第23話 母と息子
公爵邸の庭は、記憶より広かった。
半年前、この庭に出たのは一度だけだ。婚姻の翌日、使用人に案内されて形だけの散策をした。三月の終わりだったが、空気は冷たく、花壇はまだ冬枯れの灰色で、私は上着の襟を立てて歩いた。あのときは一人だった。
今は違う。
右手にユリウスの手がある。小さくて温かい。四歳の手は半年で少し大きくなった。指の力も強くなった。私の人差し指と中指を握って、石畳を歩いている。
「まま、ひろい」
「広いね」
「リンデンバートよりひろい」
「そうだね。公爵様のお庭だからね」
「パパの?」
「うん。パパの」
ユリウスが石畳の先を見た。庭園は南向きに開けていて、低い石垣の向こうに植え込みが続いている。四月の日差しが石畳を白く照らしていた。王都の空は今日も灰色ではなかった。薄い青に、高い雲が流れている。
廊下から庭に出るとき、使用人が一人、角に立っていた。
若い女性だった。私の顔を見て、一瞬、目を見開いた。見開いたのは驚きだ。私がここにいることが、まだ屋敷の中に浸透しきっていないのだろう。
けれど、すぐに頭を下げた。
「奥方様。何かご入用でしたら、お申し付けください」
奥方様。
半年前、この廊下を歩いたとき、使用人は誰も目を合わせなかった。マルガレーテの声が廊下に響いて、「あなたがそばにいるから泣くのです」と言われたとき、壁際に立っていた使用人たちの目は、床を見ていた。
今、この人は頭を下げている。
何かが変わったのだ。何が変えたのかは分かっている。裁定書だ。監査院の裁定が出て、後見権が確定し、会計監査の結果が公になった。五百四十二枚銀貨の不正。家令フリードリヒの処分。マルガレーテの家政権剥奪。
数字と書面が、屋敷の空気を変えた。
私が変えたわけではない。記録が変えたのだ。ノートに書いた数字。帳簿の写し。リーフェンタール伯の所見書。ヴェーバーの報告。ゲルハルトの証言。それぞれが積み重なって、昨日の裁定になった。
「ありがとうございます。お庭を少し歩くだけですので」
使用人が微笑んで、道を開けた。
ユリウスの手を引いて、庭園の小道に入った。
植え込みの間を歩く。四月の庭は冬とは別の場所のようだった。低木の先に薄緑の芽が出ている。花壇には小さな花がいくつか——黄色い花と、薄紫の花。名前は分からない。この世界の庭園植物にはまだ詳しくない。
「まま、おはな」
ユリウスが花壇を指差した。リンデンバートの裏手に咲いた白い花を思い出しているのだろう。
「きれいだね」
「とっていい?」
「取っちゃだめだよ。お庭のお花だから」
「……みるだけ」
ユリウスが花壇の前にしゃがみ込んだ。花を見ている。指先が花弁に触れかけて、止まった。「見るだけ」ができるようになったのは、リンデンバートでの五ヶ月で身についたことだ。
花壇のそばに、石のベンチがあった。
座った。ユリウスがベンチによじ登って、隣に座った。足が地面に届かない。ぶらぶらと揺らしている。
庭園の奥に、小さな門が見えた。鉄の格子門で、その向こうに緑が深くなっている。
公爵邸に嫁いだとき、あの門の向こうについては何も聞かされなかった。案内もされなかった。けれど、昨日、ユリウスの部屋を南向きに変えた使用人の老女が教えてくれた。
あの門の奥に、アデリーナの墓があると。
ユリウスの手を引いて、格子門まで歩いた。
門は開いていた。鍵はかかっていない。錆びた蝶番が軋んだ。
門の向こうは小さな区画だった。石畳ではなく、苔の上を歩く。木漏れ日が落ちて、空気がひんやりとしている。庭園の華やかさとは違う、静かな場所だった。
奥に、白い石碑がひとつ。
低い石碑だった。膝の高さくらい。表面に名前が刻まれている。
『アデリーナ・フォン・ヴァイスフェルト』
その下に、生年と没年。
ユリウスが生まれた年の、半年後の日付。
ユリウスの手が、私の指を強く握った。四歳の子どもが、場所の空気を感じている。声を出さなかった。ぱたぱたと走り回る足が、ここでは動かない。
「まま」
小さな声だった。
「ここ、だれ」
石碑の文字は、ユリウスにはまだ読めない。
しゃがんで、目線を合わせた。
「ここはね、アデリーナお母さまの場所だよ」
ユリウスの目が大きくなった。
「おそらのおかあさま?」
一月の終わり、雪の日に話したことを覚えている。お空の上にいる人。もう会えないけれど、ずっと見ている人。
「うん。お空にいるけど、ここにも——少しだけ、いるの」
正確な表現ではないかもしれない。けれど四歳の子どもに墓の意味を説明する言葉を、私はまだ持っていなかった。
ユリウスが石碑を見た。
それから、私の顔を見た。私を見て、石碑を見た。
上着のポケットに手を入れた。何か探している。
出てきたのは、小さな白い花だった。
「……ユリウス、それ」
「リンデンバートからもってきた」
いつ摘んだのだろう。出発の前日の朝、ハンナと遊びに出たとき——あのときに摘んで、ポケットに入れたのだ。花はしおれて、花弁の端が茶色くなっている。二日半の馬車旅を、上着のポケットの中で過ごした花。
ユリウスが花を石碑の前に置いた。
丁寧に。両手で。苔の上に、そっと。
「あでりーなおかあさま、おはな」
声が、苔の上の空気に溶けた。
「リンデンバートのおはな。おゆのちかくのやつ。あったかいところにさくの」
私は黙って見ていた。
泣いてはいけない。ここで泣くのはこの子の前ではない。
「あでりーなおかあさま、ここにいるんだね」
ユリウスが石碑を見上げた。
「ままがいった。おそらにいるって。でもここにもいるの?」
「うん。……両方にいるんだと思う」
「ふたつもいるの、すごいね」
四歳の感想だった。死を理解していない。していないまま、花を置いた。それでいい。
ユリウスが私の手を取った。
「まま、かえろ」
「帰ろうか」
「おなかすいた」
格子門を出た。振り返ると、白い石碑の前に、しおれた白い花が一輪あった。苔の緑に、花弁の白が小さく映えていた。
この景色を、ノートに書こう。体温や食事量の記録ではない。でも——この子の成長の記録だ。
部屋に戻ると、ディートリヒはまだいなかった。
朝、「母上に会ってくる」と言って出ていった。黒い正装のまま。どこで会うのかは聞かなかった。公爵邸の中か、マルガレーテの滞在先か。聞く必要はなかった。あの人が行くと決めたなら、行く。靴紐を結ぶように。
ユリウスにパンとスープを食べさせた。昨日、使用人が用意してくれた食材が台所にある。リンデンバートの竈とは違う、ちゃんとした台所だ。火の調整が楽で、少し拍子抜けした。
ユリウスが食べ終わって、寝台に転がった。馬車旅の疲れがまだ残っているのだろう。すぐに寝息が聞こえた。
窓の外に、庭園の緑が見えた。四月の日差しが傾き始めている。
ノートを開いた。
今日の記録。体温三十六度五分。食欲良好。昼食はパンとスープ。午後は庭園を散歩。
特記事項——
『本日午後、公爵邸の庭園を散歩。格子門の奥のアデリーナの墓所を訪れた。ユリウスがリンデンバートから持参した白い花を墓前に供えた。「あでりーなおかあさま、ここにいるんだね」と発言。死の概念は未理解だが、「大切な場所」として認識している様子。情緒面の発達は順調と思われる』
ペンを止めた。
もう一行、書きたかった。
書いた。
『花はしおれていたが、ユリウスのポケットの中で二日半、生きていた』
看護記録に書くことではない。でも、この子の記録だ。
夕方の光が部屋に差し込んでいた。
扉が開いた。
ディートリヒが入ってきた。正装の外套を脱いで、椅子の背にかけた。靴を脱いだ。一連の動作がゆっくりだった。疲れているのだろう。
寝台のユリウスを見て、寝息を確認した。それから椅子に座った。
「お帰りなさい」
「ああ」
テーブルに茶を出した。使用人が持ってきた南部の茶葉で淹れたもの。ディートリヒが椀を受け取り、一口飲んだ。
沈黙が落ちた。竈の音はしない。公爵邸の台所は薪ではなく魔力灯の火だ。音がない。
「母上に会った」
ディートリヒが茶碗を机に置いた。
「どちらで」
「ここだ。この屋敷の、客間で」
客間。マルガレーテはこの屋敷の主人だったが、今は家政権を失っている。自分の屋敷に、客として来たのだ。
「母上は——」
ディートリヒが言葉を探しているのが分かった。この人は会話の途中で間を置くことが増えた。以前は「ああ」か「悪くない」で済ませていたのに、今は言葉を選ぼうとする。
「裁定のことは受け入れていた。家政権の剥奪も、フリードリヒの処分も。異議は言わなかった」
「そうですか」
「一つだけ聞いてきた」
「何を」
「あんたの菓子の作り方を」
予想していなかった言葉だった。
「菓子の——」
「卵を使わない焼き菓子。リンデンバートで、ユリウスが母上に渡した、あれだ。あの作り方を教えてほしいと」
マルガレーテが、私の菓子の作り方を聞いた。
あの面会の日、ユリウスが菓子を差し出して、マルガレーテが一口食べて、「卵を使っていないのね」と言った。「昔から卵を食べると喉の奥が少し腫れる」と。
あのとき私は知らなかった。マルガレーテの体質を。偶然、ユリウスのために卵を抜いた菓子が、マルガレーテにも合った。ゲルハルトが「記録をつけている人間の偶然は、ただの偶然とは違う」と言った。
「教えるも何も、粉と蜂蜜と油だけの、素朴な菓子です」
「そう伝えた。母上は——」
ディートリヒがまた間を置いた。
「作ってみる、と言った」
マルガレーテが、菓子を作る。
管理し、掌握し、計画の中に置く。使用人に指示を出し、報告を受ける。自分の手を動かすことのなかった人が、菓子を作ると言った。
「驚きました」
「俺もだ」
ディートリヒが茶をもう一口飲んだ。
「母上は——変わり始めているのかもしれん。変わり切るかは分からんが」
ゲルハルトが言っていた。「芽が出たところだ。踏むな。だが甘やかすな」。
「それと——」
ディートリヒの声が低くなった。低くなるのは、次の言葉が重いときだ。
「母上が、明日、ユリウスに会いたいと言っている」
「ここで、ですか」
「いや。この屋敷ではなく、外で。王都の市場の近くに、小さな茶房があるそうだ。そこで会いたいと」
外で。公爵邸ではなく。
マルガレーテが、自分の領域ではない場所を指定した。管理できる場所ではなく、開かれた場所を。
「条件は——前と同じでいいか。立会人をつけて、半日以内」
「はい」
「俺も同席する。今度は離れない」
ディートリヒが椅子の背に体を預けた。天井を見ている。低い天井ではない。公爵邸の天井は高い。リンデンバートの離れとは違う。
「母上は——ユリウスに謝りたいのかもしれん」
静かな声だった。
「四歳の子どもに、何を謝るか。言葉で伝わるとは思えん。だが、母上はそういう人間だ。手続きと形式で物事を整える。謝るにも、場所と手順を考える」
手続きには手続きで。
あの言葉が、今度は別の意味を帯びた。マルガレーテは加害の手続きを踏んだ人だ。けれど同時に、変わるための手続きも——踏もうとしているのかもしれない。
「ディートリヒ様」
「なんだ」
「今日、ユリウスとアデリーナさんのお墓に行きました」
ディートリヒの視線が天井から降りてきた。
「ユリウスがリンデンバートから持ってきた花を供えました。ポケットの中で二日半、しおれていましたけど」
「……あいつは花を盗る癖がある」
「摘むな、と言ったんですが」
「言っても聞かん年だ」
ディートリヒの口元が動いた。笑ったのだ。小さく、短く。
「アデリーナの墓に——ユリウスが花を」
声が変わった。笑いが消えて、低くなった。低くて静かで、重い声。
「ああ」
それだけ言った。
何も言わなかった。ディートリヒも何も言わなかった。窓の外で、夕暮れの光が庭園の木々を橙色に染めていた。
ユリウスが寝台で寝返りを打った。
「……ぱぱ」
寝言だった。目は開いていない。
「……おはな……おかあさま……」
墓所の夢を見ているのだろうか。あるいは、リンデンバートの白い花の夢か。
ディートリヒが寝台に近づいた。
膝を折って、ユリウスの寝顔を見下ろした。大きな手が伸びて、小さな頭に触れた。二月の雨の夜と同じだ。一度だけ、そっと髪を撫でた。
今度は一度では終わらなかった。
二度、三度。指先で、前髪を額からそっとよけた。
「……ありがとう」
低い声だった。誰に言っているのか分からなかった。ユリウスに。アデリーナに。私に。全部かもしれない。
手を引いて、立ち上がった。何事もなかったように机に戻り、書類を広げた。
私は寝台の傍に座ったまま、しばらく動けなかった。
胸の奥が温かかった。
この温かさに名前をつけるのは、まだ早い。まだまとまっていない。この人の言葉を借りれば——まとまらん。
でも、確かにある。
ノートを開いた。
今日の最後の記録を書く。
体温三十六度五分。夕食後に入眠。寝言あり。
特記事項——
『明日、マルガレーテ様との面会予定。場所は王都の茶房。ディートリヒ様同席。ユリウスの反応を観察する』
看護記録の書き方だ。客観的で、淡白で。
最後に一行足した。
『ディートリヒ様がユリウスの髪を三度撫でた。前回は一度だった。増えている』
これは看護記録ではない。
この家の記録だ。
ペンを置いた。
窓の外に、王都の夜空が広がっていた。星はリンデンバートほど多くはない。街の灯りが空を薄く照らしている。
でも、二つか三つは見えた。
明日は、晴れるだろうか。
ユリウスの寝息と、ディートリヒのペンの走る音が、部屋の中に静かに響いていた。




