされなかった。けれど、昨日、ユリウスの部屋を南向きに変えた使用人の老女が教えてくれた。


あの門の奥に、アデリーナの墓があると。


ユリウスの手を引いて、格子門まで歩いた。


門は開いていた。鍵はかかっていない。錆びた蝶番が軋んだ。


門の向こうは小さな区画だった。石畳ではなく、苔の上を歩く。木漏れ日が落ちて、空気がひんやりとしている。庭園の華やかさとは違う、静かな場所だった。


奥に、白い石碑がひとつ。


低い石碑だった。膝の高さくらい。表面に名前が刻まれている。


『アデリーナ・フォン・ヴァイスフェルト』


その下に、生年と没年。


ユリウスが生まれた年の、半年後の日付。


ユリウスの手が、私の指を強く握った。四歳の子どもが、場所の空気を感じている。声を出さなかった。ぱたぱたと走り回る足が、ここでは動かない。


「まま」


小さな声だった。


「ここ、だれ」


石碑の文字は、ユリウスにはまだ読めない。


しゃがんで、目線を合わせた。


「ここはね、アデリーナお母さまの場所だよ」


ユリウスの目が大きくなった。


「おそらのおかあさま?」


一月の終わり、雪の日に話したことを覚えている。お空の上にいる人。もう会えないけれど、ずっと見ている人。


「うん。お空にいるけど、ここにも——少しだけ、いるの」


正確な表現ではないかもしれない。けれど四歳の子どもに墓の意味を説明する言葉を、私はまだ持っていなかった。


ユリウスが石碑を見た。


それから、私の顔を見た。私を見て、石碑を見た。


上着のポケットに手を入れた。何か探している。


出てきたのは、小さな白い花だった。


「……ユリウス、それ」


「リンデンバートからもってきた」


いつ摘んだのだろう。出発の前日の朝、ハンナと遊びに出たとき——あのときに摘んで、ポケットに入れたのだ。花はしおれて、花弁の端が茶色くなっている。二日半の馬車旅を、上着のポケットの中で過ごした花。


ユリウスが花を石碑の前に置いた。


丁寧に。両手で。苔の上に、そっと。


「あでりーなおかあさま、おはな」


声が、苔の上の空気に溶けた。


「リンデンバートのおはな。おゆのちかくのやつ。あったかいところにさくの」


私は黙って見ていた。


泣いてはいけない。ここで泣くのはこの子の前ではない。


「あでりーなおかあさま、ここにいるんだね」


ユリウスが石碑を見上げた。


「ままがいった。おそらにいるって。でもここにもいるの?」


「うん。……両方にいるんだと思う」


「ふたつもいるの、すごいね」


四歳の感想だった。死を理解していない。していないまま、花を置いた。それでいい。


ユリウスが私の手を取った。


「まま、かえろ」


「帰ろうか」


「おなかすいた」


格子門を出た。振り返ると、白い石碑の前に、しおれた白い花が一輪あった。苔の緑に、花弁の白が小さく映えていた。


この景色を、ノートに書こう。体温や食事量の記録ではない。でも——この子の成長の記録だ。


部屋に戻ると、ディートリヒはまだいなかった。


朝、「母上に会ってくる」と言って出ていった。黒い正装のまま。どこで会うのかは聞かなかった。公爵邸の中か、マルガレーテの滞在先か。聞く必要はなかった。あの人が行くと決めたなら、行く。靴紐を結ぶように。


ユリウスにパンとスープを食べさせた。昨日、使用人が用意してくれた食材が台所にある。リンデンバートの竈とは違う、ちゃんとした台所だ。火の調整が楽で、少し拍子抜けした。


ユリウスが食べ終わって、寝台に転がった。馬車旅の疲れがまだ残っているのだろう。すぐに寝息が聞こえた。


窓の外に、庭園の緑が見えた。四月の日差しが傾き始めている。


ノートを開いた。


今日の記録。体温三十六度五分。食欲良好。昼食はパンとスープ。午後は庭園を散歩。


特記事項——


『本日午後、公爵邸の庭園を散歩。格子門の奥のアデリーナの墓所を訪れた。ユリウスがリンデンバートから持参した白い花を墓前に供えた。「あでりーなおかあさま、ここにいるんだね」と発言。死の概念は未理解だが、「大切な場所」として認識している様子。情緒面の発達は順調と思われる』


ペンを止めた。


もう一行、書きたかった。


書いた。


『花はしおれていたが、ユリウスのポケットの中で二日半、生きていた』


看護記録に書くことではない。でも、この子の記録だ。


夕方の光が部屋に差し込んでいた。


扉が開いた。


ディートリヒが入ってきた。正装の外套を脱いで、椅子の背にかけた。靴を脱いだ。一連の動作がゆっくりだった。疲れているのだろう。


寝台のユリウスを見て、寝息を確認した。それから椅子に座った。


「お帰りなさい」


「ああ」


テーブルに茶を出した。使用人が持ってきた南部の茶葉で淹れたもの。ディートリヒが椀を受け取り、一口飲んだ。


沈黙が落ちた。竈の音はしない。公爵邸の台所は薪ではなく魔力灯の火だ。音がない。


「母上に会った」


ディートリヒが茶碗を机に置いた。


「どちらで」


「ここだ。この屋敷の、客間で」


客間。マルガレーテはこの屋敷の主人だったが、今は家政権を失っている。自分の屋敷に、客として来たのだ。


「母上は——」


ディートリヒが言葉を探しているのが分かった。この人は会話の途中で間を置くことが増えた。以前は「ああ」か「悪くない」で済ませていたのに、今は言葉を選ぼうとする。


「裁定のことは受け入れていた。家政権の剥奪も、フリードリヒの処分も。異議は言わなかった」


「そうですか」


「一つだけ聞いてきた」


「何を」


「あんたの菓子の作り方を」


予想していなかった言葉だった。


「菓子の——」


「卵を使わない焼き菓子。リンデンバートで、ユリウスが母上に渡した、あれだ。あの作り方を教えてほしいと」


マルガレーテが、私の菓子の作り方を聞いた。


あの面会の日、ユリウスが菓子を差し出して、マルガレーテが一口食べて、「卵を使っていないのね」と言った。「昔から卵を食べると喉の奥が少し腫れる」と。


あのとき私は知らなかった。マルガレーテの体質を。偶然、ユリウスのために卵を抜いた菓子が、マルガレーテにも合った。ゲルハルトが「記録をつけている人間の偶然は、ただの偶然とは違う」と言った。


「教えるも何も、粉と蜂蜜と油だけの、素朴な菓子です」


「そう伝えた。母上は——」


ディートリヒがまた間を置いた。


「作ってみる、と言った」


マルガレーテが、菓子を作る。


管理し、掌握し、計画の中に置く。使用人に指示を出し、報告を受ける。自分の手を動かすことのなかった人が、菓子を作ると言った。


「驚きました」


「俺もだ」


ディートリヒが茶をもう一口飲んだ。


「母上は——変わり始めているのかもしれん。変わり切るかは分からんが」


ゲルハルトが言っていた。「芽が出たところだ。踏むな。だが甘やかすな」。


「それと——」


ディートリヒの声が低くなった。低くなるのは、次の言葉が重いときだ。


「母上が、明日、ユリウスに会いたいと言っている」


「ここで、ですか」


「いや。この屋敷ではなく、外で。王都の市場の近くに、小さな茶房があるそうだ。そこで会いたいと」


外で。公爵邸ではなく。


マルガレーテが、自分の領域ではない場所を指定した。管理できる場所ではなく、開かれた場所を。


「条件は——前と同じでいいか。立会人をつけて、半日以内」


「はい」


「俺も同席する。今度は離れない」


ディートリヒが椅子の背に体を預けた。天井を見ている。低い天井ではない。公爵邸の天井は高い。リンデンバートの離れとは違う。


「母上は——ユリウスに謝りたいのかもしれん」


静かな声だった。


「四歳の子どもに、何を謝るか。言葉で伝わるとは思えん。だが、母上はそういう人間だ。手続きと形式で物事を整える。謝るにも、場所と手順を考える」


手続きには手続きで。


あの言葉が、今度は別の意味を帯びた。マルガレーテは加害の手続きを踏んだ人だ。けれど同時に、変わるための手続きも——踏もうとしているのかもしれない。


「ディートリヒ様」


「なんだ」


「今日、ユリウスとアデリーナさんのお墓に行きました」


ディートリヒの視線が天井から降りてきた。


「ユリウスがリンデンバートから持ってきた花を供えました。ポケットの中で二日半、しおれていましたけど」


「……あいつは花を盗る癖がある」


「摘むな、と言ったんですが」


「言っても聞かん年だ」


ディートリヒの口元が動いた。笑ったのだ。小さく、短く。


「アデリーナの墓に——ユリウスが花を」


声が変わった。笑いが消えて、低くなった。低くて静かで、重い声。


「ああ」


それだけ言った。


何も言わなかった。ディートリヒも何も言わなかった。窓の外で、夕暮れの光が庭園の木々を橙色に染めていた。


ユリウスが寝台で寝返りを打った。


「……ぱぱ」


寝言だった。目は開いていない。


「……おはな……おかあさま……」


墓所の夢を見ているのだろうか。あるいは、リンデンバートの白い花の夢か。


ディートリヒが寝台に近づいた。


膝を折って、ユリウスの寝顔を見下ろした。大きな手が伸びて、小さな頭に触れた。二月の雨の夜と同じだ。一度だけ、そっと髪を撫でた。


今度は一度では終わらなかった。


二度、三度。指先で、前髪を額からそっとよけた。


「……ありがとう」


低い声だった。誰に言っているのか分からなかった。ユリウスに。アデリーナに。私に。全部かもしれない。


手を引いて、立ち上がった。何事もなかったように机に戻り、書類を広げた。


私は寝台の傍に座ったまま、しばらく動けなかった。


胸の奥が温かかった。


この温かさに名前をつけるのは、まだ早い。まだまとまっていない。この人の言葉を借りれば——まとまらん。


でも、確かにある。


ノートを開いた。


今日の最後の記録を書く。


体温三十六度五分。夕食後に入眠。寝言あり。


特記事項——


『明日、マルガレーテ様との面会予定。場所は王都の茶房。ディートリヒ様同席。ユリウスの反応を観察する』


看護記録の書き方だ。客観的で、淡白で。


最後に一行足した。


『ディートリヒ様がユリウスの髪を三度撫でた。前回は一度だった。増えている』


これは看護記録ではない。


この家の記録だ。


ペンを置いた。


窓の外に、王都の夜空が広がっていた。星はリンデンバートほど多くはない。街の灯りが空を薄く照らしている。


でも、二つか三つは見えた。


明日は、晴れるだろうか。


ユリウスの寝息と、ディートリヒのペンの走る音が、部屋の中に静かに響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ